まだあけない
赤ちゃん村人の小さな足が、つよし号のふちを越えようとした。
朝の光が、木と石でできた家の前に落ちている。昨日の夕方には暗くてよく見えなかった扉も、今ははっきり見えた。木の板を並べた、低い扉。大人なら少し身をかがめるような高さでも、赤ちゃん村人には十分大きな、自分の家の入口だった。
赤ちゃん村人は、その扉を見ている。
顔を上げて、手を伸ばして、体を前へ出そうとしていた。
「まだ」
望来が、その手を握った。
小さな手と、小さな手。
どちらも力は弱い。けれど望来は、つよし号の中で身を乗り出しながら、必死に赤ちゃん村人を止めていた。
「まだ、見るだけ」
その言葉に、創磨は息を止めた。
自分が言おうとしていた言葉だった。
でも、先に望来が言った。
望来は帰したいはずだった。昨日からずっと、赤ちゃん村人の家を見つけたかった。花の道を作って、朝の薬も飲んで、ここまで来た。赤ちゃん村人を家に帰すために、ここまで来た。
その望来が、今、止めている。
創磨は屋根を見上げた。
細い白い糸が、屋根の端に残っていた。
朝の光の中では、それは昨日よりも頼りなく見えた。ただの草の繊維みたいにも見える。白く乾いた葉の端にも見える。風が吹くと、ほんの少しだけ揺れる。
けれど、消えてはいない。
そこにある。
「そうま」
芽依が低い声で呼んだ。
「うん」
「あれ、まだある」
「うん」
「じゃあ、開けたらだめやろ」
芽依はそう言いながら、もうポケットに手を入れていた。
創磨はうなずいた。
「うん。今日は開けん」
言うと、胸の奥が少し痛くなった。
開けたい気持ちがなかったわけではない。むしろ、あった。ここまで来たのだから、扉を開けて、中を見て、赤ちゃん村人が安心するところまで見たかった。ちゃんと帰せたと言いたかった。
でも、扉を開けた瞬間、もし中に何かいたら。
もし、屋根の上だけではなく、家の中にも、あの白い糸を出す何かが通っていたら。
創磨は唇を結んだ。
昨日の夜、床下で聞いた音を思い出す。
からん。
かさ。
見えないものの音。
見えていないのに、そこにいるかもしれないと思わされた夜。
あれを、赤ちゃん村人の家の中で起こしたくなかった。
「なんで」
望来が聞いた。
聞いた声は、もう泣きそうだった。
「赤ちゃんのおうちやん」
「うん」
「赤ちゃん、帰りたかよ」
「うん」
「じゃあ、なんで」
望来の手は、赤ちゃん村人の手を握ったままだった。止めているのに、帰したい。帰したいのに、止めている。その二つが、小さな顔の中でぶつかっていた。
創磨はしゃがんだ。
望来と目の高さを少しだけ近づける。
「帰すために、見ると」
「見る?」
「うん。今、何も見らんで開けたら、危なかかもしれん」
「赤ちゃんのおうち、危なか?」
「おうちは、赤ちゃんのおうち」
創磨はゆっくり言った。
「でも、屋根に糸があるけん。中も、まわりも、まだわからん」
「わからんは、石?」
望来が小さく聞いた。
創磨は少しだけ驚いた。
それは、芽依が地図で決めた言葉だった。白い花は通っていい場所。白い石は止まる場所。灰色の石は後で直す場所。木片は家。立てた木片はたいまつ。
望来は、ちゃんと覚えていた。
「うん。わからんは、石」
「……石、いや」
望来は赤ちゃん村人の家の前を見た。
「花がよか」
「あとで花にする」
創磨が言うと、望来は顔を上げた。
「ほんと?」
「ほんと。今、ちゃんと見て、危なくなかったら、あとで花にする」
芽依が横から言った。
「でも、今は石」
芽依はポケットから小さな白い石を出した。
そして、赤ちゃん村人の家の扉の前に置いた。
ころん、と乾いた音がした。
望来の顔がゆがむ。
「そこ、花がよか」
「今はだめ」
「なんでめいが決めると」
「めい、石係やもん」
「みく、花係やもん」
「だけん、今は花置いたらだめって言いよると」
「みく、置きたか」
「置いたら、赤ちゃん行ってしまうやろ!」
芽依の声が少し強くなった。
望来はびくっとした。
赤ちゃん村人は、二人の声の間で、扉を見上げたまま動かない。
創磨はすぐに手を出した。
「芽依、声大きか」
