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妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


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32/32

家の前まで


 朝は、歌のあとに来た。


 創磨が最初に目を開けた時、家の中にはまだ夜の名残が残っていた。


 たいまつの火は小さくなっている。


 けれど消えてはいない。


 壁に映る影は、夜よりも薄くなっていた。窓の外は黒ではなく、少しだけ青い。村の屋根の形が、ぼんやりと見え始めている。


 朝だった。


 ちゃんと、朝が来ていた。


 創磨はしばらく、動かずにその光を見ていた。


 昨日の夜、望来が歌った声が、まだ耳の奥に残っていた。


 屋根より高いこいのぼり。


 歌詞は少し違っていた。


 節もずれていた。


 でも、あれは家の歌だった。


 父と母と、車の中で歌った声。


 芽依が「うるさか」と言いながら結局歌う声。


 望来が好きなところだけ大きく歌う声。


 この世界に来てから、何度も消えそうになった家の空気が、昨日の夜だけは少し戻ってきた。


 でも、朝になると、またやることがあった。


 朝の薬。


 創磨はゆっくり体を起こした。


 床の上には、つよし号が置かれている。


 昨夜、床下の入口の近くへ寄せたままだ。


 その中で、望来は体を丸めるようにして眠っていた。ベッドに運んだはずなのに、夜の途中で半分起きて「つよしくん」と言い、結局、つよし号のすぐ横に布を敷いて寝た。


 赤ちゃん村人は、その隣に座るように眠っている。


 望来の手は、赤ちゃん村人の服の端をつまんだままだった。


 離さない。


 昨日の夜、そう言ったわけではない。


 でも、小さな手はずっと離していなかった。


「……そうま」


 芽依の声がした。


 創磨が振り返ると、芽依ももう起きていた。


 髪は少し乱れている。


 目は眠そうなのに、顔はもう朝の顔になっている。


「朝?」


「うん」


「からん、鳴った?」


「聞こえんかった」


 創磨は耳をすませた。


 家の横。


 裏。


 屋根。


 床板の上。


 何も聞こえない。


 村人の低い声が遠くから聞こえた。


 鉄ゴーレムの足音も、少し離れたところで、どん、と鳴った。


 普通の朝の音だった。


 でも、普通に聞こえることが安全とは限らない。


 それはもう、何度も覚えた。


「先、薬」


 創磨が言うと、芽依は小さくうなずいた。


 それだけで、部屋の空気が少し変わった。


 薬。


 昨日の夜、望来は自分で飲むと言った。


 飲まんと行けん、と言った。


 飲ませた。


 残りは二十八回になった。


 今から朝の分を飲ませる。


 そうしたら、二十七回。


 十三日と半分。


 創磨は、胸の奥でその数字を数えた。


 声に出す前から、数字は重かった。


 でも、飲ませないという選択はない。


 薬が減るのは怖い。


 けれど、飲める朝が来たことは、ちゃんとよいことだった。


 創磨は棚の方へ歩いた。


 白い薬袋を手に取る。


 昨日より、また少し軽い。


 軽いことに慣れたくない。


 でも、手順には慣れなければならない。


 間違えないために。


 忘れないために。


 創磨は袋の口を開けた。


 小さな薬を一つ取り出す。


 芽依は水の器を持ってきた。


「みく、起こすよ」


「うん」


 芽依が望来の肩をそっと揺らした。


「みく」


 望来は動かなかった。


「みく、朝よ」


「……やーねー」


 寝ぼけた声が返ってきた。


 芽依の手が止まる。


 創磨も思わず見た。


「……こいのぼり?」


