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妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


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25/32

屋根の上





 朝は、床板のすき間から来た。


 最初に気づいたのは、創磨だった。


 床下の中はまだ暗い。けれど、上の方に細く白い光が差していた。夜のたいまつの色ではない。朝の光だった。


 創磨は、すぐには動かなかった。


 体が固まっていた。


 盾を抱えた腕も、膝を曲げたままの足も、背中も、全部が痛い。眠った気がしなかった。何度も目を閉じたはずなのに、そのたびに上の床板から聞こえた、かさ、という音を思い出していた。


 横のからん。


 裏のからん。


 そして、上。


 夜の最後に聞こえた、床の向こうの小さな音。


 あれが何だったのか、まだわからない。


 でも、わからないまま次の夜にするわけにはいかなかった。


「……朝?」


 芽依の声が、創磨のすぐ横でした。


 かすれていた。


 芽依も、あまり眠れていない顔だった。髪は乱れて、片手にはまだ小さな石を握っている。寝ている間も離さなかったのかもしれない。


「うん」


 創磨は小さく答えた。


「朝」


 望来は芽依の膝に半分もたれるようにして眠っていた。赤ちゃん村人はその横で、望来の服の端を握ったまま丸まっている。二人とも小さかった。床下の暗さの中では、余計に小さく見えた。


