屋根の上
朝は、床板のすき間から来た。
最初に気づいたのは、創磨だった。
床下の中はまだ暗い。けれど、上の方に細く白い光が差していた。夜のたいまつの色ではない。朝の光だった。
創磨は、すぐには動かなかった。
体が固まっていた。
盾を抱えた腕も、膝を曲げたままの足も、背中も、全部が痛い。眠った気がしなかった。何度も目を閉じたはずなのに、そのたびに上の床板から聞こえた、かさ、という音を思い出していた。
横のからん。
裏のからん。
そして、上。
夜の最後に聞こえた、床の向こうの小さな音。
あれが何だったのか、まだわからない。
でも、わからないまま次の夜にするわけにはいかなかった。
「……朝?」
芽依の声が、創磨のすぐ横でした。
かすれていた。
芽依も、あまり眠れていない顔だった。髪は乱れて、片手にはまだ小さな石を握っている。寝ている間も離さなかったのかもしれない。
「うん」
創磨は小さく答えた。
「朝」
望来は芽依の膝に半分もたれるようにして眠っていた。赤ちゃん村人はその横で、望来の服の端を握ったまま丸まっている。二人とも小さかった。床下の暗さの中では、余計に小さく見えた。
「みく、起こす?」
芽依が聞いた。
「薬」
創磨はそれだけ言った。
芽依の顔が、すぐに眠そうな顔から変わった。
朝の薬。
それを忘れるわけにはいかない。
昨日の夜、薬を飲ませて、残りは三十回になった。
今から飲ませる。
そうしたら、二十九回。
十四日と半分。
創磨は、頭の中で数字が並ぶのを止められなかった。
二十九回。
三十を切る。
それだけで、胸の奥が一段下がるような気がした。
まだ十四日半ある。
そう思いたい。
でも、三週間あった薬は、もう三週間ではない。
十五日でもない。
十四日と半分になる。
「上、開ける」
創磨は床下の扉に手を伸ばした。
「待って」
芽依がすぐに止めた。
「外、見てから」
「うん」
創磨は耳をすませた。
上からは、何も聞こえない。
夜の、かさ、という音もない。
たいまつが燃える音も、もうほとんどわからない。
遠くで村人の声がした。
鉄ゴーレムの足音も、少し聞こえる。
普通の朝の音だった。
でも、普通に聞こえることが、そのまま安全というわけではない。
創磨は少しだけ扉を押し上げた。
ぎ、と木が鳴る。
その音に、望来がびくっとした。
「……からん?」
寝ぼけた声だった。
「朝」
芽依がすぐに答えた。
「みく、朝よ」
「おくすり?」
「うん。おくすり」
望来は目をこすろうとして、赤ちゃん村人の服を握っていることに気づいた。
「あの子、ねんね」
「うん。赤ちゃんも起きるけん」
芽依が望来の背中を支えた。
創磨は床下から先に顔を出した。
家の中は、夜と同じ場所なのに、朝の光が入るだけで少し違って見えた。
つよし号は床下の入口の近くに置いたまま。
水の器もある。
薬袋も、昨日の夜にしまった場所にある。
盾もある。
扉も閉まっている。
窓の上には、まだ暗い影が残っているように見えた。
創磨は床下から出て、薬袋を取った。
手に持った瞬間、軽いと思った。
もう、重さで少しわかる。
減っている。
確実に減っている。
「みく、口」
創磨は望来の前にしゃがんだ。
望来は床下から出たばかりで、まだぼんやりしている。髪が顔にはりついて、目も半分しか開いていない。
「にがい?」
「にがい」
「パンは?」
「あと」
「大きいパン?」
「ちょっと」
「大きいちょっと?」
「普通のちょっと」
いつものやり取りだった。
けれど、創磨の声は少し硬かった。
芽依が器を持ってきて、水を支える。
望来は小さく口を開けた。
薬を入れる。
水を飲ませる。
こくん。
小さな喉が動いた。
創磨はその動きを、最後まで見た。
「飲めた」
「飲めた」
芽依も言った。
望来は顔をしかめてから、すぐに手を出した。
「パン」
芽依が小さなかけらを渡す。
望来は受け取ると、半分を自分の口に入れ、半分を赤ちゃん村人に差し出そうとした。
「赤ちゃん、まだ起きとらん」
「起きる」
「先にみく食べて」
「赤ちゃんも」
「あとで」
望来は少し不満そうにしたが、自分で食べた。
