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妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


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鳴ったあと

第二十二話「鳴ったあと」


 朝の光が、窓の下を白くしていた。


 それに気づいた瞬間、創磨は自分がほとんど眠れていなかったことを思い出した。


 目は閉じた。


 布にも入った。


 望来の寝息も、芽依の小さな寝返りの音も聞いていた。


 でも、眠った気がしない。


 耳だけが、ずっと家の横を向いていた。


 からん。


 夜の中で鳴った、あの小さな音。


 木片と白い石がぶつかっただけの、頼りない音。


 でも、確かに聞こえた。


 風かもしれない。


 草かもしれない。


 クモかもしれない。


 何かが、本当に糸に触れたのかもしれない。


 創磨はベッドの上で、ゆっくり体を起こした。


 左腕は、まだ少し重い。


 盾を持った日から続く痛みは薄くなってきているけれど、完全には消えていない。肩も、背中も、疲れが抜けきっていなかった。


 それでも、朝は来た。


 朝が来たなら、やることがある。


「そうま……」


 隣のベッドで、芽依が目をこすりながら起き上がった。


 髪が少しはねている。


 顔は眠そうなのに、目だけはすぐに家の横を見ようとしていた。


「鳴ったよね」


「うん」


 創磨は小さくうなずいた。


「夢じゃなかったよね」


「うん」


「……見に行くと?」


「行く」


 創磨はそう答えてから、すぐに薬袋を見た。


 見に行く。


 でも、その前に。


 朝の薬。


 それを飛ばすわけにはいかない。


 望来は真ん中のベッドで、まだ布にくるまっていた。赤ちゃん村人はそのすぐ横で、望来の服の端を小さな手で握っている。


 望来は、朝の光がまぶしいのか、顔を半分だけ布に隠したまま言った。


「……おくすり?」


 寝ぼけた声だった。


 創磨の胸が少しだけ締めつけられる。


 いつもの朝の言葉。


 でも、この世界では、そのいつもの言葉が毎回重かった。


「うん。朝の薬」


 創磨は薬袋を手に取った。


 昨日の夜、飲ませたあとで残り三十二回になった。


 今から一つ飲ませる。


 そうしたら、残り三十一回。


 十五日と半分。


 数字は、勝手に頭の中で並んだ。


 三十一回。


 まだある。


 そう思いたい。


 でも、最初は四十二回あった。


 三週間あった。


 それが、今はもう三十一回。


 減っている。


 ちゃんと、確実に減っている。


「そうま」


 芽依が横に来ていた。


 器に水を入れている。


 何も言わない。


 でも、芽依もわかっている顔だった。


「みく、口」


「にがい?」


「にがい」


「やだ」


「水あるけん」


「パンは?」


「薬のあと」


「ちょっと?」


「ちょっと」


 いつものやり取りをして、望来はようやく口を開けた。


 創磨は薬を入れた。


 芽依が器を支える。


 水を飲ませる。


 こくん。


 望来の小さな喉が動いた。


 創磨は、その動きを最後まで見た。


「飲めた」


「飲めた」


 芽依も言った。


 望来は苦そうに顔をしかめてから、すぐに手を出した。


「パン」


「早か」


 芽依が言いながらも、小さなかけらを渡した。


 望来はそれを受け取って、半分を自分の口に入れ、残りを赤ちゃん村人に見せた。


「あの子も」


「ちょっとだけね」


「ちょっと」


 望来は本当に小さくちぎって渡した。


 赤ちゃん村人はそれを受け取った。


 創磨は薬袋をしまいながら、胸の中だけで数えた。


 残り三十一回。


 十五日と半分。


 声には出さなかった。


 今は、外を見る方が先だった。


     *


 扉を開ける前に、創磨は盾を持った。


 今日は戦いに行くわけではない。


 敵を倒すわけでもない。


 ただ、家の横を見るだけ。


 それでも、手ぶらでは出られなかった。


「みくは、つよし号」


 芽依が先に言った。


「みくも見る」


「つよし号から見る」


「ちょっと行く」


「だめ」


「なんで」


