飲まんといけん
家の中に戻ると、外よりも暗く感じた。
たいまつの火はある。
壁にも、床にも、ちゃんと光は届いている。
けれど、外で見た夕方の色がまだ目の奥に残っていて、そのせいで、家の中の影がいつもより濃く見えた。
創磨は、入口のそばに立ったまま、しばらく動けなかった。
白い花の道。
芽依の木片。
井戸の横に立てたたいまつ。
暗くなっていく村の奥。
赤ちゃん村人の家。
そして、屋根の端に引っかかっていた白い糸。
見えなくなっただけで、なくなったわけではない。
その言葉が、まだ胸の中に残っていた。
「そうま」
芽依が後ろから言った。
「つよし号、ここでよか?」
「うん」
創磨は振り返った。
つよし号は床下の入口の近くまで戻されていた。
望来はその中に座ったまま、赤ちゃん村人の手を握っている。外にいた時よりも少し眠そうで、まぶたが重くなっていた。
でも、手だけは離していない。
「赤ちゃん、ここよ」
望来が小さく言った。
「ここ、ねんねするとこ」
赤ちゃん村人は答えない。
けれど、望来の横でじっとしていた。
その目は、家の中ではなく、まだ入口の方へ向いている。
外。
村の奥。
自分の家がある方。
創磨は、その視線を見てしまって、すぐに目をそらした。
今日は連れていけない。
そう決めたのは自分だった。
正しいと思う。
暗い中、あの家へ行くわけにはいかない。
花の道も、まだ頼りない。
屋根の糸も確かめていない。
つよし号も、暗い道ではもっと草に引っかかるかもしれない。
望来が眠たくなれば、赤ちゃん村人を止める力も弱くなる。
だから、今日はだめ。
それはわかっている。
でも、赤ちゃん村人が暗い方を見るたびに、胸の奥が少しずつ重くなった。
「そうま」
今度は芽依が近くまで来ていた。
手には、さっき使わなかった小さな木片を持っている。
「薬」
その一言で、創磨の体が少し固まった。
夜の薬。
さっきから、ずっと頭のすみにはあった。
でも、言葉にされると、急に袋の重さまで思い出した。
「うん」
創磨は薬袋の方へ歩いた。
棚の上。
いつも置く場所。
水の器の横。
袋はそこにあった。
白い薬袋。
最初に数えた時より、ずっと軽くなっている。
軽くなったことが、もう手に持たなくてもわかるようになってきている。
それが嫌だった。
慣れたくなかった。
でも、飲ませる手順には慣れなければいけない。
忘れないために。
間違えないために。
こぼさないために。
創磨は薬袋を手に取った。
袋の口を開ける。
中を見る。
小さな薬が並んでいる。
数えなくても、今日の分はわかる。
でも、創磨は指先でひとつ取り出したあと、袋の中をもう一度見た。
二十九回。
今から一つ飲ませる。
そうしたら、二十八回。
十四日分。
数字が、頭の中で勝手に形になる。
二十八。
十四日。
半分の半分ではない。
まだある。
まだあるはずだ。
そう思おうとしても、最初にあった三週間の重さが、今はもうないこともわかってしまう。
「そうま」
芽依が横からのぞきこんだ。
「また、薬の顔」
「……うん」
創磨はごまかさなかった。
芽依は何か言いかけて、やめた。
そのかわり、水の器を持ってきた。
「こぼさんように」
「うん」
「みく、眠たそうやけん、早めに飲ませよ」
「うん」
芽依の声は、少しだけ硬かった。
薬のことになると、芽依もふざけない。
望来の薬は、ただの苦い薬ではない。
飲めなかった朝のことを、創磨も芽依も知っている。
母の声。
父の低い声。
救急車。
いつもの望来ではなかった望来。
その記憶は、この世界までついてきていた。
「みく」
創磨はつよし号の前にしゃがんだ。
望来は眠そうな顔で、こちらを見た。
「おくすり?」
「うん。夜の薬」
「にがい?」
「にがい」
「パンは?」
「あとでちょっと」
「大きいちょっと?」
「普通のちょっと」
「ちっちゃい普通?」
「それはわからん」
望来は少しだけ口を曲げた。
いつものやり取り。
でも、今日はそのあとに、すぐ薬を嫌がらなかった。
望来は赤ちゃん村人の手を見た。
自分の小さな手が、赤ちゃん村人の手を握っている。
それを見てから、望来は顔を上げた。
「みく、飲む」
創磨は少しだけ止まった。
「飲むと?」
「うん」
「苦いよ」
「にがい」
「ほんとに飲む?」
望来はこくんとうなずいた。
「飲まんと行けん」
芽依の手が止まった。
創磨も、薬を持ったまま動けなくなった。
「どこに?」