その横で、赤ちゃん村人がゆっくり目を開ける。望来はすぐに顔を明るくした。
「あの子、起きた」
「うん」
創磨は薬袋をしまいながら、小さく言った。
「二十九回」
芽依だけが聞こえるくらいの声だった。
芽依の手が止まった。
「……二十九?」
「うん」
「十四日と半分?」
「うん」
芽依は望来の方を見た。
望来はパンを食べながら、赤ちゃん村人に小さく笑っている。
何もわかっていない顔ではない。
でも、二十九回の重さまでは、たぶんわかっていない。
芽依は唇をきゅっと結んだ。
「今日も、ちゃんと飲めた」
「うん」
「それは、よかことやろ」
「うん」
二人はそれ以上、数字のことを言わなかった。
言っても薬は増えない。
でも、言わないからといって、減っていないことにもならない。
*
外へ出る前に、創磨は窓の上を見た。
夜、かさ、と鳴った方。
床板の上。
屋根の近く。
窓の少し上。
そこには、何もいない。
赤い目もない。
脚もない。
でも、創磨には、そこだけが暗く見えた。
「まず、からん見る」
創磨が言うと、芽依はすぐに石を握り直した。
「横と裏?」
「うん」
「上は?」
「そのあと」
「上、行くと?」
芽依の声が少し低くなった。
創磨はすぐには答えなかった。
行きたくない。
屋根の上なんて、見たくない。
そこに、夜の何かの跡があったら怖い。
何もなかったら、それはそれで怖い。じゃあ、あの音は何だったのか、わからないままになる。
「見る」
創磨は言った。
「朝やけん」
「朝でも怖かよ」
「うん」
「でも、見ると?」
「見らんと、夜がもっと怖か」
芽依は黙った。
それから、少しだけ不機嫌そうに言った。
「じゃあ、めいも行く」
「だめ」
「なんで」
「屋根やけん」
「そうまも屋根やろ」
「おれが先に見る」
「ずる」
「ずるじゃなか」
「めいも怖かけど、見らん方がもっと怖かもん」
その言葉は、創磨の中にもあった。
見たくない。
でも、見ないままはもっと怖い。
芽依も同じだった。
「……下で見て」
「下?」
「どこが危なかか、下にしるし置いて」
芽依は少しだけ顔を上げた。
「しるし?」
「うん。昨日みたいに。石とか、葉っぱとか」
「めいの仕事?」
「うん」
「上はそうま。下はめい?」
「うん」
芽依はまだ納得しきっていない顔だった。
でも、「仕事」と言われたことで、少し表情が変わった。
「じゃあ、めい、下のしるし」
「お願い」
「お願いって言ったけん、する」
芽依はそう言って、ポケットを探った。
小さな石が二つ。
白い花のしおれかけたもの。
木片。
いつ拾ったのかわからない葉っぱ。
創磨はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
家なら怒られる。
でも、ここでは命につながる。
「みくは、つよし号」
芽依が振り返って言った。
「みくも見る」
「つよし号から」
「上、見る」
「上はだめ」
「なんで」
「落ちるけん」
「みく、落ちん」
「落ちる」
「落ちんもん」
「落ちるって言いよるやろ」
芽依の声が少し強くなった。
望来は口を曲げた。
けれど、赤ちゃん村人が入口の方へ動こうとした瞬間、望来はその服をつかんだ。
「赤ちゃん、だめ。上、くもしゃん」
創磨と芽依は、同時に望来を見た。
望来は真面目な顔だった。
自分は見たがる。
でも、赤ちゃん村人は止める。
そういうところが、望来だった。
「みくも、だめ」
芽依が言う。
「……みくも?」
「みくも」
「じゃあ、みく、赤ちゃん見る」
「うん。それが仕事」
「みくの仕事?」
「そう」
望来は少し考えた。
そして赤ちゃん村人の袖をぎゅっと握った。
「みく、赤ちゃん係」
「うん。赤ちゃん係」
創磨はうなずいた。
「赤ちゃんがからん触らんように見とって」
「うん」
「つよし号から降りんで」
「うん」
「ほんとに?」
「ほんと」
返事はいい。
でも、創磨はもう、返事だけでは安心しなかった。
つよし号を家の入口の内側へ置く。
床下の扉にも近い。
水にも近い。
薬袋にも近い。
赤ちゃん村人と望来をそこに座らせる。
