Over the Rainbow
すぐ近くに声がする。
飛び起きて駆け寄った先で、振り落とされた少年は土埃と血で汚れた脚を抱え、苦痛に顔を歪めて唸っていた。
良かった、生きてる。
横にはブランド物の大きなバッグが落ちており、それはチェーンで少年の腰ベルトに繋がっていた。
黒縁眼鏡に分厚い前髪とだぶだぶの服が華奢な体型を強調し、見るからに弱そうなのにだいぶ粘ったと思ったら、離したくても彼は離すことが出来なかったようだ。
指先を紫色に変えてしまう程絡まり付いていた頑丈な肩紐が、真っ直ぐに切れて伸びていた。
逃げたバイクの二人組が〝凶器を持った犯罪者〟である事を確信して、急に湧き出て来た恐怖を抑え付けるために、私は徐々に肌色を取り戻しつつある手を両手で必死に撫でた。
これは紛れもなく、事件だった。
街に蔓延る悪による、ひったくり未遂の轢き逃げ事件。
「ハル…っ!」
遠巻きに眺める人混みの中から、同じ背格好の少年が一人、泣きじゃくりながら飛び出して来た。
こちらも白っぽくて柔らかそうで、自分の足に躓きそうなほど弱々しかった。
辿り着くなり、嗚咽混じりに何度も呼びかけながら、震える手で小さな体にしがみつく姿は何とも痛々しかった。
「大丈夫だよ」
助けてあげたい。
力になりたい。
そういう温かい感情は確かにあった。
それなのに目の前の光景を見たら、焦りや不安を肩代わりしてもらったみたいに、私の頭の中は急に冷めた。
野次馬の中から救急車や警察を呼ぶ声が聞こえて間もなく、遠くにサイレンの音が響き始める。
遠巻きに眺めていた人達が、一人また一人と近付いて、何人かは膝をつき、手を出し、互いに指示を出し始めた。
「もう大丈夫よ」
着々と増えて行く人の波に紛れて、逆らい、私はその場から離れた。
なんと声をかけるのが正解だったのかも分からないし、応急処置も知らず、応援を呼びたくたって肝心の携帯電話も持ち歩いていなかった。
これ以上そこに居たって、何も出来ない事は明らかだった。
エルメスが居てくれたら。
また、顔が浮かんでふわりと消えた。
人の目を避け、サイレンの音から遠ざかるように逃げて、鄙びた公園のベンチに座り、裸足になって膝を抱える。
夏が終わったら着られないからと、サンダルだとかショートパンツだとか、軽装備で来た事を後悔した。
擦りむいた膝には血が滲み、また靴を壊してしまった。
「格好悪い」
しにたくなった。
怖かったろうに、少年は泣きながら必死に血の滲む足を抑えて止血しようとしていた。
一人でどうにかしようとしていた。
その姿が何より痛々しかった。
目の前に空いている手があっても、助けてくれる人の呼び方を知らなかったんだ。
まるで自分の事みたいで、虚しくなった。
膝を隠すように、両手でギターを抱えてバスターミナルへ向かう。
直すために、どこかに預けて来なくて良かった。
ちょっとだけ役にたった相棒は、また少し得意げに光る。
月が輪郭をはっきりとさせ始めていた。
「今度、直してあげるから。今日は帰ろう」
また来るんだ、この街に。
一人で考えて、一人で嘲笑う。
直して、どうするつもり。
また、頭の中に一人、ギターを抱える姿が浮かんで消えた。
じわりと、胸の奥が熱くなる。
最後に交わした言葉は「おやすみなさい」だった。
〝い〟の口が、笑って居るように見えたから、その顔で記憶は綺麗に上書きされていた。
そしてその傍に重なるように、やっぱり彼女がそこに居て、私に笑いかけて来る。
「アンナ」
頭の中に浮かんだ優しい顔が、小さく私を呼んだ。
彼女は最初から、私に笑顔を向けてくれていた。
そうか。
一緒に痛み、寄り添って優しく抱きしめることが出来たなら……もしかして彼らのどちらかは、私にも救えたのかもしれない。
そんな感覚は知っていたはずなのに、知っていても出来ないなんて。
大丈夫よ、と言った私は、せめて笑顔でいられただろうか。
それだけで、きっと……
「アンナ!」
その声ははっきりと、もう一度私を呼んだ。
凛としてよく通る、女の人の声だった。
我に返り見渡せば、大通りの向こうで美女がぴょんぴょん跳ねてこちらに手を振っている。
嬉しそうに、身体中の出っ張った所をぶるんぶるん揺らしながら、そのまま車道へじわじわと近付いて居る。
「ダメですよ!」
咄嗟に叫ぶと、伸ばした手を引っ込めて体を小さくして見せ、きょろきょろと周りを見ていた。
車の流れが止まったら、そのまま渡って来てしまいそうだった。
「今行きますから、私が行きますから待っててください!」
人目も気にせず大声で答える私を見て、ティファニーさんは道の向こうで、満足そうにまだ跳ねていた。
彼女が存在する私の世界では、全てが思い通りになる。
街の景色が急に変わる。
私自身さえも変わってしまう。
私が横断歩道にたどり着く頃には丁度良く信号が青に変わり、両手を広げて待ち構える彼女の元へ、私は走った。
「ああ、アンナ。会いたかった!」
飛び込んだ先、いい匂いに包まれてほだされた身体に温かい言葉が染み渡る。
はあっと出たため息と共に、もやもやしていたものも、ふっとどこかに行ってしまった。
「あなたちっとも来てくれないんだもの。寂しかったわ」
「ごめんなさい。私も……」
会いたかったです。
そう言いかけて言葉をのんだ。
声がうまく出て来なかった。
でも私本当に「会いたかった」んだと、口に出しかけてはっとした。
顔を合わせただけで心を掻き乱す。
自分を自分でなくしてしまうそんな存在を、私の毎日を刺激的に変えてしまう大事件を。
私は求めていたんだ。
あの日から。
強く願うと叶ってしまう。
私の魔法使い。
こんなにも素直に好意を示してくれる彼女の前では、その想いを返すように私も素直になれた。
今までよりもずっとはっきりと、感覚が過敏になって知らなかった自分さえ知る。
間違いなく彼女には、不思議な力がある。
そして間違いなく、ここに存在している。
確かめるように、その体に回した腕に力を込めた。
夢じゃない。
「アンナ?」
「はい」
体を離し、柔らかな微笑みを期待してティファニーさんの顔を見上げると、その顔は青くなって引き攣っていた。
辿った視線の先、ティファニーさんの白い手のひらには、血が付いていた。
「ごめんなさい!」
「何があったの!?」
何か拭けるものを出そうとする私の動きを封じ、全身を見るなりティファニーさんは悲鳴をあげて、ぽろぽろと涙を零し始めた。
「さっき転んで……痛くは無いので、大丈夫です」
「血が出てるじゃないの!」
「そんなことより手を拭いてください、服に付きます!高そうなのに!」
「こんなのどうだっていいのよ!」
さっきまで、歩道の真ん中で抱き合って居たかと思えば、今度は泣いて泣かして言い争いを始めた私たちを、通行人が不思議そうに見ていく。
交番が目の前にあったことから、流石に人目が気になってタクシーに逃げ込んだ。
行き先はもちろん、ソレイユだった。