芽依が聞いた。
望来は、当たり前みたいに答えた。
「赤ちゃんのおうち」
それから、赤ちゃん村人の方を見た。
「明日、行くけん」
赤ちゃん村人は何も言わない。
でも、望来の手を握ったまま、じっと顔を向けていた。
「飲まんと、明日、赤ちゃんのおうち行けんけん」
望来はもう一度言った。
三歳の言葉だった。
全部をわかっているわけではない。
十四日という数字も、二十八回という残りも、たぶんわかっていない。
でも、薬を飲めば明日が来る。
飲まなければ、明日やりたいことができない。
望来の中では、たぶんそれくらいの形になっている。
それだけでも、創磨には十分すぎるくらい重かった。
「……うん」
創磨は小さく言った。
「飲んだら、明日行く準備できる」
「うん」
「でも、明日も危なかったら、中には入らんかもしれんよ」
望来は少し考えた。
「見るだけ?」
「うん。見るだけかもしれん」
「赤ちゃん、かわいそう」
「うん」
「でも、危なかったら、だめ?」
「だめ」
望来は赤ちゃん村人の手を、少し強く握りかけた。
すぐに芽依が言った。
「やさしく」
「やさしくしとる」
「今、ぎゅってした」
「ちょっと」
「ちょっとでも痛かかもしれん」
望来は自分の手を見て、力をゆるめた。
「赤ちゃん、痛くなか?」
赤ちゃん村人は答えない。
望来はそれでも、まじめな顔でうなずいた。
「ごめんね」
芽依が少しだけ目を丸くした。
望来は、めったにすぐ謝らない。
家でも、何かを取ったり、ぶつかったり、怒られたりしても、なかなか謝らない。
それなのに、今は赤ちゃん村人に小さく謝った。
創磨は薬を持ったまま、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
「みく、口」
望来は素直に口を開けた。
小さな口。
眠そうで、少し乾いていて、でもちゃんと開いている。
創磨は薬を入れた。
芽依が水の器を支える。
「ゆっくり」
芽依が言う。
望来は水を飲んだ。
こくん。
小さな喉が動く。
創磨は、その動きを最後まで見た。
もう一度、ちゃんと飲み込んだかを見る。
口の中に残っていないか。
むせていないか。
咳き込まないか。
望来は顔をしかめた。
「にがい」
「飲めた?」
「飲めた」
芽依がすぐに言った。
「飲めた」
創磨も言った。
「飲めた」
その言葉を三人で確認する。
望来は少しだけ得意そうな顔をした。
「みく、飲んだ」
「うん」
「明日、行ける?」
「準備してから」
「準備したら?」
「行けるか見る」
「また見る」
「見るの大事」
芽依が言った。
「勝手に行ったらだめやけんね」
「行かん」
「ほんと?」
「ほんと」
「赤ちゃんが行きたそうにしても?」
望来は赤ちゃん村人を見た。
そして、少し困った顔になった。
「……止める」
「やさしく?」
「やさしく止める」
「強く引っぱらん?」
「引っぱらん」
「赤ちゃん係は?」
「危なくせん係」
芽依は小さくうなずいた。
「そう」
創磨は薬袋を閉じた。
手の中で、袋がまた少しだけ軽くなった気がした。
二十八回。
十四日分。
声に出さないつもりだった。
けれど、出しておかなければいけない気もした。
忘れないために。
ごまかさないために。
「二十八回」
創磨は小さく言った。
芽依だけが聞こえるくらいの声だった。
でも、望来も少し反応した。
「にじゅう……?」
「残り」
「のこり?」
「薬の残り」
望来は薬袋を見た。
でも、その数字がどういう意味かまでは、やっぱりわかっていない顔だった。
「まだある?」
望来が聞いた。
創磨は一瞬、言葉に詰まった。
まだある。
でも、たくさんあるわけではない。
そう言いたかった。
けれど望来の顔を見て、言葉を選んだ。
「まだある」
「じゃあ、よかった」
望来はそう言って、赤ちゃん村人の方を向いた。
「赤ちゃん、まだあるって」
赤ちゃん村人は、薬袋を見ているのか、望来を見ているのか、わからない。
けれど、望来の声を聞くように、少しだけ顔を上げた。
その様子を見て、芽依がぽつりと言った。
「みく、赤ちゃんに何でも教えるね」
「教える」
「赤ちゃん、わかっとると?」
「わかっとる」
「ほんとに?」
「みく、わかるもん」
望来は当然みたいに言った。
芽依は少しだけあきれた顔をした。
「またそれ」
「みく、赤ちゃん係やけん」
「危なくせん係ね」
「うん。危なくせん係」
そのやり取りで、家の中の空気が少しだけゆるんだ。
