扉のすきま
白い花の道を戻りながら、創磨は何度も後ろを振り返った。
赤ちゃん村人の家は、もう少しずつ小さくなっている。
木と石でできた低い家。
閉まったままの扉。
その前に置いた白い石。
横に置いた木片。
望来が置きたがった白い花は、まだ扉の前にはない。
あるのは、止まる印だけだった。
白い石。
そこから先は、まだだめ。
そう決めたのは創磨だった。
正しいと思っている。
屋根の端には白い糸があった。家の裏にも、細い糸が残っていた。中が安全かどうかもわからない。赤ちゃん村人をそのまま入れるわけにはいかない。
けれど、歩けば歩くほど、胸の中で何かが引っかかった。
白い石だけ置いて帰る。
それで、本当に進んだのか。
赤ちゃん村人は、つよし号の中でずっと後ろを見ていた。
望来も、その手を握ったまま後ろを見ている。
「赤ちゃん、また行くけんね」
望来が小さく言った。
赤ちゃん村人は答えない。
けれど、顔だけはずっと自分の家の方を向いていた。
創磨は足を止めた。
つよし号の縄が、ぴんと張った。
「そうま?」
芽依が振り返る。
「なん?」
創磨は答えなかった。
家の方を見る。
自分たちの家は、白い花の道の先にある。床下も、薬袋も、水も、少しのパンもある。戻れば少し休める。
でも、赤ちゃん村人の家の前には、白い石だけが残る。
夕方になれば、花も石も見えにくくなる。
夜になれば、あの扉の前はまた暗くなる。
明日また来ても、同じように怖いままかもしれない。
「そうま、どうしたと」
芽依の声が少し低くなった。
創磨はようやく口を開いた。
「一本だけ」
「なにが」
「たいまつ」
芽依の眉が動いた。
「赤ちゃんのおうちに?」
「うん」
「今から?」
創磨はうなずいた。
「扉、開けんって言ったやん」
「全部は開けん」
「全部?」
「少しだけ」
芽依の目が細くなった。
「それ、開けるってことやろ」
「中には入らん」
「でも、開けるやん」
「すき間だけ」
創磨は、自分で言いながら、胸の奥がどくどく鳴るのを感じていた。
怖い。
扉の向こうに何かいたら。
白い糸を出すものが、天井に張りついていたら。
赤い目が、すき間から見えたら。
想像しただけで、手が冷たくなる。
でも、開けなければ、中がわからない。
中がわからなければ、赤ちゃん村人の家は、ずっと白い石のままだ。
「見るだけ」
創磨は言った。
「中に入るためじゃなか。中に入らんために、見る」
芽依は何か言い返そうとして、口を閉じた。
それから、つよし号の中の望来を見た。
望来は創磨と芽依の顔を交互に見ていた。
「赤ちゃんのおうち、見ると?」
「うん」
創磨が答える。
「開けると?」
「ちょっとだけ」
「赤ちゃん、入る?」
「入らん」
望来は赤ちゃん村人の手を握り直した。
「まだ?」
「まだ」
創磨が言うと、望来は少しだけ口を曲げた。
でも、今度は泣かなかった。
「みく、持っとく」
「うん。赤ちゃんが行こうとしたら、止めて」
「みく、止める」
芽依がすぐに言った。
「みくも行こうとしたら、めいが止めるけん」
「みく、行かんもん」
「さっき出そうになったやん」
「出とらん」
「出とった」
「出とらんもん」
「今はけんかせん」
創磨が言うと、二人とも少しだけ黙った。
風が吹いた。
白い花が、土の上で小さく揺れた。
まだ昼だった。
朝の薬を飲ませてから、それほど時間は経っていない。
薬は減っていない。
残り二十七回。
十三日と半分。
夜になれば、また一つ減る。
でも、今はまだ昼だ。
昼のあいだに、できることを少しでも進めなければならない。
「戻って、たいまつ一本取る」
創磨は言った。
「盾も持ってくる」
芽依は小さく息を吐いた。
「また行くとね」