「からんのとこやけん」


 その言葉で、望来は少しだけ真面目な顔になった。


 昨夜、自分で言っていた。


 からん、触ったらだめ。


 敵が来た時の音。


 創磨が怖くなる音。


 芽依も怖くなる音。


 望来は赤ちゃん村人の袖をつまんだ。


「赤ちゃんも、だめ」


「うん。赤ちゃんもだめ」


 芽依がうなずく。


 つよし号は、家の入口のすぐ近くに置いた。


 白い石の線より手前。


 家へすぐ戻れる場所。


 望来と赤ちゃん村人をそこに座らせて、芽依はもう一度言った。


「ここから出んとよ」


「出ん」


「ほんとに?」


「ほんと」


「赤ちゃんも」


「赤ちゃんも出ん」


 望来は赤ちゃん村人の手をぎゅっと握った。


 その様子を見てから、創磨は家の外へ出た。


 朝の村は、普通に見えた。


 畑の方では、村人がゆっくり歩いている。


 井戸の近くにも、別の村人がいる。


 鉄ゴーレムの重い足音も、遠くでしていた。


 何も起きていない朝。


 でも、創磨にはそう見えなかった。


 家の横。


 壁の影。


 昨日、糸を張った場所。


 そこだけが、朝の中でも暗く見えた。


「そうま」


 芽依が小さく言った。


「ゆっくりね」


「うん」


「顔出しすぎんで」


「うん」


「近づきすぎんで」


「わかっとる」


「ほんとに?」


「ほんと」


 芽依は信じきっていない顔だった。


 それでも、今日は創磨の横にぴったりついてきた。


 手には、小さな白い石を握っている。


 またポケットから出したのだろう。


 創磨はそれを見て、何も言わなかった。


 今は、それが芽依の盾みたいなものなのだと思った。


 家の角を曲がる。


 草のブロックが朝露みたいに光っている。


 壁の下。


 木片。


 石。


 糸。


 昨日、自分たちが作ったものが見えた。


 その瞬間、創磨は息を止めた。


 糸は切れていなかった。


 けれど、少したるんでいた。


 昨日よりも、だらりと下がっている。


 木の壁の隙間に差し込んだ小さな木片は、斜めになっていた。完全には抜けていない。でも、少し浮いている。


 地面に置いた大きめの石も、昨日より少しだけずれていた。


 そして。


「あ」


 芽依が先に声を出した。


 創磨も見た。


 地面に、白い小石が落ちていた。


 昨日、糸の真ん中にぶら下げた芽依の石。


 小さくて、白くて、たいしたものではない石。


 それが、土と草の上にぽつんと落ちていた。


「めいの石」


 芽依の声が、小さくなった。


「落ちとる」


「うん」


 創磨はしゃがみこんだ。


 触る前に、周りを見る。


 壁。


 屋根。


 草。


 家の裏へ続く暗い道。


 赤い目はない。


 かさ、という音もしない。


 でも、昨日の夜、何かがここで糸に触れたのかもしれない。


 その証拠みたいに、白い石が落ちている。


「切れては、なか」


 創磨は糸を見ながら言った。


「でも、たるんどる」


 芽依が横からのぞきこむ。


「木片、斜め」


「うん」


「石も動いとる」


「うん」


「じゃあ、鳴ったと?」


 創磨は、すぐには答えなかった。


 風でも鳴るかもしれない。


 自分たちでそう言っていた。


 小さい警報だから、間違えるかもしれない。


 木片が勝手に落ちたのかもしれない。


 白い石の結び方が弱かっただけかもしれない。


 でも。


 夜、確かに聞こえた。


 からん。


 そして今、白い石は落ちている。


「たぶん、鳴った」


 創磨は言った。


「ほんとに?」


「たぶん」


「またたぶん」


「でも、昨日のたぶんとは違う」


 芽依は創磨を見た。


 創磨は落ちた白い石を見たまま続けた。


「音、聞いた。朝になったら、石が落ちとった。糸もたるんどる。木片もずれとる」


「うん」


「だから、何かはあった」


 芽依は黙った。


 怖がっている顔だった。


 でも、少しだけ別の顔でもあった。


 自分の石が、役に立った。


 それに気づき始めている顔。


「めいの石、鳴ったと?」


「うん」


「めいの音、したと?」


「した」


 創磨が言うと、芽依は少しだけ口を結んだ。


 得意そうにしたいのに、怖さが勝っている顔だった。


「……よかった」


 芽依は小さく言った。