けれど、すぐにまた静かになる。
外はもう夜だった。
窓の向こうは暗い。
井戸の横のたいまつの光は、家の中からは見えない。
白い花の道も、木片も、ここからは見えない。
赤ちゃん村人の家は、もっと見えない。
ただ、そこにあると知っているだけだった。
創磨は薬袋をしまった。
二十八回。
十四日。
その数字を胸の奥へ押し込もうとして、うまくいかなかった。
十四日で、どうやって帰る。
赤ちゃん村人の家にも入れていない。
クモの糸もまだある。
弓もまだない。
糸も足りない。
食べ物も、たいまつも、道も、全部少しずつしかない。
父も母もいない。
どうしたらいい。
どうやって帰る。
どうやって、薬が尽きる前に。
「そうま」
芽依が言った。
創磨は返事をしなかった。
返事をしようとしたのに、喉が動かなかった。
芽依も何か言おうとして、やめた。
赤ちゃん村人は、つよし号の中から窓の方を見ている。
望来は、その横で少し眠そうにしていた。
重い沈黙だった。
誰も泣いていない。
誰も怒っていない。
けれど、みんなの胸の中に、暗いものが少しずつたまっていくようだった。
その時だった。
「やーねーよーりー」
望来が、急に歌い出した。
創磨は顔を上げた。
芽依も目を丸くした。
望来はつよし号の中で、赤ちゃん村人の手を握ったまま、眠そうな目で歌っていた。
「たーかーいー、こいのぼりー」
その先は、少し曖昧だった。
言葉もところどころ違う。
節も少しずれている。
でも、それは間違いなく、いつも歌っていた歌だった。
家で。
車で。
保育園で。
散歩の途中で。
父がふざけて大きな声で歌い、芽依が「うるさか」と言いながら続きを歌い、望来が一番大きな声で好きなところだけ繰り返す歌。
創磨は、少しだけ何も考えられなくなった。
こんなところで。
この夜に。
薬を飲ませたばかりで。
赤ちゃん村人の家にも行けなくて。
クモの糸も残っていて。
そんな時に、望来はこいのぼりを歌っている。
「みく」
芽依が言った。
「今、歌うと?」
望来は歌を止めなかった。
むしろ、芽依の方を見て、少し笑った。
「めいも」
「は?」
「めいも歌う」
「なんで」
「いつも歌うやん」
芽依は口を開けたまま、少し黙った。
それから、ふいっと横を向いた。
「……みく、歌詞ちがうし」
「ちがわん」
「ちがう」
「めい、歌って」
「もう」
芽依は面倒くさそうに言った。
でも、その声にはさっきまでの硬さがなかった。
小さく、ほんとうに小さく、芽依が続いた。
はっきり歌うのが恥ずかしいのか、最初は口の中だけだった。
それでも、望来はすぐに気づいた。
「めい、歌った」
「歌っとらん」
「歌った」
「ちょっとだけ」
「もっと」
「うるさか」
芽依はそう言いながら、今度は少しだけ声を出した。
創磨は、その二人を見ていた。
芽依は怒ったような顔をしている。
でも、口元は少しゆるんでいる。
望来は眠そうなのに、うれしそうに歌っている。
赤ちゃん村人は、望来の顔をじっと見ている。
歌の意味はわからないはずだった。
こいのぼりも、屋根より高いという言葉も、この世界の赤ちゃん村人にはたぶんわからない。
でも、望来の声が明るいことはわかるのかもしれない。
赤ちゃん村人は、さっきまで窓の向こうを見ていた目を、望来へ向けていた。
家の外で、村人の声が一度だけした。
いつもの低くて不思議な声。
それが歌に反応したのかどうかはわからない。
けれど、家の前を通った村人が、窓の外で少しだけ立ち止まったような影が見えた。
鉄ゴーレムの足音も、遠くで一度止まった。
どん。
その音がして、またゆっくり動き出す。
何も変わっていない。
夜は夜のまま。
外は暗いまま。
赤ちゃん村人の家も、まだ見えないまま。
薬袋の中身も増えない。
それでも、家の中だけは少し違った。
創磨は、知らないうちに息を吐いていた。
胸の奥にたまっていた硬いものが、ほんの少しだけゆるんだ。
「そうまも」
望来が言った。
「え」
「そうまも歌って」
「おれはよか」
「なんで」
「声、変やけん」
「変じゃなか」
芽依がすぐに言った。
創磨は芽依を見た。
芽依は視線をそらしている。
「変じゃなかけん、歌えば」
「芽依もちゃんと歌ってないやん」
「めいは歌いよる」
「小さか声やん」
「そうまよりまし」
「まだ歌ってないし」
「じゃあ歌えば」
いつもの言い合いみたいだった。
