江戸無血開城~そして俺が策を講じた後~
1868年。年号は慶応から明治に変わる。
伊藤博文は、27歳になっていた。
孝明天皇が崩御し、明治天皇が即位した。
孝明天皇、やつは外国嫌いだったというから、むしろこのタイミングで崩御してくれて、都合が良かった。
岩倉具視が暗殺した、との噂も流れたが、あえなく否定されて終わった。
年号が明治に変わったことで、薩長軍が起こした一連の行動を『明治維新』と呼ぶようになり、我々の軍は『明治新政府軍』と呼ばれるようになった。
明治新政府軍は、ついに板橋【現在の東京都板橋区のあたり】まで進軍した。
幕府の崩壊は誰の目にも明らかとなり、旧幕府軍は、上野彰義隊などの部隊が、なおも抵抗を続けるのみであった。
旧幕府軍に、ほとんど戦う気力も無いのであれば、降伏を呼び掛けるだけでいい、という提案をしてみた。
このまま江戸への総攻撃に踏み切れば、また双方とも多くの犠牲を払う。いたずらに犠牲者の数が増えるだけだ。
それに、このまま江戸への総攻撃に踏み切れば、無関係な江戸庶民をも巻き込むことになる。そうなれば、たとえ勝利をおさめたとしても、江戸庶民に恨まれることになり、ゆくゆくは暗殺の標的にもなりかねない。
そこで、西郷隆盛が薩長軍の代表者となり、幕府側の代表者、勝海舟と交渉を行うことになった。
ここはさすがに、俺ごときが口を挟めるようなものではない。黙って経緯を見守る以外に、方法は無かった。
そして、江戸城の無血開城は実現した。
江戸が無血開城なら、会津も長岡も函館も無血開城で良かったのではないか、と、ふと思った。
この喧嘩は、俺らと幕府との喧嘩だから、俺らだけで、勝手にやるのは良いが、無関係な庶民を巻き込むのは、気が乗らないと、そういうことだ。
しかし、上野彰義隊がなおも抵抗を続けていた。
そこで、またも大村益次郎の出番となった。
上野の山を取り囲み、佐賀藩の所有していたアームストロング砲や、四斤山砲などを使い、砲撃を加えた。
上野彰義隊は、わずか1日で壊滅した。
「これで、我々明治新政府軍にたてつく者は、いなくなった。」
その後、奥羽越諸藩連合との戦いとなる。
降伏を呼び掛けるために差し向けた、世良修蔵が仙台藩士らに捕縛され斬首され、そして、晒し首にされた。
「死ね!!世良修蔵!!」
ザシッ!!ズガッ!!ブシャッ!!ドガッッ!!
世良修蔵「ぎえあーっ!!」
晒し首にされた世良修蔵の首に、群衆が石を投げつけ、ぶつけるなどした。
「世良修蔵!!消えろ!!くたばれ!!」
世良修蔵は、同じ長州藩士だが、会津藩に対して横柄な態度を取るなどして、反発があったという。
俺が支持を得るのには、むしろ俺らにとっても、世良修蔵のような者は邪魔な存在だったから、都合が良かった。
今では、世良修蔵の子孫を名乗ることすら、はばかられるが、既に家は断絶し、名字も消え失せている。
俺は、策を講じた。
「会津、長岡、函館の者たちに告ぐ。
幕府は倒れ、江戸は無血開城した。
それならば、会津、長岡、函館もまた、
無血開城で良いのではないか。
これ以上、何のために戦う、誰のために命を捧げるというのだ。
すみやかに、降伏するのだ。さすれば、一発の銃弾も撃たずに済む。
世良修蔵の件は、申し訳無かった。
あれは、やつが勝手にやったことなのだ。
我々はむしろ、降伏を呼び掛け、お互いの犠牲を少なくすることを望んでいる。
それでもなお、戦うというのなら、我々も全力で、それに臨む。」
このような文書を送った。特に、白虎隊の少年隊士や、会津藩家老、西郷頼母の母、妻、5人の娘たちの命を、助けたいと思っていたから。
今まで、さんざん多くの者たちを殺しておいて、ここに来て何を言っているんだ、と思われるかもしれないが。
しかし結局、戦いは避けられず、長岡藩の河井継之助は戦死。
会津藩は、藩主の松平容保を討ち取り、首を取ったという報告が上がった。
他の家老たちも、切腹、討ち死になどしたという。ただ一人、西郷頼母を除いては。
西郷頼母は、母、妻、娘5人と、末弟の嫡男を連れて、全員無事に逃げ延びた。
飯盛山で切腹しようとしていた白虎隊士の少年たちは、直前で新島八重に助けられ、全員無事。
会津藩の者たちも多くが戦死したが、西郷頼母の家族と、白虎隊の少年隊士たちは無事に生き延びたという。
函館、五稜郭の榎本武揚らの軍も降伏。
これで、ようやく明治新政府軍と、旧幕府軍との戦いは終わりを告げた。