「でも、怖か」


「うん」


「鳴ったってことは、来たかもしれんってことやろ」


「うん」


「来たけど、入らんかった?」


「たぶん」


「糸、すごかね」


「糸だけじゃなか」


 創磨は落ちた白い石を見た。


「芽依の石も。木片も。昨日、場所決めたことも。みくに触らんように言ったことも」


 芽依は少しだけ目を丸くした。


「全部?」


「うん。全部で、からんって鳴った」


 芽依は白い石を見た。


 足元には、ほかにも小さな石や葉っぱ、木片が置かれている。


 芽依が置いた目印。


 ここから先は危ない。


 ここは見張る場所。


 ここは戻る場所。


 子どもが置いただけの、ばらばらの印。


 でも、そのばらばらの印が、朝になって意味を持っていた。


     *


 つよし号の中から、望来が身を乗り出した。


「そうまー」


 芽依がすぐに振り返る。


「出たらだめ!」


「出とらん」


「乗り出しとる」


「見よるだけ」


「それもだめ」


 望来は不満そうにしながらも、赤ちゃん村人の袖をつかんだ。


「赤ちゃん、だめ」


 赤ちゃん村人は、家の横の方へ手を伸ばしかけていた。


 望来はその手をぎゅっと引いた。


「だめ。からん、さわったらだめ」


 創磨と芽依は、同時に望来を見た。


 望来は真面目な顔だった。


 昨日、自分が言われたことを、今度は赤ちゃん村人に言っている。


 守られるだけではない。


 ちゃんと、誰かを止めようとしている。


「みく、えらい」


 芽依が言った。


 望来はぱっと顔を明るくした。


「みく、えらい?」


「うん。赤ちゃん止めたけん」


「赤ちゃん、からんしたらだめ」


「うん。だめ」


 望来は満足そうに赤ちゃん村人の服をつまんだ。


「みくが守った」


「うん」


 創磨も言った。


「みくが守った」


 望来はうれしそうに笑った。


 けれど、その笑顔を見ながら、創磨は薬袋の軽さを思い出していた。


 望来は守られるだけの子ではない。


 でも、守らなければいけない子でもある。


 薬が必要な子。


 長く歩けない子。


 夜に起こして、床下へ連れていかなければならない子。


 その望来が、赤ちゃん村人を止めた。


 その小ささが、胸に刺さった。


「そうま」


 芽依が小さく呼んだ。


「これ、直すと?」


「うん」


「また同じにする?」


「少し変える」


「変える?」


 創磨は糸を見た。


 切れていない。


 使えるかもしれない。


 でも、昨日と同じではまた外れるかもしれない。


 石が落ちたのは、鳴った証拠でもある。


 でも、落ちたままでは次に鳴らない。


「木片を、もう少し深く差す」


「うん」


「石は、少し軽いのに変えるか、結び直す」


「めいの石?」


「使う」


「でも落ちたやつやろ」


「落ちたから、また使う」


 芽依は少しだけ考えてから、うなずいた。


「よかよ」


「返せんかもしれんよ」


「もう返ってこんやろ」


「うん」


「じゃあ、めいの石、仕事したってことやん」


 芽依はそう言って、少しだけ得意そうにした。


 今度は、怖さの中に少しだけ胸を張る感じが混じっていた。


「仕事した」


 創磨が言うと、芽依はうなずいた。


「めいの石、えらい」


 望来がつよし号から言った。


「石、えらい?」


「えらい」


 芽依が答える。


「からんしたけん」


「からん、えらい」


 望来は赤ちゃん村人に向かって、真剣に説明した。


「からん、さわったらだめ。敵きたら、からんする」


 赤ちゃん村人は、やっぱり何も答えない。


 でも、望来の言葉を聞いているように、じっと家の横を見ていた。


     *


 創磨は警報を直す前に、周りをもう一度見た。


 白い石の線。


 木片。


 押しつぶされた草。


 落ちた小石。


 たるんだ糸。


 斜めになった木片。


 昨日の自分たちは、これで何かを倒そうとしたわけではない。


 ただ、知りたかった。


 来たのかどうか。


 どこから来るのか。


 何かが近づいた時、少しでも早く起きられるのか。


 そのための音だった。


 そして、鳴った。


 それは勝ちではない。


 敵を倒したわけでもない。


 安全になったわけでもない。