「みく、起こす?」


 芽依が聞いた。


「薬」


 創磨はそれだけ言った。


 芽依の顔が、すぐに眠そうな顔から変わった。


 朝の薬。


 それを忘れるわけにはいかない。


 昨日の夜、薬を飲ませて、残りは三十回になった。


 今から飲ませる。


 そうしたら、二十九回。


 十四日と半分。


 創磨は、頭の中で数字が並ぶのを止められなかった。


 二十九回。


 三十を切る。


 それだけで、胸の奥が一段下がるような気がした。


 まだ十四日半ある。


 そう思いたい。


 でも、三週間あった薬は、もう三週間ではない。


 十五日でもない。


 十四日と半分になる。


「上、開ける」


 創磨は床下の扉に手を伸ばした。


「待って」


 芽依がすぐに止めた。


「外、見てから」


「うん」


 創磨は耳をすませた。


 上からは、何も聞こえない。


 夜の、かさ、という音もない。


 たいまつが燃える音も、もうほとんどわからない。


 遠くで村人の声がした。


 鉄ゴーレムの足音も、少し聞こえる。


 普通の朝の音だった。


 でも、普通に聞こえることが、そのまま安全というわけではない。


 創磨は少しだけ扉を押し上げた。


 ぎ、と木が鳴る。


 その音に、望来がびくっとした。


「……からん?」


 寝ぼけた声だった。


「朝」


 芽依がすぐに答えた。


「みく、朝よ」


「おくすり?」


「うん。おくすり」


 望来は目をこすろうとして、赤ちゃん村人の服を握っていることに気づいた。


「あの子、ねんね」


「うん。赤ちゃんも起きるけん」


 芽依が望来の背中を支えた。


 創磨は床下から先に顔を出した。


 家の中は、夜と同じ場所なのに、朝の光が入るだけで少し違って見えた。


 つよし号は床下の入口の近くに置いたまま。


 水の器もある。


 薬袋も、昨日の夜にしまった場所にある。


 盾もある。


 扉も閉まっている。


 窓の上には、まだ暗い影が残っているように見えた。


 創磨は床下から出て、薬袋を取った。


 手に持った瞬間、軽いと思った。


 もう、重さで少しわかる。


 減っている。


 確実に減っている。


「みく、口」


 創磨は望来の前にしゃがんだ。


 望来は床下から出たばかりで、まだぼんやりしている。髪が顔にはりついて、目も半分しか開いていない。


「にがい?」


「にがい」


「パンは?」


「あと」


「大きいパン?」


「ちょっと」


「大きいちょっと?」


「普通のちょっと」


 いつものやり取りだった。


 けれど、創磨の声は少し硬かった。


 芽依が器を持ってきて、水を支える。


 望来は小さく口を開けた。


 薬を入れる。


 水を飲ませる。


 こくん。


 小さな喉が動いた。


 創磨はその動きを、最後まで見た。


「飲めた」


「飲めた」


 芽依も言った。


 望来は顔をしかめてから、すぐに手を出した。


「パン」


 芽依が小さなかけらを渡す。


 望来は受け取ると、半分を自分の口に入れ、半分を赤ちゃん村人に差し出そうとした。


「赤ちゃん、まだ起きとらん」


「起きる」


「先にみく食べて」


「赤ちゃんも」


「あとで」


 望来は少し不満そうにしたが、自分で食べた。


 その横で、赤ちゃん村人がゆっくり目を開ける。望来はすぐに顔を明るくした。


「あの子、起きた」


「うん」


 創磨は薬袋をしまいながら、小さく言った。


「二十九回」


 芽依だけが聞こえるくらいの声だった。


 芽依の手が止まった。


「……二十九?」


「うん」


「十四日と半分?」


「うん」


 芽依は望来の方を見た。


 望来はパンを食べながら、赤ちゃん村人に小さく笑っている。


 何もわかっていない顔ではない。


 でも、二十九回の重さまでは、たぶんわかっていない。


 芽依は唇をきゅっと結んだ。


「今日も、ちゃんと飲めた」


「うん」


「それは、よかことやろ」


「うん」


 二人はそれ以上、数字のことを言わなかった。


 言っても薬は増えない。


 でも、言わないからといって、減っていないことにもならない。


     *


 外へ出る前に、創磨は窓の上を見た。


 夜、かさ、と鳴った方。


 床板の上。


 屋根の近く。


 窓の少し上。


 そこには、何もいない。


 赤い目もない。


 脚もない。


 でも、創磨には、そこだけが暗く見えた。


「まず、からん見る」


 創磨が言うと、芽依はすぐに石を握り直した。


「横と裏?」


「うん」


「上は?」


「そのあと」


「上、行くと?」


 芽依の声が少し低くなった。


 創磨はすぐには答えなかった。


 行きたくない。


 屋根の上なんて、見たくない。


