花の道をたどって
白い花は、地面に置くとすぐに小さく見えた。
望来の手の中では、ちゃんと花だった。白くて、やわらかくて、望来が両手で大事そうに持っているあいだは、少しだけ明るいものに見えた。
けれど、四角い土の上に一つ置くと、急に頼りなくなる。
風が吹けば転がりそうで、誰かが踏めばすぐに潰れそうで、夕方になれば影に混ざって見えなくなりそうだった。
創磨は、それを見ていた。
地図の上では、花は道だった。
ここは通っていい。
ここは戻れる。
ここは赤ちゃん村人と一緒に行ける。
そう決めたはずだった。
でも、実際の村の地面に置くと、それはただの小さな花でもあった。
「そうま」
望来がつよし号の中から呼んだ。
「ここ?」
小さな手に、二つ目の白い花を握っている。
創磨は周りを見た。
自分たちの家の前。
床下へ戻れる入口の近く。
家の横のからんからは少し離れている。
たいまつの光も、夜になればぎりぎり届くかもしれない場所だった。
「そこ」
創磨がうなずくと、望来は身を乗り出した。
「みく、置く」
「落ちる」
芽依がすぐに望来の背中を押さえた。
「みく、出すぎ」
「出とらん」
「出とる」
「花、置くと」
「置くのはよかけど、落ちたらだめ」
芽依はそう言って、つよし号のへりに片手をかけた。もう片方の手で、望来の服をつまんでいる。
望来は少しだけ口をとがらせた。
「みく、花係やもん」
「花係でも、落ちたらだめ」
「落ちんもん」
「落ちるって」
言い合いながらも、芽依は望来の手が届くようにつよし号を少しだけ傾けてやった。
望来は白い花を、そっと地面に置いた。
花はまっすぐではなかった。
少し斜めになって、土の角にひっかかるように止まった。
「できた」
望来が言った。
「みくの花」
「うん」
創磨はうなずいた。
「そこ、戻る花」
「戻る?」
「家に戻るところってわかる花」
望来は、置いた花をじっと見た。
それから、赤ちゃん村人の手をぎゅっと握った。
「赤ちゃん、ここ戻るとよ」
赤ちゃん村人は何も言わない。
つよし号の中で、望来の横に座り、小さな手でつよし号のへりをつかんでいる。
でも、顔はずっと村の奥を向いていた。
畑の向こう。
井戸の横。
小さな家がある方。
赤ちゃん村人の家かもしれない場所。
創磨もその方向を見た。
昼の光はまだある。
けれど、朝より少し黄色くなっていた。屋根の下には影ができて、家の角は黒く見える。
まだ夜ではない。
まだ薬の時間でもない。
それなのに、時間が減っている感じがした。
朝、望来に薬を飲ませた。
残りは二十九回。
今はまだそのまま。
でも、夜になればまた一つ減る。
二十八回になる。
十四日。
創磨はそこまで考えて、頭を小さく振った。
今は花の道。
芽依にさっき言われたことを思い出す。
薬は夜。
今は地図。
今は道。
「そうま」
芽依が小さく言った。
「また薬の顔しとった」
「……ちょっとだけ」
「今は花」
「うん」
「みくの花、ちゃんと見て」
芽依に言われて、創磨は地面へ目を戻した。
白い花が二つ。
一つ目は家の前。
二つ目は、そこから井戸へ向かう途中。
それだけで道と呼ぶには少なすぎる。
でも、ゼロではなかった。
何もない村の地面に、初めて自分たちの決めた線ができていた。
*
つよし号は、ずず、と音を立てて進んだ。
創磨が縄を引く。
芽依は少し前を歩いて、灰色の石を握っている。
見る場所を決める石だった。
危ない場所には白い石。
通っていい場所には白い花。
見る場所には灰色の石。
戻る場所やたいまつを置きたい場所には木片。
地図の上で決めたことを、本物の村の中に一つずつ置いていく。
それだけなのに、思っていたより時間がかかった。
地図では近く見えた場所が、本当に歩くと遠い。
つよし号はまっすぐ進まない。
草の角にひっかかる。
土の段差で止まる。
望来は楽そうに乗っているように見えるけれど、時々、赤ちゃん村人が少し動いただけで一緒に揺れてしまう。
「みく、ちゃんと座っとって」
芽依が振り返る。
「座っとる」
「赤ちゃんの服、引っぱりすぎんで」
「赤ちゃん、落ちるけん」
「落ちんように、みくもじっとしとくと」
「みく、じっとしとる」
「しとらん」
「しとるもん」
望来はそう言いながら、赤ちゃん村人の肩に手を回した。
守っているつもりなのだろう。
その手つきは少し乱暴で、赤ちゃん村人の体が横に傾いた。