 むしろ、何かが本当に近くまで来たかもしれないとわかってしまった。


 でも、知らないままよりはいい。


 創磨はそう思った。


 怖い。


 けれど、知らない方がもっと怖い。


「ここ、くものみちって決めたけど」


 創磨は言った。


「たぶん、本当に通っとる」


 芽依が息をのむ。


「じゃあ、ここ、もっと危なかやん」


「うん」


「みく、絶対だめやね」


「うん」


「赤ちゃんも」


「うん」


「村人も通るかもしれんよ」


「それも困る」


「じゃあ、しるし増やす?」


 芽依がすぐに言った。


 創磨はうなずいた。


「白い石の線、もう少しはっきりする」


「めい、石ある」


「また?」


「ある」


 芽依はポケットに手を入れた。


 小さな白い石。


 少し灰色の石。


 葉っぱ。


 木片。


 いろいろ出てくる。


 創磨は、もう驚かなかった。


 芽依のポケットは、今ではチェストの小さい版みたいだった。


「ここから先、危ない」


 芽依は石を並べた。


「ここ、くものみち」


 また一つ置く。


「ここ、みく来たらだめ」


 さらに一つ。


「ここ、赤ちゃんもだめ」


 望来がつよし号から声を出す。


「赤ちゃん、だめ」


「そう。赤ちゃんも」


 芽依は石を並べながら、少しずつ声に力を戻していた。


 昨日はただの拾い癖だったものが、今日は境目を作っている。


 危ない場所と、戻れる場所の境目。


 創磨はその線を見て、少しだけ息を吐いた。


 ちゃんとした防壁ではない。


 モンスターを止める力はない。


 でも、望来を止める力は少しある。


 芽依に思い出させる力もある。


 自分が焦って踏み出しそうになった時、止まる目印にもなる。


 そういう守り方もある。


     *


 警報の修理は、昨日より少しだけ早くできた。


 一度作っているから、手順はわかる。


 それでも、指先はやっぱり痛かった。


 糸は細い。


 強く結ぶと切れそうになる。


 弱く結ぶと外れる。


 木片はまっすぐ入らない。


 石も、ちょうどいい場所にぶら下がらない。


 創磨は何度もやり直した。


「そうま、手、痛かと?」


 芽依が聞いた。


「ちょっと」


「代わる?」


「もう少し」


「そうま、もう少しって言って長かよ」


「わかっとる」


「わかっとらん」


 芽依はそう言いながらも、木片を押さえてくれた。


「ここ?」


「もうちょい下」


「ここ?」


「うん。そこで止めて」


「早く結んで」


「動かさんでよ」


「動かしとらん」


「ちょっと動いた」


「そうまが遅かけん」


「糸が細かと」


「ひものせいにせん」


「ひものせいはあるやろ」


 言い合いながら、二人で結んだ。


 昨日よりも、少しだけ強く。


 昨日よりも、少しだけ鳴りやすく。


 でも、やっぱり中途半端だった。


 完成された罠には見えない。


 きれいな仕掛けでもない。


 ただ、木の隙間に差した木片と、たるんだ糸と、芽依の白い石。


 それだけだった。


「試す?」


 芽依が聞いた。


「する」


「めい?」


「うん。手で軽く」


「まためい」


「芽依の石やけん」


「それ関係ある?」


「たぶん」


「またたぶん」


 芽依はぶつぶつ言いながら、糸にそっと指を当てた。


 木片が揺れる。


 白い石が、かつん、と当たった。


 昨日より、少しだけはっきり聞こえた。


 二人は顔を見合わせた。


「鳴った」


「うん」


「昨日より大きか?」


「ちょっと」


「ちょっとか」


「でも、ちょっと大事」


 芽依は少しだけうなずいた。


「ちょっとずつやね」


「うん」


「全部ちょっと」


「うん」


 ちょっとだけ鳴る。


 ちょっとだけわかる。


 ちょっとだけ守れる。


 この世界では、そのちょっとを積み上げるしかなかった。


 創磨は、家の横から裏へ続く影を見た。


 そこは、朝になってもまだ暗い。


 何かがそこを通ったのかもしれない。


 今夜も通るかもしれない。


 糸は、また鳴るかもしれない。


 鳴らないかもしれない。


 でも、何もないよりはいい。


「今日は、もう一個ほしかね」


 芽依が言った。


「警報?」


「うん」


「糸が足りん」


「また」


「うん」


「じゃあ、糸探す?」