 そこに、夜の何かの跡があったら怖い。


 何もなかったら、それはそれで怖い。じゃあ、あの音は何だったのか、わからないままになる。


「見る」


 創磨は言った。


「朝やけん」


「朝でも怖かよ」


「うん」


「でも、見ると?」


「見らんと、夜がもっと怖か」


 芽依は黙った。


 それから、少しだけ不機嫌そうに言った。


「じゃあ、めいも行く」


「だめ」


「なんで」


「屋根やけん」


「そうまも屋根やろ」


「おれが先に見る」


「ずる」


「ずるじゃなか」


「めいも怖かけど、見らん方がもっと怖かもん」


 その言葉は、創磨の中にもあった。


 見たくない。


 でも、見ないままはもっと怖い。


 芽依も同じだった。


「……下で見て」


「下?」


「どこが危なかか、下にしるし置いて」


 芽依は少しだけ顔を上げた。


「しるし?」


「うん。昨日みたいに。石とか、葉っぱとか」


「めいの仕事?」


「うん」


「上はそうま。下はめい?」


「うん」


 芽依はまだ納得しきっていない顔だった。


 でも、「仕事」と言われたことで、少し表情が変わった。


「じゃあ、めい、下のしるし」


「お願い」


「お願いって言ったけん、する」


 芽依はそう言って、ポケットを探った。


 小さな石が二つ。


 白い花のしおれかけたもの。


 木片。


 いつ拾ったのかわからない葉っぱ。


 創磨はそれを見て、少しだけ息を吐いた。


 家なら怒られる。


 でも、ここでは命につながる。


「みくは、つよし号」


 芽依が振り返って言った。


「みくも見る」


「つよし号から」


「上、見る」


「上はだめ」


「なんで」


「落ちるけん」


「みく、落ちん」


「落ちる」


「落ちんもん」


「落ちるって言いよるやろ」


 芽依の声が少し強くなった。


 望来は口を曲げた。


 けれど、赤ちゃん村人が入口の方へ動こうとした瞬間、望来はその服をつかんだ。


「赤ちゃん、だめ。上、くもしゃん」


 創磨と芽依は、同時に望来を見た。


 望来は真面目な顔だった。


 自分は見たがる。


 でも、赤ちゃん村人は止める。


 そういうところが、望来だった。


「みくも、だめ」


 芽依が言う。


「……みくも?」


「みくも」


「じゃあ、みく、赤ちゃん見る」


「うん。それが仕事」


「みくの仕事?」


「そう」


 望来は少し考えた。


 そして赤ちゃん村人の袖をぎゅっと握った。


「みく、赤ちゃん係」


「うん。赤ちゃん係」


 創磨はうなずいた。


「赤ちゃんがからん触らんように見とって」


「うん」


「つよし号から降りんで」


「うん」


「ほんとに?」


「ほんと」


 返事はいい。


 でも、創磨はもう、返事だけでは安心しなかった。


 つよし号を家の入口の内側へ置く。


 床下の扉にも近い。


 水にも近い。


 薬袋にも近い。


 赤ちゃん村人と望来をそこに座らせる。


 それから、創磨は盾を持った。


 でも、すぐに困った。


 屋根を見るなら、両手がいる。


 はしごを作るなら、持ち上げる手もいる。


 盾を抱えたままでは動きにくい。


 でも、手ぶらで外に出るのは怖い。


「盾、置くと?」


 芽依が聞いた。


「……近くに置く」


「持たんでよかと?」


「はしご作るなら、持てん」


「でも、何か来たら」


「すぐ取れるとこ」


 創磨は盾を家の入口の横に立てかけた。


 手を離した瞬間、体の前が急に薄くなった気がした。


 盾一枚で全部守れるわけではない。


 それでも、持っているだけで少し違っていたのだとわかった。


     *


 家の横のからんは、やっぱり動いていた。


 糸は切れていない。


 けれど、昨日より少したるんでいる。


 白い石は地面に落ちていなかったが、結び目がずれて、木片に斜めに当たったまま止まっていた。


「鳴ったあとやね」


 芽依が言った。


「うん」


 創磨はしゃがみこんだ。


 土の上に、はっきりした足跡はない。


 でも、壁の根元に草が押されたような跡がある。


 そして、壁の少し上。


 目の高さより上に、細い白いものが引っかかっていた。


「糸」


 創磨が言うと、芽依も顔を上げた。


「上にもある」


「うん」


「やっぱり上?」


「たぶん」


「またたぶん」


「でも、夜の音と合う」


 芽依は何も言わなかった。


 二人は裏へ回った。


 裏のからんも、灰色の石が少し落ちかけていた。糸は伸び、木片は壁から半分抜けている。


 昨日、創磨が指で揺らした時よりも、大きく動いたように見えた。


「こっちも鳴った」


 芽依が小さく言った。


「うん」


「横から来て、裏にも来て、上?」


「そうかもしれん」