それから、創磨は盾を持った。
でも、すぐに困った。
屋根を見るなら、両手がいる。
はしごを作るなら、持ち上げる手もいる。
盾を抱えたままでは動きにくい。
でも、手ぶらで外に出るのは怖い。
「盾、置くと?」
芽依が聞いた。
「……近くに置く」
「持たんでよかと?」
「はしご作るなら、持てん」
「でも、何か来たら」
「すぐ取れるとこ」
創磨は盾を家の入口の横に立てかけた。
手を離した瞬間、体の前が急に薄くなった気がした。
盾一枚で全部守れるわけではない。
それでも、持っているだけで少し違っていたのだとわかった。
*
家の横のからんは、やっぱり動いていた。
糸は切れていない。
けれど、昨日より少したるんでいる。
白い石は地面に落ちていなかったが、結び目がずれて、木片に斜めに当たったまま止まっていた。
「鳴ったあとやね」
芽依が言った。
「うん」
創磨はしゃがみこんだ。
土の上に、はっきりした足跡はない。
でも、壁の根元に草が押されたような跡がある。
そして、壁の少し上。
目の高さより上に、細い白いものが引っかかっていた。
「糸」
創磨が言うと、芽依も顔を上げた。
「上にもある」
「うん」
「やっぱり上?」
「たぶん」
「またたぶん」
「でも、夜の音と合う」
芽依は何も言わなかった。
二人は裏へ回った。
裏のからんも、灰色の石が少し落ちかけていた。糸は伸び、木片は壁から半分抜けている。
昨日、創磨が指で揺らした時よりも、大きく動いたように見えた。
「こっちも鳴った」
芽依が小さく言った。
「うん」
「横から来て、裏にも来て、上?」
「そうかもしれん」
創磨は壁を見上げた。
朝の光があるのに、家の裏は暗い。
たいまつを置いたのに、屋根の下には届いていない。
壁の角から屋根の端へ、白い糸のかけらが伸びている。
それは細くて、頼りなくて、でもはっきりと「上へ行った」と言っているみたいだった。
「屋根、見らんば」
創磨は言った。
言った瞬間、自分の腹の奥が重くなった。
見らんば。
でも、どうやって。
壁をそのまま登るのは無理だ。
足をかける場所があるようで、ない。
ゲームならジャンプして登れるかもしれない。
でも、創磨の体は八歳の体だった。
手をかければ腕が痛む。
足を滑らせれば落ちる。
落ちたら、ただ痛いでは済まないかもしれない。
「はしご」
創磨はつぶやいた。
「はしご作ると?」
「うん。棒で」
「棒ある?」
「木はある。作れると思う」
「思う?」
「作ったことは、ある。ゲームでは」
芽依は少し不安そうにした。
「ここでは?」
「まだ」
「じゃあ、ゆっくり作ろう」
その言い方が、また少し母に似ていた。
創磨はうなずいた。
*
作業台の前に座ると、創磨は少しだけ落ち着いた。
怖くても、作業台の前ではやることが見える。
木材を棒にする。
棒を並べる。
左右に三本ずつ。
真ん中に一本。
はしごの形。
動画で何度も見た配置。
けれど、実際の手は少し震えていた。
材料を置く位置を間違えそうになる。
「そうま、手、震えとる」
芽依が言った。
「わかっとる」
「怖か?」
「怖か」
「めいも怖か」
「うん」
「でも、作らんばやろ」
「うん」
創磨は棒を置き直した。
作業台の上で、形がまとまる。
木のはしご。
細い。
頼りない。
でも、ちゃんとはしごだった。
ゲームの中のアイテムみたいに軽くはない。持ち上げると、思ったより長くて、壁にぶつかりそうになった。
「長っ」
芽依が目を丸くした。
「屋根までいるけん」
「これ、みく触ったら倒れるやつやん」
「触らせん」
望来はつよし号の中からすぐに言った。
「みく、触らん」
「ほんとに?」
「ほんと」
「赤ちゃんも?」
「赤ちゃんも触らん」
赤ちゃん村人ははしごをじっと見ていた。
何に使うのか、わかっているのかはわからない。
でも、望来に袖をつかまれて、おとなしく座っている。
創磨と芽依は、はしごを家の横まで運んだ。
長い。
重い。
二人で持っても、壁にぶつけそうになる。
「そっち上げて」
「上げとる」
「もっと」
「無理、重か」
「ゆっくり」
「そうまも持ってよ」
「持っとる」
