Fly me to the Moon
「ご飯できたわよ」
穏やかな時を過ごしている中、潜めもしない足音がいきなりドアを開け、言葉遣いに不似合いな低い声がかけられた。
見るとそこには、いつか私を幽霊だと思っていたあの失礼な店員が仁王立ちしている。
「『ルイ』入るならノックして、お返事を待ってからでしょう。裸だったらどうするの」
「期待してたから残念だった」
自分の言動が失礼な事だなんて思っても居ないのだろう、大真面目な顔でそう言って「早く来いよ」とドアを開け放ったまま彼は階下へ消えた。
「歩ける?それとも運んでもらいましょうか」
「私も良いんですか?」
「当たり前じゃないの。あなたの分よ」
手を引いて連れて行かれたのは、ティファニーさんの部屋の真下、店の二階にあたるリビングダイニングだった。
たっぷりとした革張りのソファと大きなテレビに、十人は座れそうなテーブルがドンと置かれ、なんだかぎゅっとしているのに所々に置かれた読みかけの雑誌や携帯充電器、個性豊かなマグカップ等が生活感を醸し出していて、どこか落ち着く。
既に部屋には良い匂いがたちこめて、机の上には彩りもバランスも良さそうな豪華な夕食が準備されていた。
「アンナちゃんお久しぶりね。お腹すいてると思っていっぱい作っちゃったから、いっぱい食べてね」
追加の鍋を持ちながらやって来たヴィヴィは朗らかに笑いながら、額の絆創膏を見て「あらあら」と呆れた様子だった。
それから、ティファニーさんとヴィヴィと『ルイ』と、四人で食卓を囲み、私は本当にお腹がいっぱいになるまで食べた。
ティファニーさんはやっぱりここでも、最終的には横で食べさせ始めそうな勢いで手を出して来たが、それよりも困ったのは私の取り皿の隙間という隙間に勝手に物を乗せてくるルイの方だった。
あれもこれも、好き嫌いもお構い無しに椀子そば状態でお皿には常に食べ物があり、しかもそれが全部美味しいのでつい食べ過ぎてしまった。
ご馳走になるなら片付けは手伝うべき、と、食べる前までは思っていたはずだが、動けなかった。
それくらい食べた。
お喋りしながら、相槌を打ちながら、笑いながら、……気付いたらこうなっていた。
「オレと運動する?」
「ごめん、今動いたら全部出ちゃう」
立ち上がると途端に体の重みを実感するので、椅子に座ったまま身動ぎさえ控えていたら、笑われた。
ルイは目付きが鋭く口が悪くて、エルメスやマスターとは明らかに毛色が違うタイプだったので、最初は私も警戒して敬語を使っていたのだが、実際会話をしてみると雰囲気がやんちゃなだけでちっとも怖く無かった。
と言うより、こちらが距離感を掴めずに一歩引いているとイライラしながら踏み込んで来るため、むしろちょっと生意気に張り合っていく位の方が機嫌が良くなる、変わった人だった。
扱いが分かると笑顔も見せてくれるようになり、食事が終わる頃にはすっかり打ち解けた。
確かに失礼な人ではあるのだが、素直で分かりやすい、親しみ易い人だ。
リュウが大きな犬なら、ルイは好奇心旺盛な子猫みたいな。
預けていた事などすっかり忘れ、ルイと二人で大騒ぎしながら巨大画面でテレビゲームを楽しんでいたら、マスターが私のギターを持って来てくれた。
「だいぶくたびれていたけれど、弾けるようにはなったよ。弾いてみて調子が悪いようなら今度はもっと丁寧に見てあげるから、また持っていらっしゃい」
渡されたケースは傷が残っていたものの汚れは見事に取り除かれ、中のギターはもっと見違えるほど美しく艶やかに、毛足の長いベッドの中で眠っていた。
替えたばかりの弦が活き活きとして、木目にはしっとりとした質感が蘇り、金具の隙間までぴかぴかだった。
「これ、本当に同じ物ですか?」
「そうだよ。立派でしょう」
注意深く持ち上げ腕に抱くと、以前と変わらずしっくりとおさまる。
私はそのまま弦を弾いた。
よじれたり、こもったりもせず、思い通りの音が出る事が嬉しくて、泉のように湧き出る記憶をこぼさずすくい、あの日集中して聞いた曲をぽろぽろ奏でる。
聴きたい音も、指の位置も、自然と頭に浮かべた通りに指が動いた。