「みく」
創磨も声をかけた。
「優しく」
「やさしくしとる」
「もっと優しく」
望来は自分の手を見た。
それから、少し力をゆるめる。
「こう?」
「うん」
「赤ちゃん、こわくなかよ」
望来は赤ちゃん村人に顔を近づけて言った。
「みく、おるけん」
その言葉に、創磨は一瞬だけ何も言えなくなった。
前に、自分も似たようなことを言った。
土の穴の中で。
芽依に。
おれ、おるけん。
あの時、自分だって怖かった。
今の望来も、たぶん全部はわかっていない。
でも、赤ちゃん村人が家に帰りたがっていることはわかっている。
そして、自分がそばにいたいと思っている。
それだけで、望来はちゃんと望来だった。
守られるだけではない。
守りたいと言う。
ただ、その守り方が危ない。
だから、創磨と芽依が止めなければいけない。
「ここ」
芽依が足を止めた。
井戸の手前だった。
右側には村人の家。
左側には畑。
正面には井戸がある。
鉄ゴーレムの足音が、少し離れた場所から聞こえた。
どん。
どん。
その重い音がするだけで、創磨の胸は少しだけ楽になる。
「ここ、よか?」
芽依が聞いた。
創磨は周りを見た。
屋根の影はある。
でも、たいまつも一本立っている。
井戸が近い。
鉄ゴーレムの通る場所からも遠すぎない。
「よか」
創磨が言うと、芽依はつよし号を振り返った。
「みく、花」
「はい」
望来は白い花を一つ取った。
今度は、前より慎重だった。
つよし号から落ちないように、片手でへりをつかみ、もう片方の手で花を置く。
でも、届かなかった。
「うー」
望来はさらに身を乗り出そうとする。
「だめ」
芽依が即座に止めた。
「届かんなら、そうまが置く」
「みくの花やもん」
「みくが渡して、そうまが置く」
「いや」
「いやじゃなか」
「みく、花係」
望来の目が少し潤んだ。
創磨は少し迷った。
望来に置かせてやりたい。
でも、落ちたらだめだ。
ここは井戸に近い。
水そのものは大事だ。
でも、望来が落ちたら危ない。
創磨はつよし号の横にしゃがんだ。
「みく」
「なに」
「みくが花係。おれは手」
「手?」
「みくがここって決めて、おれが置く」
望来は創磨を見た。
まだ不満そうだった。
「それ、みくの花?」
「みくの花」
「みくが決めた?」
「うん」
「そうま、勝手に置かん?」
「置かん」
望来は少し考えた。
それから、白い花を創磨に渡した。
「ここ」
小さな指で、井戸の手前の地面を指す。
「そこ?」
「そこ。赤ちゃん見えるけん」
創磨はその場所を見た。
赤ちゃん村人の家が、井戸の向こうに少し見える位置だった。
花の道としては、悪くなかった。
創磨はうなずき、望来が指した場所に花を置いた。
「ここ」
望来はすぐに赤ちゃん村人の方を向いた。
「赤ちゃん、ここからおうち見える」
赤ちゃん村人は、花ではなく、その先を見ていた。
小さな家。
低い屋根。
閉まった扉。
赤ちゃん村人の手が、つよし号のへりを少し強く握った。
望来がそれに気づいた。
「赤ちゃん、行きたか?」
答えはない。
でも、赤ちゃん村人の体が、ほんの少し前に傾いた。
「行こ」
望来が言った。
「まだ」
芽依がすぐに返す。
「花、まだ」
「あるもん」
「道、まだ全部できとらん」
「赤ちゃんのおうち、見えとるもん」
「見えとるだけじゃだめ」
「なんで」
「危なかかもしれんけん」
「みく、見る」
「みくが見たら危なか」
「赤ちゃん、帰りたかもん!」
望来の声が、少し大きくなった。
近くにいた村人が、ちらっとこちらを見た。
創磨はつよし号の縄を握ったまま、望来を見た。
望来は泣きそうではなかった。
怒っていた。
赤ちゃん村人の家が見えているのに、行けない。
赤ちゃん村人がそっちを見ているのに、止められる。
それが、望来には納得できない。
「みく」
創磨はできるだけゆっくり言った。
「帰りたかとは、わかる」
「じゃあ行く」
「でも、危なかったら、赤ちゃんも怖か」
望来は赤ちゃん村人を見た。
「赤ちゃん、怖か?」
赤ちゃん村人は何も言わない。
ただ、家を見ている。
その横顔は、怖いのか、帰りたいのか、創磨にはわからなかった。
どちらもあるのかもしれない。
「みくが守る」
望来が言った。
芽依が少し眉を寄せる。
「みくは、まずつよし号から落ちんようにせんば」
「落ちん」