「だって」
「わかる。でも、赤ちゃんもびっくりする」
芽依は口をつぐんだ。
怒っている。けれど、言い返さなかった。
創磨は白い石を見た。
扉の前に置かれた、小さな止まる印。
それは冷たく見えた。
赤ちゃん村人の家に置くには、少し意地悪な印にも見えた。
でも、今は必要だった。
「花は、帰る道」
創磨は言った。
「石は、止まる場所」
望来は涙をためたまま、白い石を見た。
「止まったら、帰れん」
「止まってから、帰る準備すると」
「準備?」
「うん。開けるための準備」
望来は、赤ちゃん村人の手を握り直した。
「開けるため?」
「うん。開けんためじゃなか。開けるために、今日は見よる」
言ってから、創磨自身の胸の中に、その言葉が落ちた。
開けない。
でも、見捨てるのではない。
開けるために、開けない。
それなら少しだけ、立っていられた。
*
まず、家の正面を見た。
扉の横には、小さな窓があった。窓といっても、創磨の家の窓より低く、木の枠も少し歪んでいた。中は暗い。朝の光は外にあるのに、窓の向こうまでは届いていない。
創磨は窓に顔を近づけすぎないようにした。
近づければ中が見えるかもしれない。
でも、もし向こうから何かが見ていたら。
そんなことを考えて、足が止まった。
「そうま、見えんと?」
芽依が聞く。
「暗か」
「たいまついる?」
「中にはまだ置けん」
「じゃあ、外?」
「外なら」
創磨は家の前の地面を見た。
たいまつを置けば、夜になってもここが少し明るくなる。けれど、今持っているたいまつは多くない。村全部を照らせるほどはない。
薬は二十七回ある。
朝に飲ませたあと、薬袋の中には二十七回分。
まだある。
でも、ずっとあるわけではない。
たいまつも同じだった。
使えば減る。
だから、怖いから全部置く、というわけにはいかない。
「ここは、あとで一本」
創磨が言うと、芽依が細い木片を取り出した。
「立てる木片?」
「うん。地図に」
「ここ、たいまつ予定」
芽依は赤ちゃん村人の家を表す木片の前に、細い木片を立てようとした。けれど地面が少し固くて、すぐ倒れた。
「あ」
「倒れた」
望来が言った。
「まだ、たいまつじゃなか」
芽依は少しむっとして、小石を寄せた。木片の根元を挟むようにして、どうにか立てる。
「立った」
「すごか」
創磨が言うと、芽依は少しだけ得意そうな顔をした。
「もう一回」
「すごか」
「よし」
いつものやり取りだった。
そのやり取りがあるだけで、扉の前の重たい空気が少しだけ動いた。
次に、家の横へ回った。
つよし号を動かすには、家の正面の道よりも少し狭かった。左側には草が伸びている。右側には壁。つよし号の角が木の壁に当たらないように、創磨はゆっくり押した。
「みく、手、外に出さんで」
「出しとらん」
「赤ちゃんも」
「赤ちゃん、手、ないない」
望来は赤ちゃん村人の手を自分の膝の上にのせていた。
赤ちゃん村人は、横を通りながらも、何度も扉の方を振り返ろうとする。
そのたびに望来が体を傾けた。
「まだよ」
「まだ、見るだけ」
望来は自分に言い聞かせるように、同じ言葉を何度も言った。
家の横の壁には、目立つ穴はなかった。
でも、木の板と石の間に、小さな隙間がある。
創磨はしゃがんだ。
地面に近いところ。草の影。小さな虫なら通れそうな隙間。けれど、ここは普通の世界ではない。ゲームみたいな世界で、でもゲームよりずっと怖い世界だった。
クモがどこから入るのか。
創磨には、はっきりわからない。
マイクラなら、クモは大きい。横幅がある。普通の小さな隙間から入るというより、湧く場所が問題になる。明るさ。空間。屋根の上。壁の外。
でも、この世界が全部その通りだとは限らない。
「ここ、なんかある?」
芽依が創磨の後ろからのぞいた。
「隙間」
「入れると?」
「クモは、無理かもしれん。でも、わからん」
「じゃあ石」
芽依はすぐ白い石を置こうとした。
創磨は止めた。
「白じゃなくて、灰色」
「なんで」
「直せるかもしれんけん」
芽依は少し考えて、灰色の石を置いた。
「ここ、あとで直す」