 望来は目を閉じたまま、小さく口を動かした。


「たーかーい……」


 芽依が一瞬だけ、笑いそうな顔になった。


 でもすぐに口を結び直す。


「歌はあと。薬」


「……おくすり?」


 望来の目が少しだけ開いた。


「うん。朝の薬」


「にがい?」


「にがい」


「パンは?」


「あとで」


「大きいあとで?」


「普通のあとで」


「普通……」


 望来は少しだけ眉を寄せた。


 まだ眠そうだった。


 まぶたが重そうで、髪も頬に貼りついている。


 けれど、赤ちゃん村人の服をつまんだ手だけは、しっかり残っていた。


「赤ちゃんは?」


「赤ちゃんも起きるけん」


 芽依が言った。


「でも、先にみく」


「赤ちゃんもおうち行く?」


「それもあと」


 望来はぼんやりしたまま、赤ちゃん村人を見た。


 赤ちゃん村人も、ゆっくり目を開けていた。


 顔は相変わらず読みにくい。


 けれど、窓の外の朝の光を見たあと、すぐに村の奥の方へ顔を向けた。


 自分の家がある方。


 創磨はその視線を見て、薬を持つ指に少し力が入った。


「みく、口」


 望来は小さく口を開けた。


 昨日より、嫌がらなかった。


 眠いからかもしれない。


 昨日、自分で飲むと言ったことをまだ覚えているからかもしれない。


 それはわからない。


 創磨は薬を入れた。


 芽依が器を支える。


「ゆっくり」


 望来は水を飲んだ。


 こくん。


 小さな喉が動く。


 創磨は、その動きを最後まで見た。


 薬が口の中に残っていないか。


 むせていないか。


 顔色は変わっていないか。


 大丈夫か。


 いつもの確認を、ひとつずつする。


「飲めた」


 創磨が言った。


「飲めた」


 芽依も言った。


 望来は顔をしかめた。


「にがい」


「飲めたけん、えらい」


「みく、飲んだ」


「うん」


「赤ちゃんのおうち、行ける?」


 創磨はすぐに答えなかった。


 芽依も、望来の顔を見た。


 望来はまだ半分眠そうなのに、その言葉だけははっきりしていた。


 赤ちゃん村人の家。


 昨日の夜から、そこに気持ちが向いている。


 創磨は薬袋を閉じた。


「準備してから」


「準備?」


「うん。花の道見る。木片も見る。つよし号も引っぱれるか見る。赤ちゃんの家の周りも見る」


「おうち、入る?」


「まだわからん」


 望来の口が少し曲がった。


「また?」


「また」


「赤ちゃん、かわいそう」


「うん」


 創磨はうなずいた。


「でも、危なかったら入らん」


 望来は黙った。


 赤ちゃん村人の服をつまむ指に、少しだけ力が入る。


 芽依がすぐに言った。


「やさしく」


 望来は手元を見て、力をゆるめた。


「やさしくしとる」


「今、ぎゅってした」


「ちょっと」


「ちょっとでも痛かかもしれん」


 望来は赤ちゃん村人の顔をのぞき込んだ。


「痛くなか?」


 赤ちゃん村人は答えない。


 望来は真面目な顔でうなずいた。


「ごめんね」


 芽依は少しだけ驚いた顔をした。


 創磨も、薬袋を棚へ戻す手を止めた。


 望来は、昨日から少し変わっている。


 大きく変わったわけではない。


 まだ三歳で、わがままで、眠くて、苦い薬のあとにはパンをほしがる。


 でも、赤ちゃん村人にだけは、時々すっと謝る。


 大事にしたい相手には、言葉が少し変わる。


「二十七回」


 創磨は小さく言った。


 芽依がすぐに顔を上げた。


「……二十七?」


「うん。十三日と半分」


 その言葉を聞いて、芽依の表情が少し固くなった。


 望来は数字を聞いても、よくわかっていない顔だった。


「まだある?」


 望来が聞いた。


 創磨は、前と同じように言葉を選んだ。


「まだある」


「よかった」