「さっき落ちそうやった」
「落ちとらんもん」
「落ちそうやったと」
「めい、うるさい」
「うるさくても言う」
芽依の声も強くなりかけた。
創磨は二人の間に入るように、つよし号を少し止めた。
「一個ずつ」
創磨は言った。
「今日は、家の前まで」
望来が創磨を見る。
「前?」
「うん。おうちの前まで。中には入らん」
「なんで」
「中が安全かわからんけん」
「見ればよかやん」
「見るために、今日は前まで行く」
望来は口をとがらせた。
「中、見らんとわからん」
「うん」
「じゃあ」
「でも、中に入ってから危なかったら、逃げられん」
創磨は自分で言いながら、赤い目を思い出していた。
夜、家の外にあった気配。
白い糸。
屋根の端。
かさ、という音。
クモは、まだはっきり目の前にはいない。
でも、いないわけではない。
道を作っても、花を置いても、クモが屋根から来るなら、それだけでは足りない。
「赤ちゃんのおうちを、赤ちゃんが怖い場所にしたらだめやろ」
創磨が言うと、望来は黙った。
赤ちゃん村人の家。
帰りたい場所。
でも、怖い場所。
その二つが、望来の中でぶつかったようだった。
望来は赤ちゃん村人の手を握り直した。
「……前まで」
「うん」
「中、入らん?」
「今日は入らん」
「明日は?」
創磨は少しだけ困った。
明日。
その言葉は簡単に言える。
でも、明日になれば薬はまた減っている。
夜を越えなければならない。
花の道が夜に見えるかもわからない。
何かがまた、からんを鳴らすかもしれない。
「準備できたら」
創磨は言った。
「準備?」
「うん。もっとちゃんと見て、たいまつ置いて、逃げる道も決めてから」
望来は完全には納得していない顔だった。
でも、赤ちゃん村人を見てから、小さくうなずいた。
「じゃあ、前まで」
*
赤ちゃん村人の家へ近づく道は、思ったより静かだった。
井戸を過ぎると、村人の声が少し遠くなる。
畑の葉が風で揺れる音がする。
つよし号の底が、草の角をこする音がする。
それから、望来が時々、赤ちゃん村人に小さく話しかける声。
「赤ちゃん、もうちょっと」
「ここ、花」
「だめの石、さわらんとよ」
「みく、おるけん」
望来は、自分に言い聞かせているようでもあった。
家に近づくほど、白い花は増えた。
花の道は、まっすぐではない。
少し右へ曲がり、井戸の近くを通り、屋根の影を避けて、たいまつのある場所に寄る。
遠回りだった。
でも、創磨にはその遠回りが大事に見えた。
まっすぐ行けば早い。
でも、早い道が安全とは限らない。
ゲームなら、最短距離で走れるかもしれない。
でも、ここには望来がいる。
赤ちゃん村人がいる。
つよし号がある。
そして、見えないものがいるかもしれない。
「ここ、白い石」
芽依が言った。
赤ちゃん村人の家の少し手前。
隣の家との間に、細い影が落ちている場所だった。
昼でも暗い。
壁と壁のすき間。
何かが通ったとしても、すぐには見えない。
創磨はうなずいた。
「そこは近づかん」
芽依は白い石を置いた。
それから、少し離れたところに灰色の石を置く。
「ここから見る」
「うん」
「めいの見る場所」
「うん」
「みく、ここから出んとよ」
望来はつよし号の中で、真面目な顔をしてうなずいた。
「出ん」
「ほんとに?」
「ほんと」
「赤ちゃんも」
「赤ちゃんも出ん」
望来は赤ちゃん村人の服をつまんだ。
でも、赤ちゃん村人は家を見ていた。
小さな家。
扉は閉まっている。
窓も静かだった。
入口の横には、消えたたいまつの跡があった。
黒くなった木の先。
もう火はない。
創磨は持ってきたたいまつを一本取り出した。
昼の光の中でも、火をつけると少しだけ安心する。
でも、その火は同時に、そこに影があることもはっきりさせた。
入口の横。
屋根の下。
窓の上。
暗いところが、火に照らされて形を持つ。
「そうま」
芽依が小さく言った。
「屋根」
創磨は顔を上げた。
赤ちゃん村人の家の屋根。
低くて、四角い木の屋根。
その端に、何か白いものが引っかかっていた。
とても細い。
風で揺れたのか、光で揺れたように見えたのか、わからない。
でも、創磨にはわかった。
糸。
屋根の端に残った、白い糸。
創磨の背中が冷たくなった。
「また、糸」
芽依の声が小さくなる。
「うん」
「赤ちゃんのおうちにも?」
「うん」
「じゃあ、やっぱり中はだめやね」
