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妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


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34/36

扉のすきま



 白い花の道を戻りながら、創磨は何度も後ろを振り返った。


 赤ちゃん村人の家は、もう少しずつ小さくなっている。


 木と石でできた低い家。


 閉まったままの扉。


 その前に置いた白い石。


 横に置いた木片。


 望来が置きたがった白い花は、まだ扉の前にはない。


 あるのは、止まる印だけだった。


 白い石。


 そこから先は、まだだめ。


 そう決めたのは創磨だった。


 正しいと思っている。


 屋根の端には白い糸があった。家の裏にも、細い糸が残っていた。中が安全かどうかもわからない。赤ちゃん村人をそのまま入れるわけにはいかない。


 けれど、歩けば歩くほど、胸の中で何かが引っかかった。


 白い石だけ置いて帰る。


 それで、本当に進んだのか。


 赤ちゃん村人は、つよし号の中でずっと後ろを見ていた。


 望来も、その手を握ったまま後ろを見ている。


「赤ちゃん、また行くけんね」


 望来が小さく言った。


 赤ちゃん村人は答えない。


 けれど、顔だけはずっと自分の家の方を向いていた。


 創磨は足を止めた。


 つよし号の縄が、ぴんと張った。


「そうま?」


 芽依が振り返る。


「なん?」


 創磨は答えなかった。


 家の方を見る。


 自分たちの家は、白い花の道の先にある。床下も、薬袋も、水も、少しのパンもある。戻れば少し休める。


 でも、赤ちゃん村人の家の前には、白い石だけが残る。


 夕方になれば、花も石も見えにくくなる。


 夜になれば、あの扉の前はまた暗くなる。


 明日また来ても、同じように怖いままかもしれない。


「そうま、どうしたと」


 芽依の声が少し低くなった。


 創磨はようやく口を開いた。


「一本だけ」


「なにが」


「たいまつ」


 芽依の眉が動いた。


「赤ちゃんのおうちに?」


「うん」


「今から?」


 創磨はうなずいた。


「扉、開けんって言ったやん」


「全部は開けん」


「全部?」


「少しだけ」


 芽依の目が細くなった。


「それ、開けるってことやろ」


「中には入らん」


「でも、開けるやん」


「すき間だけ」


 創磨は、自分で言いながら、胸の奥がどくどく鳴るのを感じていた。


 怖い。


 扉の向こうに何かいたら。


 白い糸を出すものが、天井に張りついていたら。


 赤い目が、すき間から見えたら。


 想像しただけで、手が冷たくなる。


 でも、開けなければ、中がわからない。


 中がわからなければ、赤ちゃん村人の家は、ずっと白い石のままだ。


「見るだけ」


 創磨は言った。


「中に入るためじゃなか。中に入らんために、見る」


 芽依は何か言い返そうとして、口を閉じた。


 それから、つよし号の中の望来を見た。


 望来は創磨と芽依の顔を交互に見ていた。


「赤ちゃんのおうち、見ると?」


「うん」


 創磨が答える。


「開けると?」


「ちょっとだけ」


「赤ちゃん、入る?」


「入らん」


 望来は赤ちゃん村人の手を握り直した。


「まだ?」


「まだ」


 創磨が言うと、望来は少しだけ口を曲げた。


 でも、今度は泣かなかった。


「みく、持っとく」


「うん。赤ちゃんが行こうとしたら、止めて」


「みく、止める」


 芽依がすぐに言った。


「みくも行こうとしたら、めいが止めるけん」


「みく、行かんもん」


「さっき出そうになったやん」


「出とらん」


「出とった」


「出とらんもん」


「今はけんかせん」


 創磨が言うと、二人とも少しだけ黙った。


 風が吹いた。


 白い花が、土の上で小さく揺れた。


 まだ昼だった。


 朝の薬を飲ませてから、それほど時間は経っていない。


 薬は減っていない。


 残り二十七回。


 十三日と半分。


 夜になれば、また一つ減る。


 でも、今はまだ昼だ。


 昼のあいだに、できることを少しでも進めなければならない。


