第28話 ベア・インパクト
翌日の俺は、驚きに包まれていた。
今日もカラオケボックスへとアルバイトにやって来たのだが、騒ぎが起きている様子はなかった。
「おはようございます」
「やあ、おはよう浅葱」
先輩とは普通に挨拶を交わしている。
別に、普通に挨拶をしている分には問題はない。
俺はカラオケボックスの制服に着替えながら、先輩に話を振ってみることにした。
「先輩」
「なにかな、浅葱くん」
自分のことを呼びしてにしない先輩に声をかけてみると、これまた普通に反応が返ってきた。
まあ、これは普通のことなので、何ら問題はない。
「昨日、何かありませんでしたかね」
「昨日? 何かバイト中にやらかしたのかな?」
俺が声をかけると、何か問題があったのかという反応を返してきた。これだけなら、まだ話題を適当にごまかしているという感じに思える。
だけど、次の話題を振った時に、俺が抱いた違和感をいうものが見える形になる。
「いえ、昨日って、熊が出ませんでしたかね」
「えっ、そんなことがあったのかい? 別にニュースでも何も言ってなかったけどね」
バイトの先輩からは、こう返ってきたのだ。他の先輩たちも同じような反応だった。
俺と同じくらいの時間にあがった先輩もいたはずなのに、その先輩ですら、熊の出没を知らないと答えてきたのだ。
先輩たちの反応に、俺は衝撃を受けている。
「えっ、結構でかい熊が出てきたんですよ、川沿いに。本当に誰も知らないんですか?」
俺が改めて聞き直してみても、誰も知らないという反応が返ってくる。
さすがにこうなってくると、俺の方が間違っているように思えてくる。だけど、俺は実際に熊をこの目で見たし、肩に一撃を食らった感触だって残っている。かすっただけだったのに、ものすごい食いたかった記憶がある。
それだというのに、アルバイト先の先輩たちは誰も知らない。こうなってくると、本当に俺は夢でも見ていたかのような錯覚に陥りそうになる。
しかし、夢で片付けるには、明らかにおかしいというものだ。
その一つの根拠として、俺の左肩にはその傷跡が残っている。かさぶたのような状態だけれど、気を緩めればまだちょっと痛むんだ。
そして、もうひとつが俺の前に現れた輪熊の姿だ。
あいつは俺たちの目の前に現れた大人の熊を、蹴りとパンチの二発で沈めていた。夢で片付けることもできるのだが、いかんせん強烈に記憶に残りすぎた。
どう見てもか弱そうな同級生の女が、パンチとキックで熊を撃退するなんて、誰がどうあがいたって強烈な印象になるだろうよ。忘れられるやつがいたら、そいつに会ってみたいぜ。
(そういえば……、あいつの右手、熊の手になっていた気がする)
俺に残っているその記憶に間違いがなければ、熊を二発でのした輪熊の右手が熊の手になっていたはずだ。
直前までは普通の人間の手だったはずだから、早着替えということは考えられない。あいつの持っていた荷物からは、そんなものがあるとは思えなかったからな。
「浅葱、そろそろ勤務時間が始まるぞ」
「いつまでもぼーっとしていないで、さっさと出勤登録しろよ。時間までについているのに、遅刻しましたなんてなったらただのギャグだぞ」
「わ、分かりましたよ。すぐに入ります」
とはいえ、バイトの時間が始まってしまうので、考えるのはそこまでにしておく。
あれこれと余計なことを考えながらこなせるほど、仕事っていうのは単純でもないからな。
昨日のことは、ゴールデンウィークが終わってからでも、本人に確認してみるか。なんといっても、あいつの住所は俺は知らないからな。登校の時の状況や、こっちで見かけたことを考えるからに、この町に住んでいるのは間違いなさそうなんだけどな。
本当に考えるのはほどほどにして、今日のバイトを始める。
「まったく。ちゃんと仕事に集中しろ」
「浅葱くん、もしかして気になる子でもいるの?」
ところが、ちょくちょく失敗してしまったがゆえに、先輩たちからこんな風に言われてしまう始末だ。
いかんいかん。せっかく陰キャ卒業のためにアルバイトを始めたというのに、こんな風に失敗していては、やめさせられてしまう。
本当に、熊のことは忘れて仕事に集中しろ。
あまりにやらかすがあまり、俺は気合いを入れるために両頬を思いっきり叩いている。
「もう大丈夫です。次はなんでしたっけか」
「昼ピークを前に、ドリンクバーのチェックだな。ドリンクの残量とグラスの残りを確認してきてくれ」
「わかりました」
指示を仰ぎ、俺はとにかくせわしく動く。こうすれば、余計なことは頭から抜け落ちるはずだ。
俺は今日もしっかりと、時間まで働いた。
しかし、このゴールデンウィークのできごとをきっかけに、俺の中で輪熊という存在が大きくなり始めたのは事実だ。
最初はうっとうしいだけだった女だけど、あの狂暴で大きい熊をたった二発で倒したということは、俺の記憶に残るのは十分すぎた。
普段は休みが長く続けばいいのにと思うのだが、この時ばかりは、なぜか早く休みが終わらないかなと考えてしまう。
明らかな、俺にとってのターニングポイントだったのだ。




