長州の砲台が無残にも破壊され・・・
年号は、万延から文久に変わる。
松平慶永が『文久の改革』という改革を行っていた頃だった。
下関にある長州の砲台から、砲弾が発せられ、近くを航行する外国船を砲撃した。
「わっはっは!これが攘夷を実行するということだ!」
平家の最期の地として有名な檀ノ浦にも砲台が設置され、アメリカやイギリスの商船や軍艦を砲撃した。
これに対し、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国の連合艦隊が長州に差し向けられた。
ここで圧倒的な軍事力の差を見せつけられることになる。
長州の砲弾は敵艦に届かない。それに対し、連合艦隊の砲弾は、砲台をはるかに飛び越え、町の真ん中まで届いた。射程距離が違いすぎた。
長州の砲台は無残にも破壊され、占領されてしまう。
その知らせは、伊藤家にも伝えられた。
「大変だ!大変だ!下関の砲台が、4ヶ国連合艦隊に占領されてしまった!」
長州は攘夷から、開国と倒幕へと向かうことになる。
これによって、あらためて欧米列強との差を思い知った長州は、逆に欧米列強に接近して、軍事力、技術、法律、制度、文化などを取り入れようとする。
日本人も、洋服を着て、洋食を食べ、西洋風の家に住む。西洋風のルールやマナーを身につける、そういう方針に舵を切ったということだ。
さらに薩摩も、島津久光の大名行列が生麦村を通りかかった際に、馬に乗ったイギリス人たちに横切られ、行列を乱されたといって、イギリス人たちを殺傷した。
これが世に言う『生麦事件』だ。
その報復として、イギリスは薩摩に4隻の軍艦を差し向け、薩摩を攻撃した。
薩摩も応戦したが、
「これはいかん、我が軍の大砲は敵の軍艦に届かない!」
それでも、ひるまず応戦した薩摩。命中率が上がり、敵艦に当たるようになった。
これに対し、イギリス軍の軍艦は、最新鋭の大砲で攻撃。
こちらもやはり、圧倒的な軍事力の差を見せつけられることになる。
たった4隻の軍艦に、薩摩軍が負けた。
さらに、イギリスの軍艦の砲撃で、鹿児島の町の3分の1が焼けたという。
これにより、攘夷など愚かな考えであると、ようやく思い知らされた。
薩摩、長州ともに、列強の圧倒的な軍事力を目の当たりにし、攘夷は不可能であると確信した。
さらに、長州が禁門の変で敗れ、長州は一転して朝敵とみなされ、過激な論調の攘夷派は、急速に求心力を失った。
長州の出身者が『長州テロリスト』などと名指しされたのは、もとはといえば、京都で殺戮を繰り返してきたような、ごく一部の過激な攘夷論者のせいだ。
早くから、近代化、西洋化に舵を切っておけば良かったのだ。