 創磨は壁を見上げた。


 朝の光があるのに、家の裏は暗い。


 たいまつを置いたのに、屋根の下には届いていない。


 壁の角から屋根の端へ、白い糸のかけらが伸びている。


 それは細くて、頼りなくて、でもはっきりと「上へ行った」と言っているみたいだった。


「屋根、見らんば」


 創磨は言った。


 言った瞬間、自分の腹の奥が重くなった。


 見らんば。


 でも、どうやって。


 壁をそのまま登るのは無理だ。


 足をかける場所があるようで、ない。


 ゲームならジャンプして登れるかもしれない。


 でも、創磨の体は八歳の体だった。


 手をかければ腕が痛む。


 足を滑らせれば落ちる。


 落ちたら、ただ痛いでは済まないかもしれない。


「はしご」


 創磨はつぶやいた。


「はしご作ると?」


「うん。棒で」


「棒ある?」


「木はある。作れると思う」


「思う?」


「作ったことは、ある。ゲームでは」


 芽依は少し不安そうにした。


「ここでは?」


「まだ」


「じゃあ、ゆっくり作ろう」


 その言い方が、また少し母に似ていた。


 創磨はうなずいた。


     *


 作業台の前に座ると、創磨は少しだけ落ち着いた。


 怖くても、作業台の前ではやることが見える。


 木材を棒にする。


 棒を並べる。


 左右に三本ずつ。


 真ん中に一本。


 はしごの形。


 動画で何度も見た配置。


 けれど、実際の手は少し震えていた。


 材料を置く位置を間違えそうになる。


「そうま、手、震えとる」


 芽依が言った。


「わかっとる」


「怖か?」


「怖か」


「めいも怖か」


「うん」


「でも、作らんばやろ」


「うん」


 創磨は棒を置き直した。


 作業台の上で、形がまとまる。


 木のはしご。


 細い。


 頼りない。


 でも、ちゃんとはしごだった。


 ゲームの中のアイテムみたいに軽くはない。持ち上げると、思ったより長くて、壁にぶつかりそうになった。


「長っ」


 芽依が目を丸くした。


「屋根までいるけん」


「これ、みく触ったら倒れるやつやん」


「触らせん」


 望来はつよし号の中からすぐに言った。


「みく、触らん」


「ほんとに?」


「ほんと」


「赤ちゃんも?」


「赤ちゃんも触らん」


 赤ちゃん村人ははしごをじっと見ていた。


 何に使うのか、わかっているのかはわからない。


 でも、望来に袖をつかまれて、おとなしく座っている。


 創磨と芽依は、はしごを家の横まで運んだ。


 長い。


 重い。


 二人で持っても、壁にぶつけそうになる。


「そっち上げて」


「上げとる」


「もっと」


「無理、重か」


「ゆっくり」


「そうまも持ってよ」


「持っとる」


「持っとらんみたい」


「持っとるって」


 言い合いながら、二人ははしごを壁へ立てかけた。


 ご、と音がした。


 はしごの上が屋根の端に当たる。


 下が少し滑りそうになって、芽依があわてて押さえた。


「危なっ」


「動いた?」


「動いた!」


「もっと壁に」


「めい、押さえとく」


「でも、手挟まんで」


「わかっとる」


 創磨ははしごを見上げた。


 高い。


 家の屋根は、下から見ればそこまで高くないように思っていた。


 でも、はしごの下に立つと違った。


 一段目。


 二段目。


 三段目。


 屋根の端まで続く木の棒。


 そこを自分の手と足で登らなければならない。


 落ちたら、地面は硬い。


 下には芽依がいる。


 少し離れた家の入口には、望来と赤ちゃん村人がいる。


 創磨は喉を鳴らした。


「そうま」


 芽依が下から見た。


「無理なら、やめる?」


「……見る」


「でも、落ちたらだめ」


「わかっとる」


「ほんとに?」


「ほんと」


 創磨は一段目に足をかけた。


 木が少しきしむ。


 手でつかむ。


 左腕に痛みが来る。


 盾を持っていた時とは違う痛みだった。体を引き上げるための痛み。肘の奥と肩が、まだ完全に戻っていないことを知らせてくる。


 二段目。


 三段目。


 下を見ないようにした。


 でも、見ないようにすると余計に下が気になった。


「そうま、ゆっくり」


 芽依の声がした。


「うん」


「足、ちゃんと」


「うん」


「手、すべらんで」


「わかっとる」


「汗、ふいて」


「今ふけん」


「じゃあ、気をつけて」


「言われんでもしとる」


 少し言い返したことで、逆に息がしやすくなった。


 創磨はもう一段上がった。


 屋根の端が近くなる。


 その時、はしごがほんの少し揺れた。


「っ」


 創磨の足が止まった。


 頭の中で、短い声が鳴った。


 ――そう!


