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妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


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【外伝】望んだいのちが来る




 望来は、薬を飲む子として家族のもとへ来たわけではなかった。


 病院の予定も、手術の予定も、毎朝と毎晩の薬も、最初から名前の中にあったわけではない。


 まだ望来が生まれる前、家の中には、赤ちゃんを待つ時間があった。


 母のお腹が少しずつ大きくなる。


 創磨は、それを見ても最初はどこか不思議そうにしていた。赤ちゃんが来る。妹かもしれない。弟かもしれない。そう聞いても、まだ自分の目の前にいないものを、はっきり想像することは難しかった。


 でも、芽依は違った。


「赤ちゃん、くうちゃんがよか」


 ある日、芽依はそう言った。


 母が笑って聞き返す。


「くうちゃん?」


「うん。めい、くうちゃんって呼ぶ」


「なんでくうちゃん?」


「くうちゃんがよかもん」


 理由は、あってないようなものだった。


 芽依はまだ小さくて、自分の中で決めたことをまっすぐ言う。赤ちゃんの名前を、自分も決めたい。自分が呼びたい。自分が待っている赤ちゃんだと、ちゃんとわかる形がほしい。


 そんな気持ちが、たぶんそこにあった。


「赤ちゃん、くうちゃん」

「めい、くうちゃん抱っこする」

「くうちゃん、めいの横」


 まだ生まれてもいない赤ちゃんに、芽依は何度も話しかけた。


 父と母は、そんな芽依の言葉を聞きながら名前を考えた。


 芽依が「くうちゃん」と呼んでも、どこか遠くない名前。


 そして、家族がずっと望んでいた子が、ちゃんと来てくれるようにという願い。


 望んだものが来る。


 待っていた命が、家族のところへ来る。


 生まれてきてくれてありがとうと、最初から言えるような名前。


 そうして選ばれたのが、望来だった。


 みく。


 望んだ命が、来る。


 その名前は、まだ見ぬ赤ちゃんのために、家族の中で静かに場所を作っていた。


     *


 けれど、望来は生まれる前から、予定通りにはいかなかった。


 出産の準備のために入院するはずだった前日、母が熱を出した。


 最初は、少し体調が悪いだけかもしれないと思った。


 けれど、検査の結果は違っていた。


 コロナ陽性。


 その言葉で、家の空気が変わった。


 本来なら、受け入れてくれるはずだった病院へ行く予定だった。そこへ向かい、そこで出産を迎えるはずだった。


 けれど、コロナ陽性となった母を、その病院では受け入れられなくなった。


 急に、別の病院で出産することになった。


 家から一時間半ほどかかる、国立病院。


 母のお腹の中では、望来がもうすぐ生まれようとしていた。


 父は、できることを一つずつ確認した。


 荷物。


 書類。


 母子手帳。


 連絡。


 道順。


 言葉は少なかった。


 けれど、動きは止まらなかった。


 翌朝早く、母に陣痛が来た。


 まだ朝の色が薄い時間だった。


 父は母を車に乗せた。


 創磨と芽依は、家で待つしかなかった。


「ママ、どこ行くと?」


 芽依が聞いた。


「赤ちゃん、生まれるけんね」


 母はそう言って笑おうとした。


 けれど、その笑顔には少しだけ不安が混じっていた。


「めいも行く」


「今日は行けんと」


「なんで」


「病院の中に入れんけん」


「なんでよ」


 芽依は口をとがらせた。


 コロナだから。


 そう説明されても、芽依には全部はわからなかった。


 赤ちゃんが生まれるのに、自分は行けない。


 母も父も遠くの病院へ行く。


 それだけが、芽依には不満で、不安だった。


 創磨は玄関のところで、何も言えずに立っていた。


 父は荷物を車に積み、母を支えながら助手席へ乗せた。