 創磨はすぐには答えなかった。


 糸を探すということは、クモの道に近づくということだ。


 屋根。


 家の裏。


 壁の影。


 赤い目。


 思い出すだけで、足が止まる。


 でも、警報が鳴った。


 鳴ったからこそ、次が必要だとわかった。


「探す」


 創磨は言った。


 芽依が少し顔をこわばらせる。


「今日?」


「昼の明るいうちに」


「クモ探すんじゃなかよ」


「糸を探す」


「同じ場所やん」


「同じかもしれん」


「いややね」


「うん」


 創磨も本当に嫌だった。


 でも、糸がいる。


 弓にも。


 警報にも。


 自分たちが寝ている間に、何かが来たことを知るためにも。


「でも、今日は遠くには行かん」


 創磨は言った。


「家の周りだけ。白い石の線より向こうは、少しずつ見る」


「少しずつ」


「うん。見て、印をつける。取れそうなら取る。危なかったら戻る」


「約束」


「約束」


 芽依は創磨の顔をじっと見た。


「ほんとに戻るとよ」


「戻る」


「そうま、見つけたら取りたくなるやろ」


「なる」


「なるって言った」


「でも、戻る」


 芽依は少しだけ不満そうだったが、うなずいた。


「めいが止めるけん」


「うん」


「無理したら怒るけん」


「うん」


 その時、望来がつよし号の中から言った。


「みくも、怒る」


「みくはつよし号」


 芽依がすぐに返す。


「みく、ここから怒る」


「それならよか」


「そうま、だめーって言う」


 望来は赤ちゃん村人の手を持ち上げながら言った。


「赤ちゃんも、だめー」


 赤ちゃん村人は何も言わない。


 でも、望来に手を上げられたまま、創磨の方を見ていた。


 創磨は少しだけ笑いそうになった。


 怖い朝なのに。


 白い石が落ちていて、何かが通ったかもしれない朝なのに。


 それでも、望来は望来だった。


 芽依は芽依だった。


 自分も、ちゃんと創磨でいなければならない。


     *


 昼前。


 創磨たちは家の周りをもう一度見て回った。


 望来と赤ちゃん村人はつよし号。


 家の入口の近く。


 白い花の目印のそば。


 芽依は何度も振り返って、望来が動いていないかを確認した。


「みく、そこね」


「そこ」


「白い石より外、だめ」


「だめ」


「赤ちゃんも」


「赤ちゃんも」


 望来は同じ言葉を繰り返しながら、赤ちゃん村人の袖をつかんでいる。


 創磨は家の裏へ回った。


 朝よりも光は強いはずなのに、家の裏はやっぱり暗い。


 木の壁の下。


 石の角。


 草のブロックの隙間。


 昨日までは何も見えなかった場所に、今日は少しだけ意味が見える。


 ここを通ったかもしれない。


 ここに足がかかったかもしれない。


 ここから壁を登ったかもしれない。


「そうま」


 芽依が小さく呼んだ。


「なに」


「ここ、葉っぱ変」


 芽依が指さしたのは、家の裏の端だった。


 葉っぱのブロックの下に、白い細いものが引っかかっている。


 糸かもしれない。


 草の繊維かもしれない。


 でも、朝の光に照らされて、ほんの少し白く光っていた。


「糸?」


「たぶん」


「取る?」


 創磨は周りを見た。


 音はない。


 赤い目もない。


 でも、家の裏は暗い。


 壁の上も見えにくい。


 昨日なら、すぐに手を伸ばしたかもしれない。


 でも、今は白い石の線が後ろにある。


 戻る場所がある。


 芽依が横にいる。


「芽依、見とって」


「うん」


「上と横」


「わかっとる」


「音したら、すぐ戻る」


「うん」


 創磨はしゃがんだ。


 手を伸ばす。


 糸に触れる。


 ぷつん。


 短い糸が取れた。


 ほんの少しだけ。


「取れた」


 芽依が息を吐いた。


「よかった」


「短か」


「でも、糸やろ」


「うん」


 短くても、糸は糸だ。


 警報には使えるかもしれない。


 弓にはまだ遠い。


 でも、警報なら。


 小さな音なら。


 創磨はその糸を手のひらに包んだ。


 その時だった。


 家の横で、かつん、と音がした。


 二人とも動きを止めた。


 昨日の夜の音ではない。


 さっき試した警報の音に似ていた。


 でも、今は昼だ。


 望来か。