 父の声だった。


 危ない時の、短い声。


 創磨は反射的に手に力を入れた。


 前へ出すぎない。


 急がない。


 体を壁に近づける。


 父が横にいるわけではない。


 でも、声だけは体の中に残っていた。


「そうま?」


 芽依が下から呼ぶ。


「大丈夫」


「ほんとに?」


「今、止まっただけ」


「落ちんでよ」


「落ちん」


 創磨は屋根の端に手をかけた。


 木の角が手のひらに食い込む。


 体を引き上げる。


 重い。


 自分の体が、こんなに重いと思わなかった。


 足をもう一段上げ、膝を屋根の端に乗せる。


 それから、ずる、と体を屋根の上へ押し上げた。


 屋根の上に腹ばいになった瞬間、創磨はしばらく動けなかった。


 息が上がっている。


 手のひらが痛い。


 左腕がじんじんする。


 でも、上に来た。


「そうま!」


 下から芽依の声。


「見えた?」


「まだ」


 創磨はゆっくり顔を上げた。


     *


 屋根の上は、思っていたより広くなかった。


 四角い木の板が並んでいる。


 朝の光が当たる場所は明るい。


 でも、屋根の端や壁との境目は、たいまつの光が届いていないせいか、少し暗い。


 そして、そこにあった。


 白い糸。


 細く、切れたようなもの。


 屋根の端に、ひっかかっている。


 もう一本。


 窓の上の角にも、白っぽいかけら。


 さらに、たいまつのない屋根の裏側へ向かって、土埃のような薄い跡が続いていた。


 足跡とは違う。


 でも、何かがそこを通ったように、屋根の上の汚れが少しだけ擦れている。


「……あった」


 創磨の声は、自分でも驚くほど小さかった。


「何が?」


 芽依が下から聞く。


「糸」


「上にも?」


「うん」


「いっぱい?」


「いっぱいじゃなか。でも、ある」


 創磨は四つんばいのまま、屋根の上を進んだ。


 立たない。


 立ったら怖い。


 屋根の上で立ち上がるなんて、無理だった。


 手と膝で進む。


 木の板が少しざらざらしている。


 朝露のように湿っているところもあった。


 そこに手をつくたび、滑りそうで怖い。


「そうま、立っとる?」


「立っとらん」


「じゃあ何しよると」


「はってる」


「赤ちゃんみたい」


「うるさか」


 芽依が少しだけ笑った気配がした。


 でも、すぐに真面目な声に戻る。


「どこ?」


「家の横の上。あと、窓の上」


「しるし置く」


 芽依が言った。


 下で小石を置く音がした。


「ここ、横の上」


「うん」


「次は?」


「窓の上」


「どの窓?」


「家の裏に近い方」


「わかった」


 芽依は下で動き回っている。


 創磨が上から見つける。


 芽依が下に印を置く。


 昨日までなら、創磨一人で見て、怖くなって、終わりだったかもしれない。


 でも今は違った。


 上と下で、家の形を覚えている。


 クモが通ったかもしれない道を、二人で見つけている。


「芽依」


「なに」


「そこ、白い石で」


「なんで」


「大事な場所やけん」


「じゃあ、めいの白い石」


「うん」


「返してよ」


「置いたら返せんやろ」


「じゃあ、めいの場所」


「うん。芽依の場所」


 芽依は満足そうに「よし」と言った。


 創磨は屋根の端へ近づきすぎないようにしながら、たいまつの位置を見た。


 今、屋根の上には明かりがほとんどない。


 家の中のたいまつ。


 入口のたいまつ。


 横と裏のたいまつ。


 それらはある。


 でも、屋根の上は暗い。


 夜になれば、ここが一番暗くなる。


 だから、来たのかもしれない。


 クモが。


 上から。


 創磨は持ってきたたいまつを一本取り出した。


 屋根の真ん中より少し端。


 でも、落ちにくい場所。


 そこに立てる。


 火が小さく揺れた。


 朝の光の中では弱い火に見える。


 でも、夜になれば違う。


「たいまつ置いた」