「うん」
「怖かね」
「うん」
「でも、見るとね」
「見らんと、ずっと怖か」
芽依は何も言わなかった。
代わりに、ポケットへ手を入れた。
小さな石が、ころころと鳴った。
*
自分たちの家に戻ると、創磨はまず薬袋を見た。
棚の上。
白い袋。
朝に閉じたままの形で置いてある。
手を伸ばしかけて、やめた。
今は飲ませる時間ではない。
減っていない。
残りは二十七回のまま。
それを確かめるだけで、胸の奥が少し重くなり、同時に少しだけ落ち着いた。
今は、薬を減らさずに進める時間だ。
「そうま、たいまつ」
芽依が言った。
「うん」
創磨は壁際に立てていたたいまつを見た。
全部持っていくわけにはいかない。
家の入口。
床下の近く。
裏の角。
からんの場所。
ここにも明かりがいる。
一本。
一本だけ。
創磨は、火のしっかり残っているものを選んだ。
芽依が横から見ている。
「それ、家の分じゃなかと?」
「家の中は、まだ残る」
「赤ちゃんのおうちに置いたら、戻せんかもしれんよ」
「うん」
「よかと?」
創磨は少し迷った。
たいまつは大事だ。
木炭も、棒も、無限ではない。
けれど、赤ちゃん村人の家がずっと暗いままでは、そこはいつまでも近づけない場所になる。
「一本だけなら」
創磨は言った。
「家の中ば開けるなら、明かりがいる」
「開けんって言いよったのに」
「開けるために、開けんって言った」
「わかりにくか」
「おれもそう思う」
芽依は少しだけ口をゆるめた。
でもすぐに真面目な顔に戻る。
「めい、石持つ」
「うん」
「みくの線、作る」
「お願い」
「そうまは、扉」
「うん」
「怖かったら、すぐ閉めるとよ」
「うん」
「中に入らんとよ」
「入らん」
「ほんとに?」
「ほんと」
芽依はまだ信じきっていない顔だった。
でも、それ以上は言わなかった。
望来はつよし号の中で、赤ちゃん村人の手を両手で包んでいた。
「赤ちゃん、まだ見るだけ」
さっき自分が言われたことを、今度は赤ちゃん村人に言っている。
「みく、持っとくけん」
赤ちゃん村人は何も言わない。
けれど、望来の手を振り払うこともなかった。
*
赤ちゃん村人の家の前に戻ると、白い石はそのまま残っていた。
扉の前。
冷たい印。
そこから先は、まだだめ。
でも、さっきと違って、創磨の手にはたいまつがあった。
小さな火が揺れている。
昼なのに、その火は頼りなく、でも確かにそこにあった。
創磨は扉の横にたいまつを立てた。
木と石の壁に、明かりが薄く広がる。
扉の板のすき間。
下の段差。
横の影。
白い石。
その全部が、さっきより少しだけ見えた。
「明るくなった」
望来が言った。
「うん」
「赤ちゃんのおうち、明るかね」
「ちょっとだけ」
創磨は盾を左腕に通した。
まだ重い。
この盾を持つたびに、矢を受けた時の衝撃を思い出す。
でも、手ぶらで扉の前に立つよりはましだった。
「芽依」
「うん」
「つよし号、そこ」
創磨は白い花の手前を指さした。
扉から少し離れた場所。
すぐ後ろへ下がれる場所。
井戸の方へ戻れる道も見える。
芽依はポケットから灰色の石を三つ出し、つよし号の前に横線のように置いた。
「ここまで」
芽依が言った。
「みく、ここから前だめ」
「みく、行かん」
「赤ちゃんも」
「赤ちゃんも行かん」
「ほんとに?」
「ほんと」
望来は赤ちゃん村人の手を強く握った。
赤ちゃん村人は扉を見ていた。
小さな体が、前に傾く。
「赤ちゃん」
望来がすぐに言った。
「まだ」
その声は、少し震えていた。
止めている。
でも、本当は一緒に行きたい。
創磨には、それがわかった。
だから何も言えなかった。
「芽依は横」
「わかっとる」