 赤ちゃん村人か。


 風か。


 それとも。


「戻る!」


 芽依が先に言った。


 創磨は迷わなかった。


 糸を握ったまま、家の横へ走る。


 つよし号の中で、望来が赤ちゃん村人の手を押さえていた。


「赤ちゃん、だめ!」


 望来が言っている。


 赤ちゃん村人の手は、家の横へ伸びかけていた。


 つよし号は少しだけ動いていた。


 白い花の目印より、ほんの少し前。


 でも、白い石の線までは越えていない。


「みく!」


 芽依が駆け寄る。


「出たらだめって言ったやろ!」


「みく、出とらん!」


「つよし号、動いとる!」


「赤ちゃんが、ひも見るって!」


「言ってなか!」


「言ったもん!」


 望来は必死だった。


 赤ちゃん村人を止めようとして、本当に止めていた。


 でも、そのせいで、つよし号が少し前へ動いてしまったらしい。


 創磨は警報を見た。


 糸は切れていない。


 小石も落ちていない。


 ただ、木片が少し揺れていた。


 たぶん、つよし号の先が近くの木片に当たったか、赤ちゃん村人の手が空気を動かしたか。


 敵ではない。


 でも、鳴った。


「これも鳴るんやね」


 芽依が小さく言った。


「うん」


「まちがいでも鳴る」


「うん」


「みくでも、赤ちゃんでも鳴る」


「うん」


 創磨はうなずいた。


 警報は役に立つ。


 でも、間違える。


 敵が来た音なのか、望来が触りかけた音なのか、風なのか、わからない。


 それも含めて、警報だった。


「みく」


 創磨はつよし号の前にしゃがんだ。


「赤ちゃん止めたのは、えらい」


 望来の顔が少しだけ明るくなる。


「えらい?」


「うん。でも、つよし号は動かさん」


「みく、動かしてなか」


「赤ちゃん止めたら、動いた」


「赤ちゃんが悪い?」


「悪いじゃなか。危なかった」


 望来は少し考えた。


「危なかった?」


「うん。くものみちに近づいた」


 その言葉で、望来は赤ちゃん村人の手をもっと強く握った。


「だめ。くものみち、だめ」


「うん」


「みく、戻る」


「そうしよう」


 創磨はつよし号を家の入口の方へ少し戻した。


 白い花の目印の内側。


 望来の道。


 危ない白い石の線とは違う、戻っていい場所。


 芽依が白い花を見て言った。


「この花、もっと増やした方がよかね」


「みくの道?」


 望来が聞く。


「うん。みくの道」


「花の道?」


「そう。花の道」


 望来は少しうれしそうにした。


「赤ちゃんも、花の道」


「うん。赤ちゃんも」


 創磨は白い石の線と、白い花を見比べた。


 白い石は、危ない場所。


 白い花は、望来が通っていい場所。


 同じ白でも、意味が違う。


 芽依が拾った石。


 望来が置いた花。


 小さなものが、少しずつ世界に線を引いている。


     *


 昼を過ぎる頃、創磨は警報をもう一つ作ろうとはしなかった。


 糸は少し増えた。


 でも、まだ足りない。


 それに、今日わかったことがある。


 警報は鳴る。


 でも、間違っても鳴る。


 鳴ったあとに、どう動くかを決めていなければ、ただ怖くなるだけだ。


「鳴ったら、まず床下?」


 芽依が聞いた。


 家の中で、三人は座っていた。


 つよし号は入口近く。


 望来と赤ちゃん村人は、その中でパンのかけらを分けている。


「夜なら、床下」


 創磨は答えた。


「昼なら?」


「見えるなら、まず見る。でも外には出すぎん」


「鳴った場所、見ると?」


「窓から。あと、壁の端から。盾持って」


「みくは?」


「つよし号か床下」


「赤ちゃんは?」


「みくと一緒」


 望来がすぐに顔を上げた。


「みく、赤ちゃん守る」


「守るなら、まず離さんこと」


 芽依が言った。


「赤ちゃんが行こうとしたら、袖をつまむ」


「袖」


「でも、つよし号は動かさん」


「動かさん」


「白い石より外、だめ」


「だめ」


「白い花のとこは?」


「みくの道」


「そう」


 望来は、少しずつ覚えている。


 全部は無理かもしれない。


 怖くなったら忘れるかもしれない。


 でも、繰り返すしかない。


 薬と同じだ。


 朝と夜。


 毎回、飲ませる。


 飲めたか見る。


 喉が動いたか見る。