「戻って、たいまつ一本取る」


 創磨は言った。


「盾も持ってくる」


 芽依は小さく息を吐いた。


「また行くとね」


「うん」


「怖かね」


「うん」


「でも、見るとね」


「見らんと、ずっと怖か」


 芽依は何も言わなかった。


 代わりに、ポケットへ手を入れた。


 小さな石が、ころころと鳴った。


     *


 自分たちの家に戻ると、創磨はまず薬袋を見た。


 棚の上。


 白い袋。


 朝に閉じたままの形で置いてある。


 手を伸ばしかけて、やめた。


 今は飲ませる時間ではない。


 減っていない。


 残りは二十七回のまま。


 それを確かめるだけで、胸の奥が少し重くなり、同時に少しだけ落ち着いた。


 今は、薬を減らさずに進める時間だ。


「そうま、たいまつ」


 芽依が言った。


「うん」


 創磨は壁際に立てていたたいまつを見た。


 全部持っていくわけにはいかない。


 家の入口。


 床下の近く。


 裏の角。


 からんの場所。


 ここにも明かりがいる。


 一本。


 一本だけ。


 創磨は、火のしっかり残っているものを選んだ。


 芽依が横から見ている。


「それ、家の分じゃなかと?」


「家の中は、まだ残る」


「赤ちゃんのおうちに置いたら、戻せんかもしれんよ」


「うん」


「よかと?」


 創磨は少し迷った。


 たいまつは大事だ。


 木炭も、棒も、無限ではない。


 けれど、赤ちゃん村人の家がずっと暗いままでは、そこはいつまでも近づけない場所になる。


「一本だけなら」


 創磨は言った。


「家の中ば開けるなら、明かりがいる」


「開けんって言いよったのに」


「開けるために、開けんって言った」


「わかりにくか」


「おれもそう思う」


 芽依は少しだけ口をゆるめた。


 でもすぐに真面目な顔に戻る。


「めい、石持つ」


「うん」


「みくの線、作る」


「お願い」


「そうまは、扉」


「うん」


「怖かったら、すぐ閉めるとよ」


「うん」


「中に入らんとよ」


「入らん」


「ほんとに?」


「ほんと」


 芽依はまだ信じきっていない顔だった。


 でも、それ以上は言わなかった。


 望来はつよし号の中で、赤ちゃん村人の手を両手で包んでいた。


「赤ちゃん、まだ見るだけ」


 さっき自分が言われたことを、今度は赤ちゃん村人に言っている。


「みく、持っとくけん」


 赤ちゃん村人は何も言わない。


 けれど、望来の手を振り払うこともなかった。


     *


 赤ちゃん村人の家の前に戻ると、白い石はそのまま残っていた。


 扉の前。


 冷たい印。


 そこから先は、まだだめ。


 でも、さっきと違って、創磨の手にはたいまつがあった。


 小さな火が揺れている。


 昼なのに、その火は頼りなく、でも確かにそこにあった。


 創磨は扉の横にたいまつを立てた。


 木と石の壁に、明かりが薄く広がる。


 扉の板のすき間。


 下の段差。


 横の影。


 白い石。


 その全部が、さっきより少しだけ見えた。


「明るくなった」


 望来が言った。


「うん」


「赤ちゃんのおうち、明るかね」


「ちょっとだけ」


 創磨は盾を左腕に通した。


 まだ重い。


 この盾を持つたびに、矢を受けた時の衝撃を思い出す。


 でも、手ぶらで扉の前に立つよりはましだった。


「芽依」


「うん」


「つよし号、そこ」


 創磨は白い花の手前を指さした。


 扉から少し離れた場所。


 すぐ後ろへ下がれる場所。


 井戸の方へ戻れる道も見える。


 芽依はポケットから灰色の石を三つ出し、つよし号の前に横線のように置いた。


「ここまで」


 芽依が言った。


「みく、ここから前だめ」


「みく、行かん」


「赤ちゃんも」


「赤ちゃんも行かん」


「ほんとに?」


「ほんと」


 望来は赤ちゃん村人の手を強く握った。


 赤ちゃん村人は扉を見ていた。


 小さな体が、前に傾く。


「赤ちゃん」


 望来がすぐに言った。


「まだ」


 その声は、少し震えていた。


 止めている。


 でも、本当は一緒に行きたい。


 創磨には、それがわかった。