 創磨が言った。


「一本?」


「一本」


「足りる?」


「足りんと思う」


「じゃあ、もっと」


「たいまつも減る」


「暗いよりよか」


 昨日も聞いた言葉だった。


 芽依は何度もそう言う。


 暗いよりいい。


 何もないよりいい。


 完全じゃなくてもいい。


 小さくても、置く。


 創磨はもう一本のたいまつを持っていた。


 少し迷う。


 たいまつは大事だ。


 でも、夜の屋根はもっと怖い。


 創磨は屋根の反対側へ、四つんばいで進んだ。


 そこから見える村は、少し違っていた。


 自分たちの家。


 隣の家。


 畑。


 井戸。


 村人が歩く道。


 鉄ゴーレムが回る村の端。


 それらの屋根の上には、ほとんどたいまつがない。


 家の中や入口は明るい。


 でも、屋根の上は暗いままの場所が多い。


 夜になれば、そこも黒く沈む。


 もしクモが屋根を渡れるなら。


 自分たちの家だけではない。


 村の家も、上から来られる。


 赤ちゃん村人の家も。


 望来が友達だと言う、この小さな村人の場所も。


 創磨の胸が重くなった。


「そうま?」


 芽依が下から呼んだ。


「何見よると?」


「村」


「村?」


「屋根、どこも暗か」


 芽依は少し黙った。


「じゃあ、くもしゃん、どこでも来ると?」


「わからん」


「またわからん」


「でも、来れるかもしれん」


 下の方で、望来の声がした。


「くもしゃん、だめよ」


 創磨が見ると、望来はつよし号から身を乗り出しかけていた。


 赤ちゃん村人も、上を見ようとしている。


 芽依がすぐに振り返る。


「みく、乗り出さん!」


「見よるだけ」


「出とる!」


「出とらん」


「落ちる!」


 望来はむっとした顔をした。


 でも、赤ちゃん村人の服を引っ張って、自分も座り直した。


「赤ちゃん、だめ。上、くもしゃん」


 赤ちゃん村人は、望来に引かれておとなしくなった。


 創磨は屋根の上から、その様子を見ていた。


 望来は、守られるだけではない。


 赤ちゃん村人を止める。


 でも、その望来自身も、つよし号から落ちそうになる。


 守ろうとする小さな子を、さらに守らなければならない。


 創磨は、たいまつをもう一本、村の屋根が見える側に立てた。


 火が揺れる。


 小さな明かりだった。


 でも、屋根の上に初めて置いた明かりだった。


     *


 下りる方が怖かった。


 登る時は、上だけを見ていればよかった。


 でも下りる時は、どうしても地面が見える。


 はしごの下で、芽依が両手ではしごを押さえている。


 望来と赤ちゃん村人はつよし号の中。


 盾は入口の横。


 たいまつは屋根の上。


 全部見える。


 見えるから、怖い。


「そうま、足から」


 芽依が言った。


「わかっとる」


「後ろ向き」


「わかっとる」


「ゆっくり」


「わかっとるって」


「怒らんでよ。落ちたらいややもん」


 その声で、創磨は黙った。


 芽依はうるさく言っているわけではなかった。


 怖いのだ。


 創磨が落ちるのが。


「……うん」


 創磨は小さく答えた。


「ゆっくり下りる」


 一段。


 また一段。


 手が痛い。


 左腕が震える。


 足の裏が棒を探す。


 途中で、またはしごが少し揺れた。


「そう!」


 頭の中で父の声が鳴る。


 創磨は息を止め、体を壁に近づけた。


 下から芽依が、はしごをぎゅっと押さえる。


「動いた?」


「ちょっと」


「大丈夫?」


「うん」


「あと少し」


 最後の一段を下りた瞬間、創磨は地面にしゃがみこんだ。


 足に力が入らなかった。


 腕も痛い。


 膝も少し笑っている。


 高いところから下りただけなのに、全身が疲れていた。


「そうま」


 芽依が顔をのぞきこんだ。


「大丈夫?」


「大丈夫」


「大丈夫じゃなか顔」


「ちょっと休む」


「うん。休まんば」