 危ない場所も、同じように繰り返す。


 ここはだめ。


 ここは戻る。


 ここはみくの道。


 ここはくものみち。


「そうま」


 芽依が言った。


「鳴ったあと、練習した方がよくなか?」


「練習?」


「からんって鳴ったら、みくを床下に入れる練習」


 創磨は少し驚いた。


 でも、すぐにうなずいた。


「いる」


「やろ」


「夜に初めてやったら、間に合わんかもしれん」


「うん」


「でも、みく嫌がるかも」


「嫌がるね」


 望来はもう、嫌そうな顔をしていた。


「みく、床下いや」


「練習」


「いや」


「敵来た時のため」


「敵、いや」


「だから練習」


「みく、つよし号がいい」


「つよし号も使う。でも、夜は床下」


 創磨は望来の前に座った。


「みく、昨日からん鳴ったやろ」


「鳴った」


「あれが鳴ったら、外に何かおるかもしれん」


「くもしゃん?」


「かもしれん」


「赤いの?」


「かもしれん」


 望来の顔が少し曇った。


 虫は怖がらない望来でも、赤ちゃん村人より大きいかもしれない赤い目のクモは、少し違うらしい。


「そうま、こわい?」


「怖い」


「めいも?」


「怖か」


 芽依が答えた。


「赤ちゃんも?」


 創磨は赤ちゃん村人を見た。


 赤ちゃん村人は、パンのかけらを握ったまま、望来を見ていた。


「怖いと思う」


 望来は少し考えた。


 それから、赤ちゃん村人の袖をぎゅっとつまんだ。


「じゃあ、練習する」


 芽依が小さく息を吐いた。


「えらい」


「みく、えらい?」


「えらい」


「パンある?」


「すぐパンにせん」


 芽依が言う。


 でも、望来は少しだけ得意そうだった。


     *


 練習は、思ったより大変だった。


 創磨が家の横で、警報を軽く鳴らす。


 かつん。


 その音を合図に、芽依が望来をつよし号から降ろし、床下の扉へ連れていく。


 望来は赤ちゃん村人の手を引く。


 創磨は盾を持つ。


 それだけ。


 言葉にすれば簡単だった。


 でも、実際には簡単ではなかった。


 一回目。


 望来がつよし号から降りる時に、赤ちゃん村人の袖を強く引きすぎて、赤ちゃん村人がつまずきかけた。


「ゆっくり!」


 芽依が言う。


「敵来たら、早くやろ!」


「早いけど、転ばんように!」


「むずかしか!」


 望来は何がむずかしいのかわからない顔で、赤ちゃん村人を引っぱった。


 二回目。


 床下の扉の前で、望来が先に入ろうとして、赤ちゃん村人が後ろで止まった。


「赤ちゃん、先?」


 望来が聞く。


「みくが先」


 創磨が言う。


「でも赤ちゃん」


「芽依が赤ちゃん入れる」


「みくがする」


「みくは先に下」


「いや」


 そこで止まった。


 練習なのに、止まった。


 敵が来ていたら、その間に近づかれていたかもしれない。


 三回目。


 芽依が役割を変えた。


「みくは先に下。赤ちゃんはめいが入れる。みくは下で手ぇ出す」


「下で?」


「そう。赤ちゃん来たら、こっちってする」


「みく、待つ?」


「うん。待つ係」


「待つ係、大事?」


「大事」


 望来はその言葉に弱い。


「みく、待つ係する」


 今度は少しうまくいった。


 望来が先に床下へ入る。


 芽依が赤ちゃん村人を支える。


 望来が下から手を出して、「こっち」と言う。


 赤ちゃん村人が降りる。


 創磨は盾を持って入口を見る。


 時間はかかった。


 でも、できた。


「今の、よかった」


 創磨が言うと、望来は床下から顔を出した。


「みく、できた?」


「できた」


「赤ちゃんも?」


「できた」


「めいも?」


「めいは最初からできとる」


 芽依が言う。


 望来は満足そうに笑った。


 でも、創磨は息を整えながら思った。


 練習でこれだけ時間がかかる。


 本当に夜、赤い目が近くにいたら。


 からんと鳴って、外で足音がしたら。


 自分は、この通りに動けるのか。


 芽依は、望来を怒らずに急がせられるのか。


 望来は、泣かずに床下へ入れるのか。


 赤ちゃん村人は、ついてこられるのか。


 わからない。


 でも、練習しなければもっとわからない。


「もう一回」


 創磨が言った。