 望来はそれだけ言って、赤ちゃん村人の方を向いた。


「赤ちゃん、まだあるって」


 赤ちゃん村人は薬袋ではなく、望来を見た。


 その小さな四角い顔が、たいまつの残り火と朝の光のあいだで、少しだけやわらかく見えた。


     *


 朝食は、静かだった。


 パンは少し。


 焼きじゃがいもも少し。


 にんじんは、前より小さく切って分けた。


 創磨は自分の分を、今日はすぐに食べた。


 望来が見てくる前に、口へ入れた。


 芽依がそれを見て、少しだけ満足そうにした。


「そうま、今日はちゃんと食べたね」


「うん」


「赤ちゃんのおうち行くなら、食べんばやろ」


「うん」


「途中でふらふらしたら困るけん」


「わかっとる」


「ほんとに?」


「ほんと」


 望来は自分の焼きじゃがいもを見て、創磨の手元を見た。


「そうまの、ちょっと」


「もう食べた」


「えー」


「みく、自分のあるやん」


「赤ちゃんにあげる」


「みくが食べてから」


 芽依が言った。


「みくが食べんと、つよし号でもきつくなるとよ」


「つよしくん乗るもん」


「乗ってもきつくなる時はあると」


「ならん」


「なる」


「ならんもん」


「薬飲んだばっかやけん、ちゃんと食べる」


 芽依の言い方は、少し母に似ていた。


 望来は口をとがらせたが、焼きじゃがいもをかじった。


 赤ちゃん村人にも、小さくちぎった分を渡す。


「ちょっとよ」


 芽依が言う。


「ちょっと」


 望来は本当に小さくちぎった。


 赤ちゃん村人はそれを受け取った。


 その手元を見ながら、創磨は今日の順番を頭の中で並べた。


 薬は飲ませた。


 食べた。


 水もある。


 つよし号は動かせる。


 花の道は、昨日置いた。


 木片も置いた。


 白い石は危ない場所。


 灰色の石は見る場所。


 白い花と木片は通っていい道。


 赤ちゃん村人の家の前には、白い花がある。


 でも、屋根端の糸がある。


 見えた糸。


 昨日、入らないと決めた理由。


 今日も、それがあるなら簡単には入れない。


「今日は、見るだけかもしれん」


 創磨は言った。


 芽依がうなずく。


「うん」


 望来はすぐに顔を上げた。


「また見るだけ?」


「危なかったら」


「危なくなかったら?」


「それを見に行く」


「じゃあ、見る」


「うん。見る」


 望来は少し考えてから、赤ちゃん村人に向かって言った。


「赤ちゃん、見るだけかもしれん」


 赤ちゃん村人は何も言わない。


「でも、行くけん」


 望来は続けた。


「みく、飲んだけん」


 創磨は、その言葉を聞いて、胸の奥がまた少し熱くなった。


 望来にとって、薬を飲んだことは、今日の約束になっている。


 苦い薬を飲んだ。


 だから、明日ではなく今日、赤ちゃん村人の家へ行く。


 それは三歳の理屈だった。


 でも、今の創磨たちには、その理屈が必要だった。


     *


 外に出ると、朝の村は昨日の夜とまるで違っていた。


 白い花が見える。


 昨日、夕方の影に沈みそうだった花が、朝の光の中ではちゃんと白かった。


 花の横に置いた木片も、土の上で小さな影を作っている。


 夜には頼りなくて、今にも消えそうだった道。


 それが朝になると、少しだけ道らしくなっていた。


「見える」


 芽依が言った。


「うん」


 創磨はうなずいた。


「昨日より見える」


「めいの木片、見えるやろ」


「見える」


「花だけやったら、たぶんわからんかった」


「うん」


「めいの木片、いるやろ」


「いる」


 芽依は少し得意そうにした。


 でも、その顔はすぐに真面目に戻った。


 花と木片の道の先は、赤ちゃん村人の家へ続いている。


 楽しい道ではない。


 昨日、入れなかった家へ戻る道だ。