「創磨」


 父が呼んだ。


「芽依ば見とって」


「……うん」


「大丈夫。赤ちゃん、生まれたら連絡するけん」


 父の声はいつも通りに聞こえた。


 でも、創磨は父の顔が少しだけ固いことに気づいていた。


 父は母を乗せて、国立病院へ向かった。


 一時間半の道のり。


 父は運転しながら、母の様子を何度も横目で見た。


 苦しそうに息をする母。


 お腹の中で、外へ出ようとしている小さな命。


 けれど、病院に着いても、父は中へ入れなかった。


 コロナ禍だった。


 父も、創磨も、芽依も、誰も病院の中には入れない。


 父にできたのは、母を病院へ送り届けることだけだった。


 そこから先は、母ひとりで行かなければならなかった。


 父は病院の外で、何度もスマホを見た。


 連絡を待つ。


 何かあればすぐ出られるようにする。


 でも、何もできない。


 待つしかない時間だった。


 望来は、その日のうちに生まれた。


     *


 生まれた。


 その知らせは、家族にとって何よりも大きかった。


 けれど、望来の生まれた時間は、抱きしめるところから始まらなかった。


 母と望来は、別々の病棟になった。


 母は、すぐに望来を抱くことができなかった。


 同じ病院の中にいるのに、会えない。


 生まれたばかりの我が子が、画面の向こうにいる。


 母はリモートで望来の顔を見た。


 小さい。


 本当に小さい。


 画面の中で動く赤ちゃんを見ながら、母は何度も思った。


 来てくれた。


 ちゃんと来てくれた。


 でも、抱けない。


 その小さな体を胸に抱くことも、頬に触れることも、泣いた時にすぐそばであやすこともできない。


 母乳は搾乳した。


 赤ちゃんに飲ませるために。


 直接抱いて飲ませることはできなくても、何かを届けたい。


 母と望来の時間は、そうやって始まった。


 父は家で、創磨と芽依に知らせた。


「赤ちゃん、生まれたよ」


 創磨は目を丸くした。


「ほんと?」


「ほんと」


「ママは?」


「頑張ったよ」


 芽依はすぐに聞いた。


「くうちゃん?」


 父は少し笑った。


「名前は、望来」


「みく?」


「うん。望来」


「くうちゃんじゃなかと?」


「芽依がくうちゃんって呼んでもよかよ」


 芽依は少し考えた。


 それから、写真の中の小さな赤ちゃんを見た。


「……みく?」


 画面の中の赤ちゃんは、もちろん返事をしなかった。


 でも、その日から少しずつ、芽依の口から「くうちゃん」は減っていった。


「みく、ちっちゃ」

「みく、いつ帰ってくると」

「みく、めいのこと見るかな」


 くうちゃんになるかもしれなかった赤ちゃんは、家族に呼ばれるたびに、少しずつ望来になっていった。


 帰ってきたあと、芽依はほとんど「くうちゃん」と呼ばなかった。


「みく」

「みく、こっち」

「みく、めいの見て」

「みく、だめ」

「みく、かわいか」


 その声の中で、望来は家族の中に自然に入っていった。


 望まれて来た命は、ちゃんと「みく」と呼ばれる子になった。


     *


 退院してからの日々は、赤ちゃんのいる家の日々だった。


 泣く。


 眠る。


 ミルクを飲む。


 おむつを替える。


 また泣く。


 芽依はすぐにのぞきに行った。


「みく、泣きよる」

「みく、起きた」

「みく、めい見る?」

「みく、こっち向いて」


 創磨は、芽依ほど前に出ることはなかった。


 けれど、少し離れたところからちゃんと見ていた。


 小さい手。


 小さい足。


 眠っている顔。


 急に泣き出す声。


 赤ちゃんは、思っていたよりずっと小さくて、思っていたよりずっと家の中心になった。


 ただ、父と母の目は、ときどき望来の頭に向いていた。


 頭の大きさ。


 膨らみ。


 泣き方。


 様子。


 創磨には、最初は何が気になるのかわからなかった。