 だから何も言えなかった。


「芽依は横」


「わかっとる」


 芽依は扉の正面ではなく、少し横に立った。


 手には白い石を握っている。


 投げるためではない。


 たぶん、持っていないと落ち着かないからだ。


 創磨は扉の前に立った。


 真正面には立たない。


 少し横。


 盾を前に出す。


 右手で、扉の端に触れる。


 木は冷たかった。


 ただの扉なのに、触った瞬間、心臓が大きく鳴った。


 からん。


 かさ。


 夜の音が、頭の中で戻ってくる。


 屋根の白い糸。


 裏の白い糸。


 もし、中にも。


「そうま」


 芽依が小さく言った。


「無理なら、やめてよかよ」


 創磨は一瞬だけ目を閉じた。


 やめたい。


 本当は、やめたい。


 でも、やめたら赤ちゃん村人の家は、また白い石だけの場所になる。


 創磨は息を吸った。


「少しだけ」


 自分に言うように、そう言った。


 そして、扉を押した。


 ぎ。


 木が鳴った。


 望来が息を止める音がした。


 芽依の足が、土を少しこする音もした。


 扉は、ほんの少しだけ開いた。


 指一本分。


 いや、それより少し広いくらい。


 中は暗かった。


 昼の光も、たいまつの火も、すぐには奥まで届かない。


 創磨は顔を近づけそうになって、慌てて止めた。


 近づきすぎたらだめ。


 扉の正面に立ちすぎたらだめ。


 中に何かいたら、すぐ閉める。


 盾を少し上げる。


 たいまつの光が、扉のすき間から細く中へ入った。


 床が見えた。


 木の床。


 その上に、小さな木の器が倒れていた。


 器のそばに、パンのかけらのようなものが落ちている。


 創磨は息を止めた。


 誰かがいた場所だ。


 ここは、ただの空き家ではない。


 赤ちゃん村人の家だ。


 さらに、すき間を少しだけ広げる。


 ぎ、ともう一度鳴った。


「そうま、広げすぎ」


 芽依の声が飛んだ。


「うん」


 創磨はすぐに止めた。


 中には、小さなベッドがあった。


 低いベッド。


 大人の村人には少し小さいかもしれない。


 でも、赤ちゃん村人にはちょうどよさそうな大きさだった。


 その布の端が、少し床に落ちている。


「ベッド……」


 創磨が小さく言った。


「赤ちゃんの?」


 望来が聞く。


「たぶん」


「赤ちゃんのベッド?」


「たぶん」


 赤ちゃん村人が、つよし号の中で前に動いた。


 望来の手が引っぱられる。


「赤ちゃん、まだ!」


 望来が必死に止める。


 でも、赤ちゃん村人の体が前へ出る。


 望来も一緒に傾いた。


「みく!」


 芽依がすぐに望来の服をつかんだ。


 つよし号が、ず、と少し動く。


「だめ!」


 芽依の声が強くなった。


「線、越えん!」


 望来の顔がくしゃっとなった。


「みく、止めよる!」


「一緒に出よる!」


「赤ちゃん、行くもん!」


「だけん止めると!」


 創磨は扉から目を離したくなかった。


 でも、二人の声で、すぐに扉を閉めそうになった。


 その時、たいまつの光が、壁の端を照らした。


 白いものが見えた。


 細くて、頼りないもの。


 壁の角。


 天井に近いところ。


 そこに、白い糸が引っかかっていた。


 創磨の喉が鳴った。


 中にもある。


 屋根だけではない。


 裏だけでもない。


 家の中にも、白い糸がある。


 さらに奥の天井の近くに、黒い影が見えた。


 穴なのか。


 隙間なのか。


 ただ暗いだけなのか。


 わからない。


 でも、そこだけが深く黒かった。


 創磨は、それ以上見なかった。


 見てはいけない気がした。


 扉を引いた。


 ぎ、と鳴って、扉が閉まる。


 木の板が合わさり、すき間が消えた。


 創磨は扉に手を当てたまま、しばらく動けなかった。


 誰もいなかった。


 でも、何もなかったわけではない。


 ベッドがあった。


 器があった。


 パンのかけらがあった。


 白い糸があった。


 黒い影もあった。


「そうま」


 芽依が小さく呼んだ。


「いた?」


 創磨は首を振った。


「おらんかった」


 望来の顔が変わった。


「赤ちゃんのママは?」


「わからん」