「うん」
望来が、二人の声を聞いていた。
「ひも?」
創磨はゆっくりうなずいた。
「くもが通ったあとかもしれん」
望来は一瞬、家を見た。
それから、赤ちゃん村人を抱き寄せるようにした。
今度は少しだけ優しく。
「赤ちゃん、だめ」
小さな声だった。
「今日は、だめ」
さっきまで行くと言っていた望来が、そう言った。
芽依は何も言わなかった。
創磨も、すぐには何も言えなかった。
望来が全部わかったわけではない。
糸が何なのか。
クモがどこから来るのか。
薬があと何回なのか。
そういうことを、ちゃんとわかったわけではない。
でも、赤ちゃん村人の家に、怖いもののあとがある。
それだけは、望来にも伝わったのだと思った。
望来は、白い花を一つ持った。
「ここ、置く」
「そこ?」
創磨が聞く。
望来はつよし号のへりから、家の前を指した。
扉の真正面ではない。
少し横。
たいまつの光が届く場所。
白い石からは離れている。
糸のある屋根の真下でもない。
「ここ」
望来は言った。
「赤ちゃん、ここまで」
創磨は花を受け取らずに、つよし号の位置を少しだけ近づけた。
芽依がすぐに望来の背中を支える。
「落ちんで」
「落ちん」
望来は手を伸ばした。
届かない。
もう少し。
体が前に出る。
芽依が服をつかむ。
「みく」
「届く」
「危なか」
「届くもん」
望来は必死だった。
創磨は止めようとした。
けれど、その時、赤ちゃん村人が動いた。
望来の手の中の白い花に、小さな手を重ねた。
二人の手で、白い花を持つ。
望来は赤ちゃん村人を見た。
「赤ちゃんも?」
赤ちゃん村人は答えない。
でも、手は離さなかった。
創磨はつよし号をほんの少しだけ押さえた。
動かないように。
芽依は望来の背中を支えた。
望来と赤ちゃん村人は、二人で白い花を地面へ落とした。
花は、家の前にふわっと落ちた。
土の角に当たり、少し跳ねて、たいまつの光が届く場所で止まった。
赤ちゃん村人の家の前。
でも、扉の前ではない。
中へ入るための印ではなく、今日はここまでという印。
「できた」
望来が小さく言った。
「赤ちゃんの花」
赤ちゃん村人は、その花を見ていた。
そして、ゆっくり家の扉へ手を伸ばした。
届く距離ではない。
ただ、空に向かって手を伸ばすみたいに。
家の方へ。
扉の方へ。
帰りたい場所へ。
望来はその手を見た。
さっきまでなら、きっと「行こ」と言った。
でも、今は言わなかった。
屋根の端の白い糸を、もう一度見たのかもしれない。
創磨と芽依の顔を見たのかもしれない。
赤ちゃん村人の手が少し震えているように見えたのかもしれない。
望来は、赤ちゃん村人の手を両手で包んだ。
「また来るけん」
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
「みく、赤ちゃんとまた来る」
赤ちゃん村人は、望来を見た。
何も言わない。
けれど、手を引っ込めて、望来の服の端をつかんだ。
望来はそれを見て、少しだけ泣きそうな顔になった。
「今日は、だめ」
自分に言い聞かせるように、もう一度言う。
「くもしゃんのひも、あるけん」
「うん」
創磨はうなずいた。
「今日は、ここまで」
芽依も、白い石と白い花を見た。
「帰ろう」
創磨はつよし号の縄を握った。
引き返す。
白い花の線をたどって。
帰る道は、来た時より少しだけ違って見えた。
白い花がある。
白い石がある。
灰色の石がある。
自分たちで決めた道がある。
でも、それは安全になったという意味ではなかった。
危ない場所が見え始めたという意味だった。
望来はつよし号の中で、何度も振り返った。
赤ちゃん村人も、同じ方を見ていた。
小さな家。
閉まった扉。
屋根の端の白い糸。
たいまつの光のそばに落ちた、二人で置いた白い花。
「赤ちゃん」
望来が小さく言った。
「また来るけんね」
返事はない。
それでも、赤ちゃん村人の手は、望来の服の端を離さなかった。
創磨はつよし号を引きながら、白い花の線を見た。
花は、帰る場所を教えてくれる。
でも、同時に、まだ帰れない場所も教えていた。
赤ちゃん村人の家は、すぐそこにある。
でも今日は、帰れない。
夕方の光が少しずつ傾き、白い花の影が地面に細く伸びていく。
その影を踏まないように、望来はつよし号の中からじっと見ていた。




