家の前まで
朝は、歌のあとに来た。
創磨が最初に目を開けた時、家の中にはまだ夜の名残が残っていた。
たいまつの火は小さくなっている。
けれど消えてはいない。
壁に映る影は、夜よりも薄くなっていた。窓の外は黒ではなく、少しだけ青い。村の屋根の形が、ぼんやりと見え始めている。
朝だった。
ちゃんと、朝が来ていた。
創磨はしばらく、動かずにその光を見ていた。
昨日の夜、望来が歌った声が、まだ耳の奥に残っていた。
屋根より高いこいのぼり。
歌詞は少し違っていた。
節もずれていた。
でも、あれは家の歌だった。
父と母と、車の中で歌った声。
芽依が「うるさか」と言いながら結局歌う声。
望来が好きなところだけ大きく歌う声。
この世界に来てから、何度も消えそうになった家の空気が、昨日の夜だけは少し戻ってきた。
でも、朝になると、またやることがあった。
朝の薬。
創磨はゆっくり体を起こした。
床の上には、つよし号が置かれている。
昨夜、床下の入口の近くへ寄せたままだ。
その中で、望来は体を丸めるようにして眠っていた。ベッドに運んだはずなのに、夜の途中で半分起きて「つよしくん」と言い、結局、つよし号のすぐ横に布を敷いて寝た。
赤ちゃん村人は、その隣に座るように眠っている。
望来の手は、赤ちゃん村人の服の端をつまんだままだった。
離さない。
昨日の夜、そう言ったわけではない。
でも、小さな手はずっと離していなかった。
「……そうま」
芽依の声がした。
創磨が振り返ると、芽依ももう起きていた。
髪は少し乱れている。
目は眠そうなのに、顔はもう朝の顔になっている。
「朝?」
「うん」
「からん、鳴った?」
「聞こえんかった」
創磨は耳をすませた。
家の横。
裏。
屋根。
床板の上。
何も聞こえない。
村人の低い声が遠くから聞こえた。
鉄ゴーレムの足音も、少し離れたところで、どん、と鳴った。
普通の朝の音だった。
でも、普通に聞こえることが安全とは限らない。
それはもう、何度も覚えた。
「先、薬」
創磨が言うと、芽依は小さくうなずいた。
それだけで、部屋の空気が少し変わった。
薬。
昨日の夜、望来は自分で飲むと言った。
飲まんと行けん、と言った。
飲ませた。
残りは二十八回になった。
今から朝の分を飲ませる。
そうしたら、二十七回。
十三日と半分。
創磨は、胸の奥でその数字を数えた。
声に出す前から、数字は重かった。
でも、飲ませないという選択はない。
薬が減るのは怖い。
けれど、飲める朝が来たことは、ちゃんとよいことだった。
創磨は棚の方へ歩いた。
白い薬袋を手に取る。
昨日より、また少し軽い。
軽いことに慣れたくない。
でも、手順には慣れなければならない。
間違えないために。
忘れないために。
創磨は袋の口を開けた。
小さな薬を一つ取り出す。
芽依は水の器を持ってきた。
「みく、起こすよ」
「うん」
芽依が望来の肩をそっと揺らした。
「みく」
望来は動かなかった。
「みく、朝よ」
「……やーねー」
寝ぼけた声が返ってきた。
芽依の手が止まる。
創磨も思わず見た。
「……こいのぼり?」
望来は目を閉じたまま、小さく口を動かした。
「たーかーい……」
芽依が一瞬だけ、笑いそうな顔になった。
でもすぐに口を結び直す。
「歌はあと。薬」
「……おくすり?」
望来の目が少しだけ開いた。
「うん。朝の薬」
「にがい?」
「にがい」
「パンは?」
「あとで」
「大きいあとで?」
「普通のあとで」
「普通……」
望来は少しだけ眉を寄せた。
まだ眠そうだった。
まぶたが重そうで、髪も頬に貼りついている。
けれど、赤ちゃん村人の服をつまんだ手だけは、しっかり残っていた。
「赤ちゃんは?」
「赤ちゃんも起きるけん」
芽依が言った。
「でも、先にみく」
「赤ちゃんもおうち行く?」
「それもあと」
望来はぼんやりしたまま、赤ちゃん村人を見た。
赤ちゃん村人も、ゆっくり目を開けていた。
顔は相変わらず読みにくい。
けれど、窓の外の朝の光を見たあと、すぐに村の奥の方へ顔を向けた。
