水と木
穴の外へ出た瞬間、創磨は思わず大きく息を吸った。
朝の空気は冷たかった。
でも、夜の冷たさとはちがう。ちゃんと見える。空も、草も、遠くの木も、土の段差も、全部そこにある。真っ暗な中で、何が来るかわからんまま息をひそめていた夜とは、それだけでまるで別の世界みたいだった。
創磨は穴の縁に手をかけて、もう一度だけ後ろを振り返った。
昨日、自分たちが掘った穴。
浅くて、狭くて、ほんとはぜんぜん安心できる場所じゃなかった。
でも、あの穴があったから朝まで生きていられたのも本当だった。
「……朝やね」
芽依が、創磨の少し後ろで言った。
「うん」
望来は芽依に手を引かれて穴から出ると、まだ眠たそうな顔のまま空を見上げた。
それから、すぐに創磨のほうを見て聞く。
「みず、さがす?」
創磨は少しだけ目を丸くして、それからうなずいた。
「うん。まず水」
夜のあいだ、何度も頭の中でその順番を繰り返していた。
水。
木。
何か作れるもの。
でも、こうして明るいところに立ってみると、それが急に本当にできる気がしてくる。
昨日の夜はただ「朝になれ」と思っていただけだったのに、朝になった今は、ちゃんとやることがある。
「みく、こっち」
芽依が言う。
「ちゃんと手ぇつないどってよ」
「つないどる」
望来はそう言ったけれど、歩き出してすぐに少しよろけた。
創磨と芽依が同時に手を伸ばして支える。
「だいじょぶ?」
創磨が聞く。
望来は創磨の顔を見て、それから少しだけ考えて答えた。
「……ちょっと、きつい」
創磨の胸がちくっとする。
やっぱり、みくには長い夜も、土の穴も、かなりきつかったんやろう。
「先、水」
創磨が言う。
「水飲んだら、少しましになるかも」
「うん」
芽依もすぐにうなずく。
三人は草原をゆっくり歩き出した。
どっちへ行けば水があるかなんて、本当はわからない。
でも、創磨の頭の中には、動画で見てきた景色の感じが少しだけ残っていた。
低い場所。
土の色。
草の濃さ。
少し湿った感じのするところ。
創磨は草原の中でも、少し地面が下がっている方を選んで進む。
「なんでそっち?」
芽依が聞く。
「水、低いとこにある気がする」
創磨は答えた。
「たぶん」
「またたぶん」
芽依が言う。
でも、その声は昨日みたいに強くなかった。
「……でも今は、そうまのたぶん信じるしかなかね」
そう言われると、創磨は少しだけ肩に力が入る。
信じられると、うれしい。
でも、そのぶん失敗したくなくなる。
草をかき分けて進む。
風の音に混じって、かすかにさらさらいう細い音が聞こえてきた。
創磨は足を止めた。
「……聞こえる」
「なにが?」
芽依が息をひそめる。
「水」
三人とも、その場で黙る。
耳をすますと、たしかに聞こえた。
草の向こう、少し低くなった場所から、水の流れる音がする。
「ほんとや」
芽依が小さく言う。
「する」
望来はもう、創磨の手を引っぱっていた。
「いこ」
三人は少しだけ足を速めて草を抜けた。
そこには、細い川みたいな流れがあった。
川というには小さい。
でも、ちゃんと水やった。朝の光を受けて、水の表面がきらっと光っている。夜のあいだ、穴の中で思い描いていた「水」が、ほんとうにそこにあった。
「……あった」
創磨が言う。
その一言に、自分でもびっくりするくらい力が入っていた。
「水や!」
芽依が声を上げる。
「ほんとに水!」
望来はもうしゃがみこんでいた。
「みず!」
「待って」
創磨があわてて言う。
「いきなり顔つっこまんで」
望来はきょとんとした顔で創磨を見る。
「なんで?」
「……転ぶかもしれんし」
創磨は言った。
ほんとうは、水そのものが安全かどうか、ちゃんと確かめたかっただけだった。
芽依が先にしゃがみこんで、手で少し水をすくう。
透明だった。
泥のにおいも強くない。
「飲めるかな」
芽依が言う。
「わからん」
創磨が答える。
「ばってん、飲まんわけにもいかん」
芽依は小さくうなずいた。
それから望来の手を取って、水を少しだけすくって渡した。
「ちょっとだけね」
望来はその水をぺろっと舐めた。
それから目を少しだけ開く。
「つめたい」
「うん」
芽依が笑う。
「水やけん」
創磨も手で少しすくって飲んだ。