「綺麗になったら、なんだか上手になった気分です。ありがとうございます、マスター」
「どういたしまして。それよりも、本当に上手でびっくりしたよ」
弾き終えて、マスターは優しく褒めてくれたがルイは厳しく、私に正しい弦の押さえ方を指の形から教え始めた。
しかし教えてもらってすぐは出来るけれど、いざ曲を弾こうとすると元の形に戻ってしまう。
確かに抑え易いのだが、最初に覚えた形でないと、思い通りの音が出ないのだ。
「その手はリュウの手だ。真似して覚えたんだね。あの日」
横で見ていたマスターが、ふと口を挟んだ。
素直にそうだと答えると、食後ずーっと晩酌を続けていたティファニーさんは大変驚いて素っ頓狂な声を上げた。
「真似?あの日?」
「そうだよ。一回見たらそれでいいんだ。キーどころか癖まで同じ。リュウが間違えた所もそのまま弾いているよ」
「そんなの、一カ月も前じゃない」
「ティファニーの歌声も、きっとね」
言葉を詰まらせるティファニーさんをよそに、マスターは落ち着いた様子で私達を音楽室に誘った。
久しぶりに訪れた音楽室は、あの日とはまた違う、不思議な香りがした。
マスターはあの白いギターを持ち出して、私の覚えた指の形のまま、私が選んだ曲を弾いてくれた。
リュウにギターを教えたのは、マスターなのだそうだ。
手が大きくて指が長く、加えてちょっぴり不器用な彼に合わせて、指の形や、時に誤魔化し方やズルの仕方も教えてやった。
音楽とは常に型にはめ、正解を求めてこうでなくてはいけないと言うことはまるで無く、なによりも楽しむ事が大切なのだとマスターは力説した。
「オレにピアノを教えた時は、基本にうるさくて途中で投げ出したじゃねえか」
「ルイに教えるのは、そういう才能が必要なんだよ。あの頃の私には無かった。いい先生がついてからはめきめき上達した。相性は大事だ」
「エルメスはもっとうるさかった」
苦笑いをしながら一曲弾き終えると、マスターはそのままギターをルイに渡し、ティファニーさんにはリュウを呼ぶよう指示を出した。
その声に少し不穏な空気を感じたけれど、振り向いた顔はいつも通り優しかった。
「お迎えが来るまで、しばらく遊んで行きなさい」
そう言い残し、マスターは部屋を出て行った。
改めて聞いた音を思い返しながら、もう一度ギターに指を這わせる。
正しく音が出ていても、白いギターとの音の違いにさえ気が付ける。
そんな自分がなんだか新鮮だったし、どうしてもできなかった所が綺麗に埋まると、とても気持ち良かった。
「なんか教えてやろっか?」
ルイに言われ、真っ先に思いついたのは、先程ティファニーさんに教えてもらった曲だった。
携帯電話は持っているかと聞かれたので「家にある」と答えると、(それは携帯電話では無いと突っ込まれたが)ルイは自分のもので手元の動画を撮影し、何度でも繰り返し見返せるよう、私宛てに送ってくれた。
「ありがとう」
「いいよ。その代わり家帰ったらちゃんと『おにいたん』って登録するんだぞ」
「しない」
「写真も送っといてやるからな。待ち受けにしてもいいぞ」
「いらない」
「てめえ」
ルイが笑いながら傷のある所を狙ってつついて来たので、反撃の為にその指を掴んで引っ張り返す。
ティファニーさんも止めに入らず呆れたように笑っていて、気付けば三人で大きな声を出して笑い合っていた。
最高に、ご機嫌だった。
そして今見たものを忘れない内に、またギターを弾く。
集中して聞いてみれば、確かに音がでないところや違う音が鳴っていて耳障りな部分もあったけれど、何より楽しかった。
うろ覚えだった歌までつけて、音がひとつの曲になって行く様子は、今までに感じた事のないある種の興奮を覚えた。
大丈夫、私出来る。
ひとつひとつ、積み重ねていけば上手になれる。
そう信じて疑わなかった。
「手に負えないわ」
「お前、目どこについてんの?」
二人の感想はそれだけだった。
その後は、指が痛くなるまでギターを弾いた。
もうルイは文句を言わなかった。
代わりに私が躓くと、ゆっくりともう一度弾いて見せてくれた。