自分の家がある方。
創磨はその視線を見て、薬を持つ指に少し力が入った。
「みく、口」
望来は小さく口を開けた。
昨日より、嫌がらなかった。
眠いからかもしれない。
昨日、自分で飲むと言ったことをまだ覚えているからかもしれない。
それはわからない。
創磨は薬を入れた。
芽依が器を支える。
「ゆっくり」
望来は水を飲んだ。
こくん。
小さな喉が動く。
創磨は、その動きを最後まで見た。
薬が口の中に残っていないか。
むせていないか。
顔色は変わっていないか。
大丈夫か。
いつもの確認を、ひとつずつする。
「飲めた」
創磨が言った。
「飲めた」
芽依も言った。
望来は顔をしかめた。
「にがい」
「飲めたけん、えらい」
「みく、飲んだ」
「うん」
「赤ちゃんのおうち、行ける?」
創磨はすぐに答えなかった。
芽依も、望来の顔を見た。
望来はまだ半分眠そうなのに、その言葉だけははっきりしていた。
赤ちゃん村人の家。
昨日の夜から、そこに気持ちが向いている。
創磨は薬袋を閉じた。
「準備してから」
「準備?」
「うん。花の道見る。木片も見る。つよし号も引っぱれるか見る。赤ちゃんの家の周りも見る」
「おうち、入る?」
「まだわからん」
望来の口が少し曲がった。
「また?」
「また」
「赤ちゃん、かわいそう」
「うん」
創磨はうなずいた。
「でも、危なかったら入らん」
望来は黙った。
赤ちゃん村人の服をつまむ指に、少しだけ力が入る。
芽依がすぐに言った。
「やさしく」
望来は手元を見て、力をゆるめた。
「やさしくしとる」
「今、ぎゅってした」
「ちょっと」
「ちょっとでも痛かかもしれん」
望来は赤ちゃん村人の顔をのぞき込んだ。
「痛くなか?」
赤ちゃん村人は答えない。
望来は真面目な顔でうなずいた。
「ごめんね」
芽依は少しだけ驚いた顔をした。
創磨も、薬袋を棚へ戻す手を止めた。
望来は、昨日から少し変わっている。
大きく変わったわけではない。
まだ三歳で、わがままで、眠くて、苦い薬のあとにはパンをほしがる。
でも、赤ちゃん村人にだけは、時々すっと謝る。
大事にしたい相手には、言葉が少し変わる。
「二十七回」
創磨は小さく言った。
芽依がすぐに顔を上げた。
「……二十七?」
「うん。十三日と半分」
その言葉を聞いて、芽依の表情が少し固くなった。
望来は数字を聞いても、よくわかっていない顔だった。
「まだある?」
望来が聞いた。
創磨は、前と同じように言葉を選んだ。
「まだある」
「よかった」
望来はそれだけ言って、赤ちゃん村人の方を向いた。
「赤ちゃん、まだあるって」
赤ちゃん村人は薬袋ではなく、望来を見た。
その小さな四角い顔が、たいまつの残り火と朝の光のあいだで、少しだけやわらかく見えた。
*
朝食は、静かだった。
パンは少し。
焼きじゃがいもも少し。
にんじんは、前より小さく切って分けた。
創磨は自分の分を、今日はすぐに食べた。
望来が見てくる前に、口へ入れた。
芽依がそれを見て、少しだけ満足そうにした。
「そうま、今日はちゃんと食べたね」
「うん」
「赤ちゃんのおうち行くなら、食べんばやろ」
「うん」
「途中でふらふらしたら困るけん」
「わかっとる」
「ほんとに?」
「ほんと」
望来は自分の焼きじゃがいもを見て、創磨の手元を見た。
「そうまの、ちょっと」
「もう食べた」
「えー」
「みく、自分のあるやん」
「赤ちゃんにあげる」
「みくが食べてから」
芽依が言った。
「みくが食べんと、つよし号でもきつくなるとよ」
「つよしくん乗るもん」
「乗ってもきつくなる時はあると」
「ならん」
「なる」
「ならんもん」
「薬飲んだばっかやけん、ちゃんと食べる」
芽依の言い方は、少し母に似ていた。
望来は口をとがらせたが、焼きじゃがいもをかじった。
赤ちゃん村人にも、小さくちぎった分を渡す。
「ちょっとよ」
芽依が言う。
「ちょっと」
望来は本当に小さくちぎった。
赤ちゃん村人はそれを受け取った。
その手元を見ながら、創磨は今日の順番を頭の中で並べた。