 赤ちゃんだから頭が大きいのではないか。


 赤ちゃんだから泣くのではないか。


 そんなふうに思っていた。


 けれど、父と母は違った。


 退院後も、望来は国立病院で定期的に診てもらっていた。


 病院へ行く日。


 車に乗る日。


 母が荷物を確認する日。


 父が運転する日。


 創磨と芽依は、また病院かと思うこともあった。


 けれど、望来にとって病院は、家族の不安と確認が重なる場所になっていった。


 一歳になる前後、望来の頭の膨らみ、頭の大きさが、はっきり気になるようになった。


 診察の中で、水頭症に関係する手術が必要だという話になった。


 手術。


 その言葉は、家の中で重かった。


 創磨には、全部はわからない。


 芽依にも、もちろん全部はわからない。


 けれど、母がいつもより黙っていること。


 父が書類を見ながら何度も確認していること。


 病院の話をする時だけ、声が少し低くなること。


 そういうものは、子どもにも伝わった。


「みく、びょういん?」


 芽依が聞いた。


「うん」


「いたいと?」


 母は少しだけ言葉に詰まった。


 父が答えた。


「痛くないように、先生たちがちゃんとしてくれる」


「みく、泣く?」


「泣くかもしれんね」


「めい、行く」


「今日は待っとこう」


「また待つと?」


 芽依は不満そうに言った。


 でも、その不満の下には不安があった。


 望来はまだ小さくて、何もわかっていない顔で笑っていた。


 その笑顔があるから、余計に怖かった。


 手術は大学病院で受けることになった。


 手術自体ができること。


 その後の治療やケア。


 これから先の医療的なつながり。


 そういうことを考えて、大学病院へ紹介してもらうことになった。


 手術の日、家族は望来を送り出した。


 小さな体。


 小さな命。


 家では末っ子として笑っているだけの望来が、その日は大人たちの手に預けられていった。


 父と母は待った。


 創磨と芽依も、いつもと違う空気の中で待った。


 待つ時間は長かった。


 病院の廊下。


 白い壁。


 消毒のにおい。


 遠くで聞こえる足音。


 大人たちの小さな声。


 創磨は、何をすればいいのかわからなかった。


 芽依は、何度も母にくっついた。


「みく、まだ?」


「まだ」


「みく、帰ってくる?」


「帰ってくるよ」


 母はそう言った。


 そう言いながら、自分にも言い聞かせているようだった。


 手術は成功した。


 その言葉を聞いた時、父と母の肩から力が抜けた。


 創磨は、その瞬間の父の顔を覚えていた。


 いつも通りに見せようとしていた顔が、ほんの少しだけ崩れた。


 芽依は母にしがみつきながら言った。


「みく、よかった?」


「うん。よかった」


 母は芽依の頭をなでた。


 よかった。


 その言葉は本当だった。


 でも、それで全部が終わったわけではなかった。


 望来の体のことは、父と母の中に残った。


 創磨の中にも、芽依の中にも残った。


 望来がいつも通り笑っていることは、ただのいつも通りではない。


 そのことを、家族は少しずつ知っていった。


     *


 忘れられない日がある。


 望来が二歳になった頃。


 創磨の一学期の終業式の日だった。


 その日は、学校が早く終わる日だった。


 創磨は体育館で式に出て、教室で先生の話を聞き、通知表や荷物を持って帰る準備をしていた。


 夏休みが始まる。


 本当なら、少し浮き立つ日だった。


 けれど、その日、家では望来が熱を出していた。


 母が家で様子を見ていた。


 最初は、熱があるだけに見えた。


 子どもは熱を出す。


 これまでもそういう日はあった。


 けれど、望来の様子は少しずつ変わっていった。


 意識が遠のいていく。


 呼んでも反応が弱い。


 いつもの望来ではない。