冷たかった。
でも、それ以上に、喉の奥へ水が落ちていく感じがものすごくほっとした。
生き返る、という言葉が頭に浮かぶ。
芽依も飲んでから、大きく息を吐いた。
「そうま」
芽依が言う。
「今のうち、やない?」
「うん」
創磨もすぐわかった。
みくの朝の薬やった。
夜は水なしで無理やり飲ませた。あれはあれでどうにかなったけど、もう同じことはしたくない。
ちゃんと水がある今、ここで飲ませるのがいちばんいい。
芽依が白い薬ケースを取り出す。
創磨はその小さなケースを見た瞬間、胸の奥が少しだけ固くなるのを感じた。
「みく」
芽依が言う。
「朝のやつ飲まんば」
望来はさっきより顔をしかめた。
「……にがい」
「わかっとる」
芽依はやさしく言う。
「でも、今はちゃんと水あるけん」
望来は少しだけ考えて、それからこくんとうなずいた。
芽依が薬を出す。
創磨が手のひらに水をすくう。
望来が口を開ける。
薬を入れて、水を飲ませる。
望来は少しだけ顔をしかめたけれど、昨日の夜よりずっと楽そうだった。
ちゃんと飲みこめたあと、自分の喉をとんとん叩く。
「……できた」
「えらい」
芽依がすぐに頭をなでる。
創磨も、そこでようやく大きく息を吐いた。
水がある。
それだけで、みくの薬の不安が少しだけ薄くなる。
全部じゃない。
でも、昨日の夜みたいに「どうしよう」だけではなくなった。
望来は水のところへもう一度しゃがみこんで、両手をひたして遊び始めた。
「みず、すき」
「遊ばんでよ」
芽依が言う。
「飲むだけ」
「ちょっとだけ」
「そのちょっとが長いやろ」
創磨は、そのやり取りを聞きながら川の向こうを見た。
少し離れたところに、木が立っていた。
太い幹。
四角い葉。
いかにも、という形やった。
創磨の胸がどくんと鳴る。
「……木」
芽依もそっちを見る。
「あ、ほんとや」
望来はまだ水に夢中やったけれど、「き」という言葉に反応して顔を上げた。
「き?」
「うん」
創磨は立ち上がった。
「木がある」
それを見た瞬間、創磨の頭の中で動画の知識がいっぺんに動き始める。
木があれば、板にできる。
板があれば、棒ができる。
つくる台も、たぶん作れる。
そうしたら、もっと先へ行ける。
ただの木じゃない。
材料やった。
「そうま」
芽依が創磨の顔を見る。
「またなんか考えよるやろ」
「うん」
創磨は素直に答えた。
「木があれば、作れるかもしれん」
「なにを?」
創磨は木を見た。
まだ、はっきりとは言い切れない。
でも、昨日の夜よりずっと確かやった。
「……つくる台」
創磨が言う。
「たぶん」
芽依の顔が少し変わる。
「ほんとに?」
「動画で見たやつなら」
創磨は答える。
「木が最初やった」
芽依は少しだけ考えて、それからうなずいた。
「じゃあ、行こう」
その返事が早くて、創磨は少しだけびっくりした。
「信じると?」
「だって、今、水あったやん」
芽依が言う。
「そうまのたぶん、当たったし」
創磨はちょっとだけ言葉に詰まる。
信じられるのはうれしい。
でも、そのぶん失敗したくない気持ちも強くなる。
望来は創磨と芽依の顔を見比べてから、真顔で言った。
「みく、だっこ」
創磨と芽依は同時にため息みたいに笑う。
「今それ?」
芽依が言う。
「きついもん」
望来は言った。
それはそうやった。
夜を越えて、水を見つけて、少し安心したところで、また歩くのはきつい。
特にみくには。
創磨は木と望来を見比べて、それからしゃがみこんだ。
「おぶる」
「そうまが?」
芽依が聞く。
「うん」
創磨は言う。
「木、もう見えとるし」
望来はすぐに創磨の背中にしがみついた。
軽くはない。でも、抱っこよりはましだった。
「おも」
創磨が小さく言う。
「そらそうやろ」
芽依が笑う。
それでも、創磨の足取りはさっきより軽かった。
水が見つかった。
みくも薬を飲めた。
次は木や。
夜のあいだ、ただ暗さに耐えるしかなかった世界が、朝になって少しずつ形を変え始めている。
あの木に触れたら、たぶんもっと先へ行ける。
創磨は望来を背負ったまま、四角い木へ向かって歩いた。
その胸の中には、昨日の夜にはなかった、はっきりした小さな期待が生まれていた。