薬は飲ませた。
食べた。
水もある。
つよし号は動かせる。
花の道は、昨日置いた。
木片も置いた。
白い石は危ない場所。
灰色の石は見る場所。
白い花と木片は通っていい道。
赤ちゃん村人の家の前には、白い花がある。
でも、屋根端の糸がある。
見えた糸。
昨日、入らないと決めた理由。
今日も、それがあるなら簡単には入れない。
「今日は、見るだけかもしれん」
創磨は言った。
芽依がうなずく。
「うん」
望来はすぐに顔を上げた。
「また見るだけ?」
「危なかったら」
「危なくなかったら?」
「それを見に行く」
「じゃあ、見る」
「うん。見る」
望来は少し考えてから、赤ちゃん村人に向かって言った。
「赤ちゃん、見るだけかもしれん」
赤ちゃん村人は何も言わない。
「でも、行くけん」
望来は続けた。
「みく、飲んだけん」
創磨は、その言葉を聞いて、胸の奥がまた少し熱くなった。
望来にとって、薬を飲んだことは、今日の約束になっている。
苦い薬を飲んだ。
だから、明日ではなく今日、赤ちゃん村人の家へ行く。
それは三歳の理屈だった。
でも、今の創磨たちには、その理屈が必要だった。
*
外に出ると、朝の村は昨日の夜とまるで違っていた。
白い花が見える。
昨日、夕方の影に沈みそうだった花が、朝の光の中ではちゃんと白かった。
花の横に置いた木片も、土の上で小さな影を作っている。
夜には頼りなくて、今にも消えそうだった道。
それが朝になると、少しだけ道らしくなっていた。
「見える」
芽依が言った。
「うん」
創磨はうなずいた。
「昨日より見える」
「めいの木片、見えるやろ」
「見える」
「花だけやったら、たぶんわからんかった」
「うん」
「めいの木片、いるやろ」
「いる」
芽依は少し得意そうにした。
でも、その顔はすぐに真面目に戻った。
花と木片の道の先は、赤ちゃん村人の家へ続いている。
楽しい道ではない。
昨日、入れなかった家へ戻る道だ。
創磨はつよし号の縄を握った。
望来と赤ちゃん村人は、つよし号の中に座っている。
望来は赤ちゃん村人の手を握っているが、昨日より少しやさしい。
芽依はつよし号の横についた。
「みく、体出さんとよ」
「出さん」
「花置く時も、もう置いてあるけん、今日は出さん」
「見るだけ」
「そう。見るだけ」
「赤ちゃんも?」
「赤ちゃんも見るだけ」
望来は赤ちゃん村人の顔をのぞき込んだ。
「赤ちゃん、見るだけよ」
赤ちゃん村人は、村の奥を見ている。
家の方だ。
朝の光の中で、昨日よりはっきり見える。
小さな家。
低い屋根。
小さな扉。
窓がひとつ。
その屋根の端に、昨日見つけた白い糸があるかもしれない。
創磨は縄を引いた。
つよし号が、ずず、と音を立てて動く。
昨日と同じ道。
でも、朝に進むと少し違う。
花が見える。
木片が見える。
灰色の石も見える。
どこで見るのか。
どこで止まるのか。
どこから先が危ないのか。
地図で決めたことが、本物の道に少しずつ移っている。
「ここ、戻る花」
望来が言った。
「うん」
創磨が答える。
「ここ、木」
「うん」
「ここ、めいの?」
「めいの木」
芽依が言った。
「でも、みんなの道」
「みくの花も」
「そう。みくの花も」
望来はうれしそうにした。
「赤ちゃん、ここ戻るとよ」
赤ちゃん村人は、望来の声を聞いているのか、ただ揺れに合わせて顔を動かしているのか、わからない。
けれど、望来は教え続けた。
「白い石、だめ」
「うん。白い石は危なか」
「灰色、見る」
「そう」
「木と花、よか」
「うん。通ってよか」
創磨はその声を聞きながら、前を見た。
望来が覚えている。
自分で、道の意味を言っている。
ただ連れていかれるだけではない。
赤ちゃん村人に教えることで、自分も守る側になっている。
そのことが、少しだけ頼もしくて、同じくらい怖かった。
守ろうとする望来は、前に出るかもしれない。
赤ちゃん村人が動けば、追いかけるかもしれない。
だから、今日も止めなければいけない。
やさしく。
でも、はっきり。