「持っとらんみたい」
「持っとるって」
言い合いながら、二人ははしごを壁へ立てかけた。
ご、と音がした。
はしごの上が屋根の端に当たる。
下が少し滑りそうになって、芽依があわてて押さえた。
「危なっ」
「動いた?」
「動いた!」
「もっと壁に」
「めい、押さえとく」
「でも、手挟まんで」
「わかっとる」
創磨ははしごを見上げた。
高い。
家の屋根は、下から見ればそこまで高くないように思っていた。
でも、はしごの下に立つと違った。
一段目。
二段目。
三段目。
屋根の端まで続く木の棒。
そこを自分の手と足で登らなければならない。
落ちたら、地面は硬い。
下には芽依がいる。
少し離れた家の入口には、望来と赤ちゃん村人がいる。
創磨は喉を鳴らした。
「そうま」
芽依が下から見た。
「無理なら、やめる?」
「……見る」
「でも、落ちたらだめ」
「わかっとる」
「ほんとに?」
「ほんと」
創磨は一段目に足をかけた。
木が少しきしむ。
手でつかむ。
左腕に痛みが来る。
盾を持っていた時とは違う痛みだった。体を引き上げるための痛み。肘の奥と肩が、まだ完全に戻っていないことを知らせてくる。
二段目。
三段目。
下を見ないようにした。
でも、見ないようにすると余計に下が気になった。
「そうま、ゆっくり」
芽依の声がした。
「うん」
「足、ちゃんと」
「うん」
「手、すべらんで」
「わかっとる」
「汗、ふいて」
「今ふけん」
「じゃあ、気をつけて」
「言われんでもしとる」
少し言い返したことで、逆に息がしやすくなった。
創磨はもう一段上がった。
屋根の端が近くなる。
その時、はしごがほんの少し揺れた。
「っ」
創磨の足が止まった。
頭の中で、短い声が鳴った。
――そう!
父の声だった。
危ない時の、短い声。
創磨は反射的に手に力を入れた。
前へ出すぎない。
急がない。
体を壁に近づける。
父が横にいるわけではない。
でも、声だけは体の中に残っていた。
「そうま?」
芽依が下から呼ぶ。
「大丈夫」
「ほんとに?」
「今、止まっただけ」
「落ちんでよ」
「落ちん」
創磨は屋根の端に手をかけた。
木の角が手のひらに食い込む。
体を引き上げる。
重い。
自分の体が、こんなに重いと思わなかった。
足をもう一段上げ、膝を屋根の端に乗せる。
それから、ずる、と体を屋根の上へ押し上げた。
屋根の上に腹ばいになった瞬間、創磨はしばらく動けなかった。
息が上がっている。
手のひらが痛い。
左腕がじんじんする。
でも、上に来た。
「そうま!」
下から芽依の声。
「見えた?」
「まだ」
創磨はゆっくり顔を上げた。
*
屋根の上は、思っていたより広くなかった。
四角い木の板が並んでいる。
朝の光が当たる場所は明るい。
でも、屋根の端や壁との境目は、たいまつの光が届いていないせいか、少し暗い。
そして、そこにあった。
白い糸。
細く、切れたようなもの。
屋根の端に、ひっかかっている。
もう一本。
窓の上の角にも、白っぽいかけら。
さらに、たいまつのない屋根の裏側へ向かって、土埃のような薄い跡が続いていた。
足跡とは違う。
でも、何かがそこを通ったように、屋根の上の汚れが少しだけ擦れている。
「……あった」
創磨の声は、自分でも驚くほど小さかった。
「何が?」
芽依が下から聞く。
「糸」
「上にも?」
「うん」
「いっぱい?」
「いっぱいじゃなか。でも、ある」
創磨は四つんばいのまま、屋根の上を進んだ。
立たない。
立ったら怖い。
屋根の上で立ち上がるなんて、無理だった。
手と膝で進む。
木の板が少しざらざらしている。
朝露のように湿っているところもあった。
そこに手をつくたび、滑りそうで怖い。
「そうま、立っとる?」
「立っとらん」
「じゃあ何しよると」
「はってる」
「赤ちゃんみたい」
「うるさか」
芽依が少しだけ笑った気配がした。
でも、すぐに真面目な声に戻る。
「どこ?」
「家の横の上。あと、窓の上」
「しるし置く」
芽依が言った。
下で小石を置く音がした。
「ここ、横の上」
「うん」
「次は?」
「窓の上」
「どの窓?」