 創磨はつよし号の縄を握った。


 望来と赤ちゃん村人は、つよし号の中に座っている。


 望来は赤ちゃん村人の手を握っているが、昨日より少しやさしい。


 芽依はつよし号の横についた。


「みく、体出さんとよ」


「出さん」


「花置く時も、もう置いてあるけん、今日は出さん」


「見るだけ」


「そう。見るだけ」


「赤ちゃんも?」


「赤ちゃんも見るだけ」


 望来は赤ちゃん村人の顔をのぞき込んだ。


「赤ちゃん、見るだけよ」


 赤ちゃん村人は、村の奥を見ている。


 家の方だ。


 朝の光の中で、昨日よりはっきり見える。


 小さな家。


 低い屋根。


 小さな扉。


 窓がひとつ。


 その屋根の端に、昨日見つけた白い糸があるかもしれない。


 創磨は縄を引いた。


 つよし号が、ずず、と音を立てて動く。


 昨日と同じ道。


 でも、朝に進むと少し違う。


 花が見える。


 木片が見える。


 灰色の石も見える。


 どこで見るのか。


 どこで止まるのか。


 どこから先が危ないのか。


 地図で決めたことが、本物の道に少しずつ移っている。


「ここ、戻る花」


 望来が言った。


「うん」


 創磨が答える。


「ここ、木」


「うん」


「ここ、めいの?」


「めいの木」


 芽依が言った。


「でも、みんなの道」


「みくの花も」


「そう。みくの花も」


 望来はうれしそうにした。


「赤ちゃん、ここ戻るとよ」


 赤ちゃん村人は、望来の声を聞いているのか、ただ揺れに合わせて顔を動かしているのか、わからない。


 けれど、望来は教え続けた。


「白い石、だめ」


「うん。白い石は危なか」


「灰色、見る」


「そう」


「木と花、よか」


「うん。通ってよか」


 創磨はその声を聞きながら、前を見た。


 望来が覚えている。


 自分で、道の意味を言っている。


 ただ連れていかれるだけではない。


 赤ちゃん村人に教えることで、自分も守る側になっている。


 そのことが、少しだけ頼もしくて、同じくらい怖かった。


 守ろうとする望来は、前に出るかもしれない。


 赤ちゃん村人が動けば、追いかけるかもしれない。


 だから、今日も止めなければいけない。


 やさしく。


 でも、はっきり。


 井戸の横に来た。


 昨日立てたたいまつは、まだ残っていた。


 火はほとんど小さくなっている。


 でも、完全には消えていない。


 木片の影が、朝の光とは違う向きに残っていた。


「たいまつ、もう少しあとで替えんば」


 創磨が言うと、芽依がうなずいた。


「今?」


「今は家の前まで」


「帰りに?」


「帰りに見る」


「忘れんように、ここ、石置く?」


「灰色?」


「灰色は見る場所やろ」


「うん。置いて」


 芽依はポケットから灰色の小石を一つ出した。


 また持っていた。


 創磨はもう驚かなかった。


 芽依が石を置く。


 井戸の横。


 たいまつの近く。


 あとで見る場所。


「これ、めいの?」


 望来が聞く。


「めいの石」


「みくも置く」


「今日はだめ。つよし号から出ん約束」


「……じゃあ、帰り」


「帰りも、危なかったらだめ」


「また?」


「また」


 望来は口を曲げた。


 でも、飛び出そうとはしなかった。


 赤ちゃん村人の手を握って、つよし号の中に座っている。


 昨日より、少しだけ聞けている。


 それは、薬を飲んだからかもしれない。


 歌ったからかもしれない。


 赤ちゃん村人を大事にしたいからかもしれない。


 どれでもよかった。


 今、座っていてくれるなら、それだけでよかった。


     *


 赤ちゃん村人の家が近づくにつれて、つよし号の音が大きく聞こえた。


 ずず。


 こつ。


 ずず。