 母は近くの大きな病院へ向かった。


 けれど、そこでは診られないという判断になった。


 望来は救急車で、一時間半かけて大学病院へ搬送されることになった。


 父は連絡を受けた。


 創磨の終業式が終わるのを待ち、学校へ迎えに行った。


 創磨が校門の近くに出ると、父の車があった。


 いつもの迎えのようで、いつもと違った。


 父の顔が、少し硬かった。


「乗って」


「え、家じゃなかと?」


「芽依迎えに行って、そのまま病院行く」


「病院?」


 創磨はランドセルを抱えたまま、動きが止まった。


「みくが、病院に行っとる」


 父は短く言った。


 声は落ち着いていた。


 でも、余計な言葉がなかった。


 そのことが、創磨には怖かった。


 車はそのまま保育園へ向かった。


 芽依を迎えに行くと、芽依はいつものように荷物を持って出てきた。


 でも、父の顔と創磨の顔を見て、すぐに何かに気づいた。


「なに?」


 車に乗る前から聞いた。


「みくの病院行く」


 父が言った。


「みく、どうしたと?」


「熱があって、大学病院に行っとる」


「ママは?」


「一緒におる」


「みく、泣きよる?」


「今はわからん」


 芽依は後部座席で黙った。


 それから、少しして小さく言った。


「めいも、みくのとこ行く」


「行くよ」


 父は運転しながら答えた。


 父は落ち着いて見えた。


 ハンドルを握る手も、声も、普段と大きくは変わらない。


 けれど、創磨は助手席で気づいていた。


 父がいつもより前を見ていること。


 信号で止まるたびに、スマホを気にしていること。


 言葉が少ないこと。


 父も怖いのだと、創磨はその時、はっきりとはわからないまま感じていた。


 芽依は後ろで何度も聞いた。


「みく、大丈夫?」

「ママ、泣いとる?」

「みく、帰る?」


 父はそのたびに短く答えた。


「先生たちが見てくれとる」

「ママも一緒」

「今から行く」


 大丈夫とは、簡単には言わなかった。


 言えなかったのかもしれない。


 創磨も何か聞きたかった。


 でも、聞いたら怖い答えが返ってくる気がして、黙っていた。


 車は大学病院へ向かった。


 一時間半の道のり。


 いつもの景色が、いつもと違って見えた。


 夏休みが始まるはずの日。


 通知表を持って帰る日。


 保育園から芽依を迎えたあと、家に帰るはずの日。


 その道は、家ではなく病院へ向かっていた。


 大学病院に着いた時、望来はすでに落ち着いていた。


 母のそばにいた望来は、いつもの望来に戻っていた。


 顔色も少し戻り、ぼんやりしながらも、父と創磨と芽依を見ると、いつものように目を動かした。


「みく」


 芽依がすぐに近づこうとした。


 母がそっと止める。


「ゆっくりね」


 芽依は足を止めた。


 でも、目には涙がたまっていた。


「みく、だいじょぶ?」


 望来は少しだけ芽依を見た。


 それから、小さく言った。


「めい」


 その声だけで、芽依は泣きそうな顔になった。


 創磨も、胸の奥から力が抜けた。


 いつもの望来。


 名前を呼ぶ望来。


 そこにいる望来。


 それが、どれだけありがたいことなのか、その日に家族は知った。


 助かった。


 落ち着いた。


 よかった。


 そう思った。


 でも、その日のことは消えなかった。


 創磨の中にも、芽依の中にも、父と母の中にも残った。


 望来が笑っていること。


 望来が眠ること。


 朝になって起きること。


 名前を呼ばれること。


 それは、当たり前ではなかった。


     *


 その出来事をきっかけに、望来はてんかんの薬を飲むようになった。


 朝の薬。


 夜の薬。


 白いケース。


 水。


 飲めたかどうかを見る父と母の目。


 最初のころ、望来はよく顔をしかめた。


「にがい」


「大事な薬よ」


 母が言う。


「みく、イケプラのむ」