井戸の横に来た。
昨日立てたたいまつは、まだ残っていた。
火はほとんど小さくなっている。
でも、完全には消えていない。
木片の影が、朝の光とは違う向きに残っていた。
「たいまつ、もう少しあとで替えんば」
創磨が言うと、芽依がうなずいた。
「今?」
「今は家の前まで」
「帰りに?」
「帰りに見る」
「忘れんように、ここ、石置く?」
「灰色?」
「灰色は見る場所やろ」
「うん。置いて」
芽依はポケットから灰色の小石を一つ出した。
また持っていた。
創磨はもう驚かなかった。
芽依が石を置く。
井戸の横。
たいまつの近く。
あとで見る場所。
「これ、めいの?」
望来が聞く。
「めいの石」
「みくも置く」
「今日はだめ。つよし号から出ん約束」
「……じゃあ、帰り」
「帰りも、危なかったらだめ」
「また?」
「また」
望来は口を曲げた。
でも、飛び出そうとはしなかった。
赤ちゃん村人の手を握って、つよし号の中に座っている。
昨日より、少しだけ聞けている。
それは、薬を飲んだからかもしれない。
歌ったからかもしれない。
赤ちゃん村人を大事にしたいからかもしれない。
どれでもよかった。
今、座っていてくれるなら、それだけでよかった。
*
赤ちゃん村人の家が近づくにつれて、つよし号の音が大きく聞こえた。
ずず。
こつ。
ずず。
木の底が土にすれる音。
車輪ではなく、船を無理に地面で引いているような音。
つよし号は、草の角に引っかかるたびに止まった。
芽依が前へ回って、少し持ち上げる。
創磨が縄を引く。
望来が「わっ」と小さく揺れる。
赤ちゃん村人も一緒に揺れる。
「みく、座っとって」
「座っとる」
「赤ちゃん、持ちすぎんで」
「やさしく」
「そう。やさしく」
昨日と同じやり取り。
でも、昨日より声は少し落ち着いていた。
家の前には、昨日置いた白い花があった。
望来と赤ちゃん村人が一緒に置いた花。
朝の光の中で見ると、それは少しだけつぶれていた。
土に押されて、花びらの端が曲がっている。
それでも、白かった。
ここまで来たしるし。
また来ると言ったしるし。
帰れなかった家の前に置いた、約束みたいなしるし。
「みくの花」
望来が言った。
「うん」
創磨はつよし号を止めた。
赤ちゃん村人の家は、目の前にある。
昨日より近い。
昨日より明るい。
でも、近づいたぶん、怖さもはっきり見えた。
小さな扉。
木の取っ手。
窓の上の影。
屋根の端。
創磨は屋根を見た。
あった。
白い糸。
昨日見たものと同じ場所。
屋根の端に、細い白いものが一本、朝の光に引っかかるように残っている。
消えていない。
見間違いでもなかった。
「糸」
創磨が言った。
芽依がすぐに屋根を見上げる。
「ある?」
「ある」
「どこ」
「あそこ。屋根の端」
芽依は目を細めた。
そして、顔を少しこわばらせた。
「……ある」
望来も顔を上げた。
「ひも?」
「うん」
「くもしゃん?」
「たぶん」
「また、たぶん」
芽依が小さく言った。
でも、今日はそれ以上言わなかった。
たぶんでも、糸はある。
それだけで十分だった。
赤ちゃん村人は、つよし号の中で体を前に傾けた。
家を見ている。
扉を見ている。
小さな手が、つよし号のへりにかかった。
降りようとする。
「だめ」
望来が先に言った。
創磨と芽依が同時に望来を見た。
望来は赤ちゃん村人の服をつかんでいる。
強くではない。
でも、ちゃんと止めていた。
「赤ちゃん、だめ」
望来は言った。
「まだ、見るだけ」
赤ちゃん村人は止まった。
言葉がわかったのか、望来の手に止められただけなのかはわからない。
でも、降りなかった。
芽依が小さく息を吐いた。
「みく、えらい」
「みく、危なくせん係やけん」
「うん」
創磨は家を見た。
今なら扉に手が届く。
開けようと思えば、開けられる。
中に誰かいるかもしれない。
赤ちゃん村人の親がいるかもしれない。
パンやベッドや、何かの手がかりがあるかもしれない。
この赤ちゃん村人が、どこから来たのか。
どうして一人なのか。
家族がいるのか。
