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ANNA  作者: 神崎 銀
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おかえり


 久しぶりに店のドアをくぐると、鼻をすするティファニーさんと困った顔の私を、マスターが笑顔で迎えてくれた。

「まさか、喧嘩でもした訳じゃないだろうね?」

「馬鹿な事言わないで」

 もちろん冗談だと分かってはいたが、マスターは私をまず席に座らせると、まるで子供の相手をするように、口を尖らせて怒るティファニーさんの涙を拭いてやっていた。


「さて、これはまた随分と派手にやりましたねぇ」

「お医者様を呼んで」

「生憎《あいにく》エルメスは外出中なんだ」

「頭をぶつけているの、何かあってからじゃ遅いわ!それに女の子なのよ、跡になったらどうするの?」

「なら初めからお医者様に行けば良いのに」

「だってアンナがソレイユに行くって言うんだもの……」

「じゃあ尚更大丈夫だ。本人が一番分かるものだよ。なあに、ロンドンがブランコから飛んだ時だって手当てしたのは私だし、ルルもココも毎日どこか怪我をしていたけどキレイに治った。ルイだって耳たぶ以外はちゃんとくっ付いてるじゃないか」

「一緒にしないで!」

「同じだよ。せっかく来てくれたんだから、私は私のできる事をする」

 耳元できゃんきゃんと吠えられてもマイペースにのんびりと答えながら、マスターは慣れた手付きで準備を始め、きちんとティファニーさんを黙らせてから私の手当てをしてくれた。

 医者に連れて行かれる方が私は嫌だったので、これ幸いと大人しく言われるがまま腕や脚を差し出した。


 大丈夫だと言いながらも、マスターはそんな風に絶えず私にも声をかけ、時々顔を顰《しか》めては自分まで痛そうな顔をしていた。

 どうやらこの店にはまだ私の知らない人達が居て、そして彼らは皆揃って平等に、甘やかされて、世話を焼かれているらしい。

 そして私もいつの間にその中に入ったのか、マスターの言葉が以前よりもだいぶ砕けていた。

 少しずつ、踏み込んで来ている。

「君もボロボロだね」

 マスターは私の手当てを終えると、ギターに向かって語りかけた。

 元からそんなに綺麗な物では無かったが、ケースには真新しい傷や汚れがついてしまっていた。

「見てもいいかな?」

「はい。是非」

 蓋を開け、情けなく飛び出た細い弦をつついて、私を見た時と同じ様に「おやおや」とマスターは笑った。

「あの、直せますか?」

「任せなさい」

 そしてそのまま「よしよし、良い子だ」と、誰に向かって吐いた言葉なのか、私にティファニーさんと一緒に部屋に行くよう指示をし、ギターはそっと持っていかれた。



 部屋で待っていると、マスターに呼ばれて帰宅したというエルメスが様子を見に来てくれて、今後役に立つか分からないが、怪我をした際の応急処置を大小問わず丁寧に教えてくれた。

「うちの女子はわんぱく揃いだね」

 説明をしながらやれやれといった様子で、エルメスもまた、笑った。

 身体中絆創膏やら湿布やらにまみれ、肌の出ている所ばかり白い四角い物が「ここですよ」と傷跡を主張している姿は、一見したらまるで重傷者だが私は至って元気だった。

 元気だったのだが、ティファニーさんがそうしろと言うので言われた通り、またあの広いふかふかのベッドに二人で横になって体を休めた。

 ただだらしなく寝転がって居るだけなのに、良い子良い子と頭を撫でられ、痛いの痛いの飛んでいけと怪我にキスをされる事が、まさかこの歳で自分の身に起きるとは思っても見なかった。

 見つめれば見つめ返し、笑いかければ笑い返してくれる。


「ティファニーさん」

「なあに?」


 呼びかければ、答えてくれる。


 ほんの一ヶ月前は分からなかったのに、それがどんなに嬉しいことか、私はやっと知る事が出来た。

 何事も、経験だ。



 どんなに記憶を探っても、十五年生きて来た中でこんなにも私を気に掛け、本気で涙を流した人が居ただろうか。

 私が川で溺れて死にかけた時、一緒にいた兄と姉は泣いていたけれど、二人が本当に愛を向けていたのは両親だった。

 頼まれたから、期待に応えたかったから、各々自分で動く理由をつけて、仕方なく世話を焼いていた。

 私に何かあると、自分達が困るから。

 だから私はあの時から兄も姉も嫌いだし、そんな頃から人に頼って甘える事を諦めていた。

 両親の事は、何もしちゃくれないのに二人に愛されていたから、もっと前から嫌いだった。

 一日でも早く、一人で何でも出来るようになりたかった。

 関わらなくていい様に。

 甘える必要が無い様に。

 他の家族が何かしらの理由で出来ない事を、代わりにやる事で安心していた。

 自分の事は自分でして、さらに何かをしていないと、私は厄介者になってしまう。

 気の利かないお荷物では、存在を消す事も居場所を守る事も出来ないのだ。

 大丈夫だろうと放っておかれる為に、なんでも一人で出来なきゃいけなかった。

 それが、家族の前でも自分を作る〝私〟の始まりだった。


 それが今、どうした事か。

 全く人間というのは、楽な方へと流れがちだ。

 三つ子の魂なんて神話にすぎない。

 ここでは何もしなくたって与えられ、頼めばなんでもやって貰える。

 甘いものは、まったくもって毒である。




「歌を歌ってください。ティファニーさんの一番好きな歌が良いです」

「そうねえ」

 少し考え、ティファニーさんが言葉を紡ぐ。

 ゆったりとした英語の歌は、まるで子守唄のように体の力を抜いていき、部屋に響く歌声に耳を傾けていると、代わりになにか温かいものが満ちていった。

「素敵な曲ですね」

「そうでしょう。私の一番のお気に入りなのよ」

 ティファニーさんは嬉しそうにもう一度歌い、歌詞を一文ずつ和訳してくれた。

 それは艶っぽい声には少し可愛らしすぎる、恋の歌だった。


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