 望来はうまく言えない薬の名前を、自分なりに言った。


 父は水を持ってきて、飲んだあとに必ず見る。


「飲めたか」


「できた」


「よし」


 それは、少しずつ日常になった。


 朝、起きる。


 薬を飲む。


 ご飯を食べる。


 保育園へ行く。


 夜、また薬を飲む。


 眠る。


 また朝が来る。


 その繰り返し。


 けれど、その繰り返しは、ただの習慣ではなかった。


 薬は、病気の印ではない。


 望来を縛るものでもない。


 望来が今日も笑って、眠って、朝を迎えて、家族の中で「みく」と呼ばれ続けるためのものだった。


 父と母にとっては、一度失いかけた日常をつなぎ止めるもの。


 創磨にとっては、飲ませなければいけないものではなく、飲めなかった時の怖さとつながるもの。


 芽依にとっても、望来を守るために必要なもの。


 望来本人は、全部を理解しているわけではない。


 薬の意味も、病院のことも、手術のことも、救急車のことも、家族が何度も胸を冷たくしたことも、まだちゃんとはわかっていない。


 それでも、望来は薬の時間を知っていた。


「おくすり?」


 朝になると、そう言う。


 夜になると、そう言う。


 苦いと顔をしかめる。


 飲めたら、少し得意そうにする。


 その小さな喉が、こくんと動く。


 たったそれだけのことを、家族は毎日見ていた。


 たったそれだけのことが、家族には大事だった。


     *


 薬が家の中にある暮らしは、少しずつ普通になっていった。


 白い薬ケースは、いつも決まった場所に置かれた。


 朝の分。


 夜の分。


 飲ませたら、空になる場所。


 まだ残っている場所。


 父と母は、何度もそれを確認した。


 創磨も、いつの間にか薬ケースを見るようになった。


 全部を任されていたわけではない。


 けれど、望来が飲んだかどうか、ケースの中に薬が残っていないか、ふと気になるようになっていた。


 芽依はもっと感覚的だった。


「みく、飲んだ?」


「飲んだよ」


「ほんと?」


「ほんと」


「じゃあ、パン食べてよかね」


 薬のあとには、何か食べる。


 水を飲む。


 口の中の苦さを消す。


 そんな小さな流れまで、家族の中で当たり前になっていく。


 望来は、薬を嫌がる日もあった。


「にがい」

「いや」

「みく、のまん」


 そう言って顔をそむける。


 母が少し困った顔をする。


 父が水を持ってくる。


 芽依が横から怒る。


「みく、飲まんばやろ」


「いや」


「飲まんかったら、だめやん」


「めいが飲んで」


「めいの薬じゃなか」


「じゃあ、みくの?」


「みくの」


 望来は、その言い方を聞いて、少しだけ考える。


 自分だけのもの。


 自分の薬。


 まだ意味はわかっていなくても、そう言われると、少しだけ口を開けることがあった。


 飲めた時、父は必ず見た。


 小さな喉が動くところまで。


 飲み込んだあと、口の中に残っていないか。


 ちゃんと飲めたか。


 望来が「できた」と言うと、父は短く言った。


「よし」


 その声は、いつもと同じだった。


 けれど、そこには毎回、小さな安心があった。


 母も同じだった。


 飲めたら、少しだけ表情がゆるむ。


 薬ケースを閉じる音がする。


 それで朝が進む。


 それで夜が終わる。


 そうやって、望来の日常はつながっていった。


     *


 望来は、ただ守られるだけの子ではなかった。


 わがままも言う。


 兄と姉のものを、自分のものみたいに扱う。


 創磨の食べ物を欲しがる。


 芽依のおもちゃを勝手に使う。


 母の膝を独り占めしようとする。


 父に抱っこをせがむ。


 虫を見つけると、創磨と芽依が逃げるようなものでも平気で近づこうとする。


「みく、それ触らんで!」


 創磨が言う。


「なんで?」


「虫やけん!」