芽依は扉の正面ではなく、少し横に立った。
手には白い石を握っている。
投げるためではない。
たぶん、持っていないと落ち着かないからだ。
創磨は扉の前に立った。
真正面には立たない。
少し横。
盾を前に出す。
右手で、扉の端に触れる。
木は冷たかった。
ただの扉なのに、触った瞬間、心臓が大きく鳴った。
からん。
かさ。
夜の音が、頭の中で戻ってくる。
屋根の白い糸。
裏の白い糸。
もし、中にも。
「そうま」
芽依が小さく言った。
「無理なら、やめてよかよ」
創磨は一瞬だけ目を閉じた。
やめたい。
本当は、やめたい。
でも、やめたら赤ちゃん村人の家は、また白い石だけの場所になる。
創磨は息を吸った。
「少しだけ」
自分に言うように、そう言った。
そして、扉を押した。
ぎ。
木が鳴った。
望来が息を止める音がした。
芽依の足が、土を少しこする音もした。
扉は、ほんの少しだけ開いた。
指一本分。
いや、それより少し広いくらい。
中は暗かった。
昼の光も、たいまつの火も、すぐには奥まで届かない。
創磨は顔を近づけそうになって、慌てて止めた。
近づきすぎたらだめ。
扉の正面に立ちすぎたらだめ。
中に何かいたら、すぐ閉める。
盾を少し上げる。
たいまつの光が、扉のすき間から細く中へ入った。
床が見えた。
木の床。
その上に、小さな木の器が倒れていた。
器のそばに、パンのかけらのようなものが落ちている。
創磨は息を止めた。
誰かがいた場所だ。
ここは、ただの空き家ではない。
赤ちゃん村人の家だ。
さらに、すき間を少しだけ広げる。
ぎ、ともう一度鳴った。
「そうま、広げすぎ」
芽依の声が飛んだ。
「うん」
創磨はすぐに止めた。
中には、小さなベッドがあった。
低いベッド。
大人の村人には少し小さいかもしれない。
でも、赤ちゃん村人にはちょうどよさそうな大きさだった。
その布の端が、少し床に落ちている。
「ベッド……」
創磨が小さく言った。
「赤ちゃんの?」
望来が聞く。
「たぶん」
「赤ちゃんのベッド?」
「たぶん」
赤ちゃん村人が、つよし号の中で前に動いた。
望来の手が引っぱられる。
「赤ちゃん、まだ!」
望来が必死に止める。
でも、赤ちゃん村人の体が前へ出る。
望来も一緒に傾いた。
「みく!」
芽依がすぐに望来の服をつかんだ。
つよし号が、ず、と少し動く。
「だめ!」
芽依の声が強くなった。
「線、越えん!」
望来の顔がくしゃっとなった。
「みく、止めよる!」
「一緒に出よる!」
「赤ちゃん、行くもん!」
「だけん止めると!」
創磨は扉から目を離したくなかった。
でも、二人の声で、すぐに扉を閉めそうになった。
その時、たいまつの光が、壁の端を照らした。
白いものが見えた。
細くて、頼りないもの。
壁の角。
天井に近いところ。
そこに、白い糸が引っかかっていた。
創磨の喉が鳴った。
中にもある。
屋根だけではない。
裏だけでもない。
家の中にも、白い糸がある。
さらに奥の天井の近くに、黒い影が見えた。
穴なのか。
隙間なのか。
ただ暗いだけなのか。
わからない。
でも、そこだけが深く黒かった。
創磨は、それ以上見なかった。
見てはいけない気がした。
扉を引いた。
ぎ、と鳴って、扉が閉まる。
木の板が合わさり、すき間が消えた。
創磨は扉に手を当てたまま、しばらく動けなかった。
誰もいなかった。
でも、何もなかったわけではない。
ベッドがあった。
器があった。
パンのかけらがあった。
白い糸があった。
黒い影もあった。
「そうま」
芽依が小さく呼んだ。
「いた?」
創磨は首を振った。
「おらんかった」
望来の顔が変わった。
「赤ちゃんのママは?」
「わからん」
「パパは?」