「家の裏に近い方」
「わかった」
芽依は下で動き回っている。
創磨が上から見つける。
芽依が下に印を置く。
昨日までなら、創磨一人で見て、怖くなって、終わりだったかもしれない。
でも今は違った。
上と下で、家の形を覚えている。
クモが通ったかもしれない道を、二人で見つけている。
「芽依」
「なに」
「そこ、白い石で」
「なんで」
「大事な場所やけん」
「じゃあ、めいの白い石」
「うん」
「返してよ」
「置いたら返せんやろ」
「じゃあ、めいの場所」
「うん。芽依の場所」
芽依は満足そうに「よし」と言った。
創磨は屋根の端へ近づきすぎないようにしながら、たいまつの位置を見た。
今、屋根の上には明かりがほとんどない。
家の中のたいまつ。
入口のたいまつ。
横と裏のたいまつ。
それらはある。
でも、屋根の上は暗い。
夜になれば、ここが一番暗くなる。
だから、来たのかもしれない。
クモが。
上から。
創磨は持ってきたたいまつを一本取り出した。
屋根の真ん中より少し端。
でも、落ちにくい場所。
そこに立てる。
火が小さく揺れた。
朝の光の中では弱い火に見える。
でも、夜になれば違う。
「たいまつ置いた」
創磨が言った。
「一本?」
「一本」
「足りる?」
「足りんと思う」
「じゃあ、もっと」
「たいまつも減る」
「暗いよりよか」
昨日も聞いた言葉だった。
芽依は何度もそう言う。
暗いよりいい。
何もないよりいい。
完全じゃなくてもいい。
小さくても、置く。
創磨はもう一本のたいまつを持っていた。
少し迷う。
たいまつは大事だ。
でも、夜の屋根はもっと怖い。
創磨は屋根の反対側へ、四つんばいで進んだ。
そこから見える村は、少し違っていた。
自分たちの家。
隣の家。
畑。
井戸。
村人が歩く道。
鉄ゴーレムが回る村の端。
それらの屋根の上には、ほとんどたいまつがない。
家の中や入口は明るい。
でも、屋根の上は暗いままの場所が多い。
夜になれば、そこも黒く沈む。
もしクモが屋根を渡れるなら。
自分たちの家だけではない。
村の家も、上から来られる。
赤ちゃん村人の家も。
望来が友達だと言う、この小さな村人の場所も。
創磨の胸が重くなった。
「そうま?」
芽依が下から呼んだ。
「何見よると?」
「村」
「村?」
「屋根、どこも暗か」
芽依は少し黙った。
「じゃあ、くもしゃん、どこでも来ると?」
「わからん」
「またわからん」
「でも、来れるかもしれん」
下の方で、望来の声がした。
「くもしゃん、だめよ」
創磨が見ると、望来はつよし号から身を乗り出しかけていた。
赤ちゃん村人も、上を見ようとしている。
芽依がすぐに振り返る。
「みく、乗り出さん!」
「見よるだけ」
「出とる!」
「出とらん」
「落ちる!」
望来はむっとした顔をした。
でも、赤ちゃん村人の服を引っ張って、自分も座り直した。
「赤ちゃん、だめ。上、くもしゃん」
赤ちゃん村人は、望来に引かれておとなしくなった。
創磨は屋根の上から、その様子を見ていた。
望来は、守られるだけではない。
赤ちゃん村人を止める。
でも、その望来自身も、つよし号から落ちそうになる。
守ろうとする小さな子を、さらに守らなければならない。
創磨は、たいまつをもう一本、村の屋根が見える側に立てた。
火が揺れる。
小さな明かりだった。
でも、屋根の上に初めて置いた明かりだった。
*
下りる方が怖かった。
登る時は、上だけを見ていればよかった。
でも下りる時は、どうしても地面が見える。
はしごの下で、芽依が両手ではしごを押さえている。
望来と赤ちゃん村人はつよし号の中。
盾は入口の横。
たいまつは屋根の上。
全部見える。
見えるから、怖い。
「そうま、足から」
芽依が言った。
「わかっとる」
「後ろ向き」
「わかっとる」
「ゆっくり」
「わかっとるって」
「怒らんでよ。落ちたらいややもん」
その声で、創磨は黙った。
芽依はうるさく言っているわけではなかった。
怖いのだ。
創磨が落ちるのが。
「……うん」
創磨は小さく答えた。
「ゆっくり下りる」
一段。
また一段。
手が痛い。
左腕が震える。