「むししゃん」


「しゃんじゃなか!」


 芽依も遠くから叫ぶ。


「みく、こっち来て! めい、虫いや!」


「めい、こわい?」


「こわくなかし!」


「こわいやん」


「こわくなか!」


 望来はそういうやり取りの中で、けらけら笑う。


 病院へ行った子。


 手術をした子。


 薬を飲む子。


 それは確かに望来の一部だった。


 でも、それだけではなかった。


 望来は望来だった。


 よく笑う。


 よく食べる。


 きのこが好き。


 兄と姉に甘える。


 怖い時はすぐ芽依の後ろへ隠れる。


 でも虫は怖がらない。


 抱っこされるとすぐ機嫌が直る。


 嫌だったことを、ずっとあとになって急に思い出して怒る。


 家族は、そんな望来を毎日見ていた。


 薬は、望来を特別な場所へ閉じ込めるものではなかった。


 望来が望来のまま、家族の中で笑って過ごすためのものだった。


     *


 異世界で、創磨が薬袋を手に取るたびに思い出すものがある。


 終業式の日。


 父の車。


 保育園へ迎えに行った芽依。


 大学病院へ向かう長い道。


 助手席から見た父の横顔。


 後部座席で何度も「みく、大丈夫?」と聞いた芽依の声。


 病院で、いつもの望来に戻っていた姿。


 そして、母のそばで小さく「めい」と言った声。


 望来の薬は、ただの白い粒ではない。


 数えれば、残りがわかる。


 飲ませれば、一つ減る。


 袋は軽くなる。


 朝と夜は必ず来る。


 でも、その一つ一つの中には、望来がここまで生きてきた時間が入っている。


 生まれる前から望まれていたこと。


 予定通りにはいかなかった出産。


 画面越しに始まった母との時間。


 水頭症の手術。


 救急車で運ばれた日。


 家族が、何度も祈るように待った時間。


 この世界では、薬は作れない。


 作業台に木材を並べても出てこない。


 石を掘っても出てこない。


 鉄を集めても、金を見つけても、望来の薬は作れない。


 水は汲める。


 パンは作れる。


 たいまつも作れる。


 盾も、柵も、つよし号も、どうにか作れた。


 でも、薬だけは増えない。


 だから創磨は、薬を飲ませるたびに、喉の奥が冷たくなる。


 飲めたことに安心する。


 でも、減ったことが怖い。


 その二つが、いつも一緒に来る。


「飲めた」


 そう言うたびに、創磨は思う。


 今日もつながった。


 でも、ひとつ減った。


 朝が来た。


 でも、夜も来る。


 夜が来たら、またひとつ減る。


 薬袋は軽くなる。


 望来はまだ、全部はわかっていない。


「おくすり?」


 そう言って、口を開ける。


「にがい」


 そう言って、顔をしかめる。


「パン」


 すぐにそう言う。


 それが望来だった。


 それでよかった。


 望来が全部わかってしまう必要はない。


 望来が怖がりすぎなくていい。


 怖い分は、創磨が覚えていればいい。


 芽依が横で見ていればいい。


 そして、帰ればいい。


 薬が尽きる前に。


     *


 望来が笑っていることは、当たり前ではない。


 望来が眠って、朝になって、また「おくすり?」と言うことは、当たり前ではない。


 望来が「みく」と呼ばれ、芽依に怒られ、創磨の食べ物を欲しがり、父と母に抱かれることは、当たり前ではない。


 その当たり前を、家族は何度も守ろうとしてきた。


 病院の外で待った日も。


 手術の説明を聞いた日も。


 救急車のあと、大学病院へ向かった日も。


 朝と夜に薬を飲ませる日々も。


 全部、望来が望来のまま笑うための時間だった。


 望んだ命が、来た。


 待っていた命が、家族の中で「みく」と呼ばれるようになった。


 だから、帰らなければならない。


 薬が尽きる前に。

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