 木の底が土にすれる音。


 車輪ではなく、船を無理に地面で引いているような音。


 つよし号は、草の角に引っかかるたびに止まった。


 芽依が前へ回って、少し持ち上げる。


 創磨が縄を引く。


 望来が「わっ」と小さく揺れる。


 赤ちゃん村人も一緒に揺れる。


「みく、座っとって」


「座っとる」


「赤ちゃん、持ちすぎんで」


「やさしく」


「そう。やさしく」


 昨日と同じやり取り。


 でも、昨日より声は少し落ち着いていた。


 家の前には、昨日置いた白い花があった。


 望来と赤ちゃん村人が一緒に置いた花。


 朝の光の中で見ると、それは少しだけつぶれていた。


 土に押されて、花びらの端が曲がっている。


 それでも、白かった。


 ここまで来たしるし。


 また来ると言ったしるし。


 帰れなかった家の前に置いた、約束みたいなしるし。


「みくの花」


 望来が言った。


「うん」


 創磨はつよし号を止めた。


 赤ちゃん村人の家は、目の前にある。


 昨日より近い。


 昨日より明るい。


 でも、近づいたぶん、怖さもはっきり見えた。


 小さな扉。


 木の取っ手。


 窓の上の影。


 屋根の端。


 創磨は屋根を見た。


 あった。


 白い糸。


 昨日見たものと同じ場所。


 屋根の端に、細い白いものが一本、朝の光に引っかかるように残っている。


 消えていない。


 見間違いでもなかった。


「糸」


 創磨が言った。


 芽依がすぐに屋根を見上げる。


「ある?」


「ある」


「どこ」


「あそこ。屋根の端」


 芽依は目を細めた。


 そして、顔を少しこわばらせた。


「……ある」


 望来も顔を上げた。


「ひも?」


「うん」


「くもしゃん?」


「たぶん」


「また、たぶん」


 芽依が小さく言った。


 でも、今日はそれ以上言わなかった。


 たぶんでも、糸はある。


 それだけで十分だった。


 赤ちゃん村人は、つよし号の中で体を前に傾けた。


 家を見ている。


 扉を見ている。


 小さな手が、つよし号のへりにかかった。


 降りようとする。


「だめ」


 望来が先に言った。


 創磨と芽依が同時に望来を見た。


 望来は赤ちゃん村人の服をつかんでいる。


 強くではない。


 でも、ちゃんと止めていた。


「赤ちゃん、だめ」


 望来は言った。


「まだ、見るだけ」


 赤ちゃん村人は止まった。


 言葉がわかったのか、望来の手に止められただけなのかはわからない。


 でも、降りなかった。


 芽依が小さく息を吐いた。


「みく、えらい」


「みく、危なくせん係やけん」


「うん」


 創磨は家を見た。


 今なら扉に手が届く。


 開けようと思えば、開けられる。


 中に誰かいるかもしれない。


 赤ちゃん村人の親がいるかもしれない。


 パンやベッドや、何かの手がかりがあるかもしれない。


 この赤ちゃん村人が、どこから来たのか。


 どうして一人なのか。


 家族がいるのか。


 そういうことが、わかるかもしれない。


 開けたい。


 少しだけ、本当に思った。


 でも、屋根の端には糸がある。


 窓の上には影がある。


 扉の前には、まだ自分たちしかいない。


 鉄ゴーレムは少し遠い。


 たいまつも十分ではない。


 つよし号は、すぐには後ろへ下がれない。


 望来は中を見たら、きっと入りたがる。


 赤ちゃん村人は、もっと入りたがる。


 一度開けたら、見るだけで止まれるかわからない。


 創磨は扉から一歩下がった。


「今日は、まだ開けん」


 芽依がすぐに創磨を見た。


「開けんと?」


「うん」


 望来も顔を上げる。


「なんで?」


「先に周り見る」


「もう見た」


「屋根だけじゃ足りん」