「うん」
「土でうめる?」
「土か、木か」
「石は?」
「石でもいいかも」
「じゃあ、あとで」
芽依は地図にも灰色の石を置いた。
小さな地図の上で、赤ちゃん村人の家の横に、灰色の印が増える。
望来がつよし号の中から覗いた。
「そこ、だめ?」
「そこは、あとで直す」
「花になる?」
「直したら、花になる」
望来は少しだけうなずいた。
「じゃあ、よか」
*
家の裏へ回る時、つよし号が一度、がたんと揺れた。
「わっ」
望来が赤ちゃん村人を抱えるようにした。
創磨は慌てて止めた。
「ごめん」
「そうま、またがたんした」
「段差あった」
「灰色?」
芽依がすぐ聞いた。
「うん。灰色」
芽依は地面を見た。家の裏へ続く道は、土が少し盛り上がっていた。昨日までなら、ただのでこぼこにしか見えなかった場所だ。
でも今は違う。
つよし号が通る道。
望来が落ちないための道。
赤ちゃん村人を運ぶ道。
だから、ただのでこぼこでは済まない。
「ここ、低くせんば」
芽依が言った。
「うん」
「今する?」
「今は印だけ」
「また印だけ?」
「うん。全部今したら、疲れる」
創磨は正直に言った。
芽依は創磨の顔を見た。
何か言いそうになって、やめた。
たぶん、「弱い」と言いそうになったのだと思う。
でも、言わなかった。
「じゃあ、灰色」
芽依は灰色の石を置いた。
それから、つよし号の方を見て、少しだけ偉そうに言う。
「みく、ここ、がたんのとこやけん。覚えとって」
「みく、覚えとる」
「ほんと?」
「ほんと」
「じゃあ、ここ何?」
「がたん」
「ちがう。灰色」
「灰色がたん」
芽依は一瞬怒りそうな顔をしたが、創磨は小さく笑った。
「それでよか。灰色がたん」
望来も少し笑った。
赤ちゃん村人は何も言わない。
でも、望来が笑うと、その顔を見上げるようにした。
家の裏は、正面よりも暗かった。
朝なのに、屋根の影が長く残っている。壁の下には草がたまり、乾いた葉がいくつか引っかかっていた。
創磨はそこで足を止めた。
白いものが見えた。
最初は、細い草の根かと思った。
白く乾いた葉の筋かと思った。
けれど、風が吹くと、それは草と一緒には揺れなかった。
草の先と、木の壁の角に、細く引っかかっている。
一本。
ほんの一本。
屋根の上のものよりも短い。
でも、白い。
「芽依」
創磨は小さく呼んだ。
芽依はすぐに声を低くした。
「なに」
「そこ」
指さした先を、芽依が見た。
芽依の目が細くなる。
「……糸?」
「たぶん」
「屋根だけじゃなかやん」
「うん」
創磨の背中が冷たくなった。
屋根だけなら、上を通っただけかもしれないと思えた。赤ちゃん村人の家の屋根を、何かが歩いていっただけ。そう考えたかった。
でも、家の裏の草にも糸がある。
上だけではない。
横か、裏か、地面の近くか。
どこかを通っている。
「くもしゃん?」
望来が聞いた。
創磨はすぐに振り向いた。
望来はつよし号の中で、赤ちゃん村人を抱えるようにしている。顔はもう泣きそうではない。けれど、怖がっていた。
「まだ、わからん」
「わからんは、石」
「うん」
芽依は白い石を手に取った。
でも、置く前に止まった。
「ここ、白?」
「白」
「赤ちゃんのおうち、石だらけになる」
芽依の声が少しだけ揺れた。
創磨は地面を見た。
正面に白い石。
横に灰色の石。
裏には、今から白い石。
地図の中の赤ちゃん村人の家は、だんだん花より石に囲まれていく。
それは、望来が嫌がるのもわかる。
赤ちゃん村人の家なのに。
帰る場所なのに。
石ばかり置かれていく。
「でも、置かんと忘れる」
創磨は言った。
芽依はうなずいた。
「うん」
白い石が置かれた。
赤ちゃん村人の家の裏を表す場所に、小さな白い石。
望来はそれを見て、黙っていた。
しばらくしてから、つよし号の中に残っていた白い花を一つ持った。
「みく?」
創磨が呼ぶと、望来はその花を握ったまま言った。
「今は置かん」
「うん」
「あとで置く」
「うん」
「赤ちゃんのおうち、あとで花にする」
創磨はうなずいた。
「する」
芽依も小さく言った。