この世界に来てから、少しずつ減っていた普通の言い合い。
どうでもいいことで言い返して、少しむっとして、それでも隣にいる。
創磨は、そんなやり取りが急に懐かしくなった。
「……ちょっとだけ」
創磨は言った。
望来の顔がぱっと明るくなる。
「そうま、歌う」
「ちょっとだけ」
「大きいちょっと?」
「普通のちょっと」
芽依が小さく笑った。
創磨は声を出した。
大きくはない。
外に聞こえないくらい。
でも、望来と芽依には聞こえるくらい。
三人の声が、たいまつの火の中で重なった。
歌詞は少し違う。
望来は好きなところだけ大きく歌う。
芽依は間違いを直したがる。
創磨は、途中で恥ずかしくなって声を小さくする。
それでも、歌は続いた。
赤ちゃん村人は、望来の手を握ったまま、三人の顔を順番に見ていた。
やがて、望来が眠そうに目をこすった。
「みく、ねむか」
「そりゃそうやろ」
芽依が言った。
「薬も飲んだし」
「歌ったし」
「歌ったら眠くなると?」
「なる」
「ならんやろ」
「なるもん」
望来はそう言って、赤ちゃん村人の方へ少し体を寄せた。
「赤ちゃんも、ねむか?」
赤ちゃん村人は答えない。
でも、さっきより体の力が抜けているように見えた。
芽依がつよし号の横にしゃがんだ。
「今日は、ここでねんねやけんね」
「赤ちゃんのおうちは?」
「明日」
「明日、行く?」
「準備してから」
「見るだけ?」
「見るだけかもしれん」
望来は小さくうなずいた。
さっきより素直だった。
「みく、飲んだけん」
「うん」
「明日、行けるように」
「うん」
「赤ちゃん、明日ね」
望来は赤ちゃん村人に言った。
そして、つよし号のへりにもたれた。
芽依があわてて支える。
「ここで寝たらだめ。ベッド行くよ」
「つよしくんで寝る」
「だめ」
「なんで」
「首、痛くなる」
「ならん」
「なる」
「つよしくん、すき」
「好きでもベッド」
芽依は文句を言いながら、望来の体を起こした。
創磨も手を貸す。
望来はもう半分眠っていて、足に力が入っていない。
赤ちゃん村人も、つよし号のへりをつかんだまま立とうとした。
「赤ちゃんも」
望来が言う。
「うん。赤ちゃんも近く」
創磨は床下の入口と、ベッドと、つよし号の位置を見た。
夜に何かあれば、すぐ床下へ入る。
それは変えない。
でも、今は少しだけ、普通に寝かせてやりたかった。
薬を飲んだ。
歌も歌った。
少し笑った。
それだけで、今日の夜は昨日とは違う気がした。
創磨は望来をベッドの真ん中に座らせた。
芽依が布をかける。
赤ちゃん村人は望来のすぐ近くに座る。
望来は眠そうな手で、赤ちゃん村人の服の端をつまんだ。
「赤ちゃん、行かんでね」
小さな声だった。
赤ちゃん村人は動かなかった。
それを見て、望来は安心したように目を閉じた。
芽依は、まだ少しだけ歌の続きを口の中で言っていた。
自分では気づいていないみたいだった。
創磨は薬袋をもう一度見た。
二十八回。
十四日。
数字は変わらない。
重さも変わらない。
でも、さっきより少しだけ、手が震えなかった。
薬は増えない。
明日も危ない。
赤ちゃん村人の家には、まだ入れないかもしれない。
それでも、望来は飲んだ。
芽依は歌った。
自分も、小さく歌った。
帰れない夜の中で、三人だけが知っている家の歌が、少しだけここに残った。
「明日、行こう」
創磨は小さく言った。
芽依が顔を上げる。
「赤ちゃんの家?」
「うん。準備してから」
「屋根、見る?」
「見る」
「糸も?」
「見る」
「中は?」
「危なかったら入らん」
「うん」
芽依はうなずいた。
それから、眠っている望来を見た。
「みく、飲んだもんね」
「うん」
「歌ったし」
「うん」
「じゃあ、明日、ちゃんとせんばね」
「うん」
外では、夜が続いていた。
たいまつの火が、壁に小さな影を作っている。
その影の中で、白い花の道は見えない。
赤ちゃん村人の家も見えない。
屋根の糸も見えない。
でも、創磨は思った。
見えないだけで、あるものがある。
怖いものだけではない。
白い花も。
芽依の木片も。
望来の歌も。
父や母と歌った記憶も。
今は見えないだけで、ちゃんと残っている。
創磨は薬袋をしまった。
二十八回。
その数字を忘れないまま、でも今夜だけは、望来の歌の続きを胸の中で小さくなぞった。
明日、赤ちゃん村人の家へ行く。
帰るために。
守るために。
そして、次の夜もまた、望来が歌えるように。