 創磨は家の横を見た。


 壁の下。


 裏へ続く影。


 窓の隙間。


 屋根の端。


「横と裏も見る。たいまつ置ける場所も見る。からん作れるかも見る。赤ちゃんとみくが動いても戻れる場所も決める」


 言いながら、創磨は自分で自分の言葉を確かめていた。


 怖いからやめるのではない。


 入らないための理由を作って逃げるのでもない。


 入るために、今はまだ開けない。


 それを、ちゃんと自分に言わなければならなかった。


「中、見たくなかと?」


 芽依が聞いた。


 創磨は扉を見た。


「見たい」


「じゃあ」


「でも、見たくても、今じゃなか」


 芽依は黙った。


 少し不満そうだった。


 でも、反対はしなかった。


 芽依もわかっている。


 入ってしまえば、戻れなくなるかもしれない。


 まだ準備は足りない。


 望来は、つよし号の中から扉を見ていた。


「赤ちゃんのおうち」


「うん」


「ここ」


「うん」


「赤ちゃん、帰りたか」


「うん」


「でも、だめ?」


 創磨はしゃがんだ。


 望来と同じ高さになる。


「今日は、家の前まで」


「前まで?」


「うん。昨日は、暗くなる前に帰った。今日は、朝にここまで来れた」


 望来は扉を見た。


「入らん?」


「まだ」


「まだ?」


「まだ」


 望来は赤ちゃん村人の顔を見た。


 そして、小さな声で言った。


「赤ちゃん、おうちよ」


 赤ちゃん村人は扉を見ていた。


 望来は続けた。


「でも、まだ。そうまが見るって」


 芽依が少しだけ笑いそうな顔になった。


「そうまが見る係やけんね」


「めいは?」


「めいは、危なか場所見つける係」


「みくは?」


「赤ちゃんを危なくせん係」


 望来はこくんとうなずいた。


「みく、止めた」


「うん。止めた」


「赤ちゃん、降りんかった」


「えらい」


 望来は少しだけ胸を張った。


 赤ちゃん村人は、まだ扉を見ている。


 その小さな姿が、朝の光の中でとても小さく見えた。


 家の前にいるのに、家に入れない。


 それは、昨日より少し進んでいるのに、まだ遠いということだった。


 創磨は扉を見た。


 手を伸ばせば届く。


 でも、伸ばさない。


 それも、今日の仕事だった。


「まず、周り」


 創磨は言った。


「屋根の糸、残っとる。横も見る。裏も見る。たいまつ置く場所を決める。それから、次に来た時に開けるか決める」


「次?」


 望来が聞いた。


「うん」


「また来る?」


「来る」


 創磨ははっきり言った。


「薬があるうちに、ちゃんと見る。帰るためにも、赤ちゃんを帰すためにも」


 その言葉を言ってから、創磨は胸の中で数字をもう一度数えた。


 二十七回。


 十三日と半分。


 減った。


 確実に減った。


 でも、今日、ここまで来た。


 昨日は暗くなって帰った。


 今日は朝に、家の前まで来た。


 まだ扉は開けていない。


 でも、前まで来た。


 創磨は、その小さな進みを、今だけはちゃんと認めようと思った。


 白い花が足元にある。


 芽依の木片が道にある。


 つよし号には望来と赤ちゃん村人がいる。


 屋根の端には、白い糸がある。


 家の中には、まだ何があるかわからない。


 創磨は扉の前に立ったまま、手を握った。


 開けないために。


 次に開けるために。


 怖いものから逃げるのではなく、守る準備をするために。


「今日は、家の前まで」


 創磨はもう一度言った。


 芽依がうなずいた。


 望来も、小さくうなずいた。


 赤ちゃん村人だけが、扉を見ていた。


 けれど、その手はまだ、望来の手の中にあった。

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