「わからん」
「赤ちゃん、ひとり?」
その言葉は、創磨の胸に刺さった。
赤ちゃん村人は、閉まった扉を見ていた。
さっきよりも、ずっと静かに。
望来はその手を握ったまま、赤ちゃん村人の顔をのぞきこんだ。
「赤ちゃんのおうち、あったね」
赤ちゃん村人は答えない。
望来は続けた。
「ベッド、あったって」
創磨はうなずいた。
「うん」
「赤ちゃんの?」
「たぶん」
「じゃあ、帰れる?」
創磨は白い石を見た。
扉の前に置いた、止まる印。
さっきよりも、その石が重く見えた。
家はあった。
赤ちゃん村人の家だと、ほとんどわかった。
でも、中にも白い糸があった。
天井近くに、黒いわからない場所があった。
今、帰していいとは言えない。
「まだ」
創磨は言った。
望来の目に、涙が浮かんだ。
「また、まだ?」
「うん」
「おうち、あったのに?」
「うん」
「ベッド、あったのに?」
「うん」
「赤ちゃん、帰りたかよ」
「うん」
創磨は、ひとつずつうなずいた。
否定できなかった。
望来の言っていることは、全部本当だった。
赤ちゃん村人は帰りたい。
家はあった。
ベッドもあった。
それでも、まだ帰せない。
「中にも糸があった」
創磨が言うと、芽依の顔が固まった。
「中?」
「うん」
「家の中?」
「うん」
「じゃあ、くもしゃん、中に来とったと?」
望来の声が小さくなった。
「たぶん」
「赤ちゃんのベッドにも?」
「そこまでは見えんかった」
「赤ちゃん、こわかった?」
望来は赤ちゃん村人に聞いた。
赤ちゃん村人は答えない。
ただ、望来の手を握っていた。
望来は泣きそうな顔のまま、その手を自分の胸の近くに引き寄せた。
「みく、おるけん」
小さな声だった。
「まだ、入らん」
芽依が白い石を拾いかけて、やめた。
創磨もそれを見た。
石は、まだ動かせない。
花には、まだできない。
でも、さっきとは違う。
ただ怖くて置いた石ではない。
中を見たあとで、それでも置く石だった。
「たいまつは?」
芽依が聞いた。
「置いとく」
「ここに?」
「うん」
「なくなるよ」
「うん」
「でも、置くとね」
「うん」
創磨は扉の横のたいまつを見た。
火は小さく揺れている。
白い石も、木片も、扉の板も、その光で少しだけ見えていた。
赤ちゃん村人の家は、もう完全な暗い場所ではなくなった。
怖いまま。
でも、少しだけ見える場所になった。
「今日は、ここまで」
創磨が言った。
望来は何か言いかけた。
でも、赤ちゃん村人の手を見て、ぎゅっと握り直した。
「赤ちゃん、今日はここまで」
自分に言い聞かせるみたいな声だった。
「でも、おうち、あったね」
創磨はうなずいた。
「うん。あった」
「ベッドもあったね」
「うん」
「じゃあ、あとで花にするとね」
創磨は白い石を見た。
まだ花にはできない。
でも、いつか変えるために、ここまで来た。
「うん」
創磨は言った。
「あとで、花にする」
望来はポケットから、しわしわになった白い花を一つ出した。
さっき扉の前に置きたがって、置けなかった花だった。
望来はそれを、白い石の上には置かなかった。
扉の前にも置かなかった。
ただ、自分の手の中で大事に持った。
「これは、まだ」
望来が言った。
「あとで」
芽依が小さくうなずいた。
「うん。あとで」
創磨は閉まった扉を見た。
扉の向こうには、小さなベッドがある。
倒れた器がある。
パンのかけらがある。
白い糸がある。
わからない黒い影がある。
そして、赤ちゃん村人が帰りたい場所がある。
白い石は、まだそこにあった。
でも、扉の横には、たいまつが一本立っている。
花には、まだできなかった。
それでも、ただの石だけではなくなっていた。