「する」
望来は赤ちゃん村人に向かって、花を見せた。
「赤ちゃん、あとで花」
赤ちゃん村人は花を見た。
それから、家を見た。
小さな顔が、扉の方へ向く。
扉は、まだ閉まっている。
*
家の周りを一周して、正面へ戻った時、創磨の足は少し重くなっていた。
走ったわけではない。
戦ったわけでもない。
ただ見て、止まって、しゃがんで、石を置いて、つよし号を押しただけだ。
でも、体の中が疲れている。
怖い場所を何度も見るのは、歩くよりも疲れるのだと初めて知った。
赤ちゃん村人は、また扉へ手を伸ばした。
今度は、さっきよりもはっきりと。
小さな手が、扉の方へ伸びる。
望来の手も、少しだけ緩んだ。
帰したい気持ちが、緩ませたのだと思う。
「みく」
創磨が呼ぶと、望来はびくっとした。
赤ちゃん村人の手を、もう一度握る。
「だめ?」
「今日は、だめ」
「今日だけ?」
「今日だけ」
言い切ってから、創磨は少し怖くなった。
本当に今日だけで済むのか。
明日になれば開けられるのか。
糸が消えるのか。
家の中が安全になるのか。
何もわからない。
でも、今の望来には、「ずっとだめ」とは言えなかった。
「明日、また見る」
「また薬飲んで?」
望来が聞いた。
「うん。朝になったら、薬飲んで、また見る」
「飲まんと行けん?」
「うん。飲まんと行けん」
望来は少しだけ口を結んだ。
昨夜、自分で言った言葉。
飲まんと行けん。
それは、薬を飲まされる言葉ではなく、ここへ来るための言葉になっていた。
「みく、飲む」
「うん」
「赤ちゃんのおうち、花にするけん」
「うん」
芽依が扉の前にしゃがんだ。
白い石の横に、花を置こうとして、手を止める。
「芽依?」
「花は、まだやろ」
「うん」
「でも、何もないと、かわいそう」
芽依は少し考えて、花ではなく、小さな木片を置いた。
白い石の少し横。
扉をふさがない場所。
「これ、約束」
「約束?」
創磨が聞くと、芽依はうなずいた。
「家って印じゃなくて、約束」
「どんな約束?」
「また来るって」
創磨はその木片を見た。
小さな木片。
家でも、たいまつでもない。
ただの、また来る印。
芽依のポケットから出てきた、何にでもなれそうな小さなもの。
「いい」
創磨は言った。
芽依は少しだけ得意そうにした。
「やろ」
望来も木片を見た。
「みくも」
望来は持っていた白い花を、木片の上に置こうとした。
芽依が止めかける。
でも、創磨は首を振った。
「それはよか」
「よかと?」
「うん。道の花じゃなくて、約束の花」
望来は花をそっと木片の横に置いた。
白い石のすぐそば。
でも、石を消す場所ではない。
止まる印の横に、また来る印。
赤ちゃん村人は、その花を見ていた。
望来は赤ちゃん村人の手を握ったまま、扉に向かって小さく言った。
「また来るけん」
声は小さかった。
でも、朝の家の前には、ちゃんと届いた気がした。
「赤ちゃん、おうち、あとでね」
赤ちゃん村人は答えない。
扉も開かない。
屋根の端の白い糸は、まだ風に揺れている。
家の裏にも、白い糸があった。
白い石は増えた。
でも、創磨は昨日ほど、ただ怖いだけではなかった。
正面。
横。
裏。
窓。
段差。
隙間。
糸。
たいまつを置く場所。
あとで直す場所。
止まる場所。
花に変えたい場所。
見えないものが、少しずつ地図の中に入っていく。
わからないままではなくなっていく。
「帰ろう」
創磨は言った。
望来はすぐには返事をしなかった。
赤ちゃん村人の家を見ている。
扉を見ている。
白い石を見ている。
約束の木片と、白い花を見ている。
それから、ゆっくりうなずいた。
「帰る」
つよし号の持ち手を握ると、創磨はもう一度屋根を見上げた。
細い白い糸は、消えていない。
でも、今度は逃げるためだけに見るのではない。
いつか、この扉を開けるために見る。
創磨はつよし号を押した。
白い花の道を、今度は自分たちの家へ向かって戻る。
後ろで、赤ちゃん村人の家の扉は閉まったままだった。
その前に、小さな白い石と、小さな木片と、一輪の白い花だけが残っていた。