足の裏が棒を探す。
途中で、またはしごが少し揺れた。
「そう!」
頭の中で父の声が鳴る。
創磨は息を止め、体を壁に近づけた。
下から芽依が、はしごをぎゅっと押さえる。
「動いた?」
「ちょっと」
「大丈夫?」
「うん」
「あと少し」
最後の一段を下りた瞬間、創磨は地面にしゃがみこんだ。
足に力が入らなかった。
腕も痛い。
膝も少し笑っている。
高いところから下りただけなのに、全身が疲れていた。
「そうま」
芽依が顔をのぞきこんだ。
「大丈夫?」
「大丈夫」
「大丈夫じゃなか顔」
「ちょっと休む」
「うん。休まんば」
望来がつよし号から言った。
「そうま、屋根できた?」
「屋根できたっていうか、見た」
「くもしゃん、いた?」
「おらんかった」
「よかった」
望来はほっとしたように言った。
でも、創磨はすぐにはうなずけなかった。
いなかった。
今はいなかった。
でも、跡はあった。
糸もあった。
暗い場所もあった。
「でも、来たかもしれん」
創磨が言うと、望来は少しだけ顔を曇らせた。
「あの子、こわい?」
望来は赤ちゃん村人を見た。
赤ちゃん村人は何も言わない。
でも、望来の袖を小さく握っている。
「怖いかもしれん」
創磨は答えた。
「じゃあ、守る」
「うん。でも、みくも守る」
「みくも?」
「うん。みくも」
望来は少し考えた。
それから、小さくうなずいた。
「じゃあ、みく、つよし号」
「うん。夜はつよし号。からん鳴ったら床下」
「赤ちゃんも」
「赤ちゃんも」
「くもしゃん、上?」
「上かもしれん」
「じゃあ、上、だめ」
「うん。上はだめ」
芽依は、家の下に置いた白い石を見ていた。
横の上。
窓の上。
裏の上。
そこに、石や葉っぱや木片の印がある。
ばらばらだけど、地図みたいだった。
「そうま」
「なに」
「ここ、上のくものみち」
芽依は白い石を指さした。
「こっちは、窓の上」
次に、葉っぱ。
「こっちは、裏」
木片。
「夜、ここ見ればよか」
「うん」
「めい、覚えた」
「おれも」
「みくは?」
望来がすぐに聞いた。
「みくも覚える」
「みくは、つよし号と床下」
芽依が言った。
「また?」
「また」
「みく、見る係」
「うん。赤ちゃん係」
望来は少しだけ満足した顔になった。
「みく、赤ちゃん係」
創磨は地面に座ったまま、屋根を見上げた。
たいまつが二本。
朝の光の中では、小さな火にしか見えない。
でも、夜になれば、あそこが明るくなる。
それだけで、次の夜は少し違うかもしれない。
少しだけ。
完全じゃない。
まだ怖い。
クモが来るかもしれない。
糸も足りない。
弓もまだ遠い。
はしごも不安定。
薬は二十九回しかない。
でも、今日は屋根を見た。
上にも明かりを置いた。
芽依が下にしるしを置いた。
望来は赤ちゃん村人を止めた。
昨日より、少しだけ家のことがわかった。
それは、何もしていないよりはずっといい。
創磨は息を吐いた。
その視線の先に、村の屋根が並んでいる。
自分たちの家だけではない。
あっちの屋根も暗い。
井戸の近くの家も。
畑の向こうの家も。
村人が入っていく小さな家も。
夜になれば、全部の屋根に暗さが乗る。
クモが屋根を通るなら、自分たちの家だけ守っても足りない。
「……ここだけじゃ、足りん」
創磨は小さく言った。
芽依が隣で顔を上げた。
「何が?」
「屋根」
「うちの?」
「村の」
芽依も村の方を見た。
望来もつよし号の中で、赤ちゃん村人の手を握ったまま、同じ方を見る。
朝の村は、静かだった。
畑には村人がいて、井戸の近くにも人影がある。
鉄ゴーレムも歩いている。
いつもの朝に見える。
でも、創磨たちはもう知っていた。
夜になれば、見え方が変わる。
下だけではない。
横だけでもない。
上から来るものがいる。
創磨は、屋根の上で揺れる小さなたいまつを見た。
その火はまだ弱い。
でも、消えてはいなかった。
次の夜までに、やることがまた増えた。
怖さも増えた。
けれど、見えないままよりはいい。
見えたなら、手を動かせる。
創磨は痛む左腕を押さえながら、もう一度、村の屋根を見た。