 望来がつよし号から言った。


「そうま、屋根できた?」


「屋根できたっていうか、見た」


「くもしゃん、いた?」


「おらんかった」


「よかった」


 望来はほっとしたように言った。


 でも、創磨はすぐにはうなずけなかった。


 いなかった。


 今はいなかった。


 でも、跡はあった。


 糸もあった。


 暗い場所もあった。


「でも、来たかもしれん」


 創磨が言うと、望来は少しだけ顔を曇らせた。


「あの子、こわい?」


 望来は赤ちゃん村人を見た。


 赤ちゃん村人は何も言わない。


 でも、望来の袖を小さく握っている。


「怖いかもしれん」


 創磨は答えた。


「じゃあ、守る」


「うん。でも、みくも守る」


「みくも?」


「うん。みくも」


 望来は少し考えた。


 それから、小さくうなずいた。


「じゃあ、みく、つよし号」


「うん。夜はつよし号。からん鳴ったら床下」


「赤ちゃんも」


「赤ちゃんも」


「くもしゃん、上?」


「上かもしれん」


「じゃあ、上、だめ」


「うん。上はだめ」


 芽依は、家の下に置いた白い石を見ていた。


 横の上。


 窓の上。


 裏の上。


 そこに、石や葉っぱや木片の印がある。


 ばらばらだけど、地図みたいだった。


「そうま」


「なに」


「ここ、上のくものみち」


 芽依は白い石を指さした。


「こっちは、窓の上」


 次に、葉っぱ。


「こっちは、裏」


 木片。


「夜、ここ見ればよか」


「うん」


「めい、覚えた」


「おれも」


「みくは?」


 望来がすぐに聞いた。


「みくも覚える」


「みくは、つよし号と床下」


 芽依が言った。


「また?」


「また」


「みく、見る係」


「うん。赤ちゃん係」


 望来は少しだけ満足した顔になった。


「みく、赤ちゃん係」


 創磨は地面に座ったまま、屋根を見上げた。


 たいまつが二本。


 朝の光の中では、小さな火にしか見えない。


 でも、夜になれば、あそこが明るくなる。


 それだけで、次の夜は少し違うかもしれない。


 少しだけ。


 完全じゃない。


 まだ怖い。


 クモが来るかもしれない。


 糸も足りない。


 弓もまだ遠い。


 はしごも不安定。


 薬は二十九回しかない。


 でも、今日は屋根を見た。


 上にも明かりを置いた。


 芽依が下にしるしを置いた。


 望来は赤ちゃん村人を止めた。


 昨日より、少しだけ家のことがわかった。


 それは、何もしていないよりはずっといい。


 創磨は息を吐いた。


 その視線の先に、村の屋根が並んでいる。


 自分たちの家だけではない。


 あっちの屋根も暗い。


 井戸の近くの家も。


 畑の向こうの家も。


 村人が入っていく小さな家も。


 夜になれば、全部の屋根に暗さが乗る。


 クモが屋根を通るなら、自分たちの家だけ守っても足りない。


「……ここだけじゃ、足りん」


 創磨は小さく言った。


 芽依が隣で顔を上げた。


「何が?」


「屋根」


「うちの?」


「村の」


 芽依も村の方を見た。


 望来もつよし号の中で、赤ちゃん村人の手を握ったまま、同じ方を見る。


 朝の村は、静かだった。


 畑には村人がいて、井戸の近くにも人影がある。


 鉄ゴーレムも歩いている。


 いつもの朝に見える。


 でも、創磨たちはもう知っていた。


 夜になれば、見え方が変わる。


 下だけではない。


 横だけでもない。


 上から来るものがいる。


 創磨は、屋根の上で揺れる小さなたいまつを見た。


 その火はまだ弱い。


 でも、消えてはいなかった。


 次の夜までに、やることがまた増えた。


 怖さも増えた。


 けれど、見えないままよりはいい。


 見えたなら、手を動かせる。


 創磨は痛む左腕を押さえながら、もう一度、村の屋根を見た。

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