「パパは?」


「わからん」


「赤ちゃん、ひとり?」


 その言葉は、創磨の胸に刺さった。


 赤ちゃん村人は、閉まった扉を見ていた。


 さっきよりも、ずっと静かに。


 望来はその手を握ったまま、赤ちゃん村人の顔をのぞきこんだ。


「赤ちゃんのおうち、あったね」


 赤ちゃん村人は答えない。


 望来は続けた。


「ベッド、あったって」


 創磨はうなずいた。


「うん」


「赤ちゃんの?」


「たぶん」


「じゃあ、帰れる?」


 創磨は白い石を見た。


 扉の前に置いた、止まる印。


 さっきよりも、その石が重く見えた。


 家はあった。


 赤ちゃん村人の家だと、ほとんどわかった。


 でも、中にも白い糸があった。


 天井近くに、黒いわからない場所があった。


 今、帰していいとは言えない。


「まだ」


 創磨は言った。


 望来の目に、涙が浮かんだ。


「また、まだ?」


「うん」


「おうち、あったのに?」


「うん」


「ベッド、あったのに?」


「うん」


「赤ちゃん、帰りたかよ」


「うん」


 創磨は、ひとつずつうなずいた。


 否定できなかった。


 望来の言っていることは、全部本当だった。


 赤ちゃん村人は帰りたい。


 家はあった。


 ベッドもあった。


 それでも、まだ帰せない。


「中にも糸があった」


 創磨が言うと、芽依の顔が固まった。


「中?」


「うん」


「家の中?」


「うん」


「じゃあ、くもしゃん、中に来とったと?」


 望来の声が小さくなった。


「たぶん」


「赤ちゃんのベッドにも?」


「そこまでは見えんかった」


「赤ちゃん、こわかった?」


 望来は赤ちゃん村人に聞いた。


 赤ちゃん村人は答えない。


 ただ、望来の手を握っていた。


 望来は泣きそうな顔のまま、その手を自分の胸の近くに引き寄せた。


「みく、おるけん」


 小さな声だった。


「まだ、入らん」


 芽依が白い石を拾いかけて、やめた。


 創磨もそれを見た。


 石は、まだ動かせない。


 花には、まだできない。


 でも、さっきとは違う。


 ただ怖くて置いた石ではない。


 中を見たあとで、それでも置く石だった。


「たいまつは?」


 芽依が聞いた。


「置いとく」


「ここに?」


「うん」


「なくなるよ」


「うん」


「でも、置くとね」


「うん」


 創磨は扉の横のたいまつを見た。


 火は小さく揺れている。


 白い石も、木片も、扉の板も、その光で少しだけ見えていた。


 赤ちゃん村人の家は、もう完全な暗い場所ではなくなった。


 怖いまま。


 でも、少しだけ見える場所になった。


「今日は、ここまで」


 創磨が言った。


 望来は何か言いかけた。


 でも、赤ちゃん村人の手を見て、ぎゅっと握り直した。


「赤ちゃん、今日はここまで」


 自分に言い聞かせるみたいな声だった。


「でも、おうち、あったね」


 創磨はうなずいた。


「うん。あった」


「ベッドもあったね」


「うん」


「じゃあ、あとで花にするとね」


 創磨は白い石を見た。


 まだ花にはできない。


 でも、いつか変えるために、ここまで来た。


「うん」


 創磨は言った。


「あとで、花にする」


 望来はポケットから、しわしわになった白い花を一つ出した。


 さっき扉の前に置きたがって、置けなかった花だった。


 望来はそれを、白い石の上には置かなかった。


 扉の前にも置かなかった。


 ただ、自分の手の中で大事に持った。


「これは、まだ」


 望来が言った。


「あとで」


 芽依が小さくうなずいた。


「うん。あとで」


 創磨は閉まった扉を見た。


 扉の向こうには、小さなベッドがある。


 倒れた器がある。


 パンのかけらがある。


 白い糸がある。


 わからない黒い影がある。


 そして、赤ちゃん村人が帰りたい場所がある。


 白い石は、まだそこにあった。


 でも、扉の横には、たいまつが一本立っている。


 花には、まだできなかった。


 それでも、ただの石だけではなくなっていた。

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