そういうことが、わかるかもしれない。
開けたい。
少しだけ、本当に思った。
でも、屋根の端には糸がある。
窓の上には影がある。
扉の前には、まだ自分たちしかいない。
鉄ゴーレムは少し遠い。
たいまつも十分ではない。
つよし号は、すぐには後ろへ下がれない。
望来は中を見たら、きっと入りたがる。
赤ちゃん村人は、もっと入りたがる。
一度開けたら、見るだけで止まれるかわからない。
創磨は扉から一歩下がった。
「今日は、まだ開けん」
芽依がすぐに創磨を見た。
「開けんと?」
「うん」
望来も顔を上げる。
「なんで?」
「先に周り見る」
「もう見た」
「屋根だけじゃ足りん」
創磨は家の横を見た。
壁の下。
裏へ続く影。
窓の隙間。
屋根の端。
「横と裏も見る。たいまつ置ける場所も見る。からん作れるかも見る。赤ちゃんとみくが動いても戻れる場所も決める」
言いながら、創磨は自分で自分の言葉を確かめていた。
怖いからやめるのではない。
入らないための理由を作って逃げるのでもない。
入るために、今はまだ開けない。
それを、ちゃんと自分に言わなければならなかった。
「中、見たくなかと?」
芽依が聞いた。
創磨は扉を見た。
「見たい」
「じゃあ」
「でも、見たくても、今じゃなか」
芽依は黙った。
少し不満そうだった。
でも、反対はしなかった。
芽依もわかっている。
入ってしまえば、戻れなくなるかもしれない。
まだ準備は足りない。
望来は、つよし号の中から扉を見ていた。
「赤ちゃんのおうち」
「うん」
「ここ」
「うん」
「赤ちゃん、帰りたか」
「うん」
「でも、だめ?」
創磨はしゃがんだ。
望来と同じ高さになる。
「今日は、家の前まで」
「前まで?」
「うん。昨日は、暗くなる前に帰った。今日は、朝にここまで来れた」
望来は扉を見た。
「入らん?」
「まだ」
「まだ?」
「まだ」
望来は赤ちゃん村人の顔を見た。
そして、小さな声で言った。
「赤ちゃん、おうちよ」
赤ちゃん村人は扉を見ていた。
望来は続けた。
「でも、まだ。そうまが見るって」
芽依が少しだけ笑いそうな顔になった。
「そうまが見る係やけんね」
「めいは?」
「めいは、危なか場所見つける係」
「みくは?」
「赤ちゃんを危なくせん係」
望来はこくんとうなずいた。
「みく、止めた」
「うん。止めた」
「赤ちゃん、降りんかった」
「えらい」
望来は少しだけ胸を張った。
赤ちゃん村人は、まだ扉を見ている。
その小さな姿が、朝の光の中でとても小さく見えた。
家の前にいるのに、家に入れない。
それは、昨日より少し進んでいるのに、まだ遠いということだった。
創磨は扉を見た。
手を伸ばせば届く。
でも、伸ばさない。
それも、今日の仕事だった。
「まず、周り」
創磨は言った。
「屋根の糸、残っとる。横も見る。裏も見る。たいまつ置く場所を決める。それから、次に来た時に開けるか決める」
「次?」
望来が聞いた。
「うん」
「また来る?」
「来る」
創磨ははっきり言った。
「薬があるうちに、ちゃんと見る。帰るためにも、赤ちゃんを帰すためにも」
その言葉を言ってから、創磨は胸の中で数字をもう一度数えた。
二十七回。
十三日と半分。
減った。
確実に減った。
でも、今日、ここまで来た。
昨日は暗くなって帰った。
今日は朝に、家の前まで来た。
まだ扉は開けていない。
でも、前まで来た。
創磨は、その小さな進みを、今だけはちゃんと認めようと思った。
白い花が足元にある。
芽依の木片が道にある。
つよし号には望来と赤ちゃん村人がいる。
屋根の端には、白い糸がある。
家の中には、まだ何があるかわからない。
創磨は扉の前に立ったまま、手を握った。
開けないために。
次に開けるために。
怖いものから逃げるのではなく、守る準備をするために。
「今日は、家の前まで」
創磨はもう一度言った。
芽依がうなずいた。
望来も、小さくうなずいた。
赤ちゃん村人だけが、扉を見ていた。
けれど、その手はまだ、望来の手の中にあった。