 芽依が少しだけ目を丸くする。


「まだすると?」


「もう一回だけ」


「みく、パン」


 望来が言った。


「もう一回したら、ちょっと」


「ちょっと?」


「ちょっと」


 望来は考えた。


「じゃあ、する」


 芽依があきれたように笑った。


「パンで動くね」


「みく、パンすき」


「知っとる」


 四回目。


 少しだけ早くなった。


 五回目。


 望来が「待つ係」と言いながら、自分から床下へ入った。


 赤ちゃん村人も、少しだけ慣れたように見えた。


 芽依は額に汗をにじませていた。


 創磨も、盾を持つ腕が重くなっていた。


 でも、やった意味はあった。


 からん。


 音がする。


 動く。


 床下へ。


 盾。


 つよし号。


 赤ちゃん村人。


 白い石。


 白い花。


 それぞれが、少しだけつながった。


     *


 夕方が近づく前に、創磨は家の横の警報をもう一度確認した。


 糸はまだ張ってある。


 木片は昨日より深く差し込んだ。


 白い石は、落ちないように結び直した。


 でも、完璧ではない。


 風が強ければ鳴るかもしれない。


 望来や赤ちゃん村人が近づいても鳴るかもしれない。


 クモが屋根から来たら、鳴らないかもしれない。


 それでも、昨日よりは少しだけよくなった。


 鳴ったあとにどう動くかも、少しだけ練習した。


「そうま」


 芽依が横に来た。


「なに」


「今日、進んだ?」


 創磨は、少し考えた。


 敵を倒していない。


 新しい武器も作っていない。


 弓もまだない。


 村の壁も増えていない。


 薬も、朝に一つ減った。


 でも。


「進んだ」


 創磨は言った。


「ちょっとだけ」


「ちょっとばっか」


「うん」


「でも、ちょっと進んだ?」


「うん」


 芽依は白い石の線を見た。


 それから、家の入口近くに置いた白い花を見た。


「めいの石と、みくの花やね」


「うん」


「石は危ないとこ」


「花は戻るとこ」


「くものみちと、みくの道」


「うん」


 芽依は少しだけうなずいた。


「わかりやすか」


「うん」


 創磨もそう思った。


 子どもが考えた、小さな線。


 それでも、自分たちには必要な線だった。


 どこが危ないか。


 どこへ戻るか。


 何が鳴ったか。


 鳴ったあと、何をするか。


 知らない世界に、少しずつ自分たちの意味を置いていく。


 それが、生きる場所を作ることなのかもしれなかった。


 望来はつよし号の中で、赤ちゃん村人と並んで座っていた。


 床下練習のあとにもらったパンのかけらを、大事そうに食べている。


「みく、待つ係した」


 望来が言った。


「したね」


 芽依が答える。


「赤ちゃんも、した」


「した」


「からん、鳴ったら、床下」


「そう」


「白い石は、だめ」


「そう」


「白い花は?」


「みくの道」


「うん」


 望来は満足そうにうなずいた。


 赤ちゃん村人の袖をつまんで、もう一度言う。


「花の道、行くとよ」


 赤ちゃん村人は返事をしなかった。


 けれど、望来のそばでじっとしていた。


     *


 夜の準備を始める頃、創磨は薬袋をもう一度見た。


 夜の薬はまだ先だった。


 でも、朝飲ませた分だけ、袋は軽くなっている。


 残り三十一回。


 十五日と半分。


 今日はまだ、夜の薬はない。


 次に飲ませる時は、三十回になる。


 十五日分。


 その数字を思うと、胸の奥が重くなった。


 でも、今は声に出さなかった。


 今日は、朝にちゃんと飲めた。


 そして、警報の跡を確認した。


 鳴ったあとを見た。


 鳴ったあとの動きも練習した。


 薬は減った。


 でも、何もしないまま一日を失ったわけではない。


 創磨は薬袋を、すぐ手の届く場所に置いた。


 盾を入口の近くに置く。


 床下の扉を確認する。


 つよし号の向きを確認する。


 白い花の位置を見る。


 白い石の線を見る。


 家の横の糸を見る。


 芽依も同じように、ひとつずつ確認していた。


「そうま」


「なに」


「今日、からん鳴ったら?」


「床下」


「みくは?」


「待つ係」


「赤ちゃんは?」


「芽依が入れる。みくが下で手を出す」


「そうまは?」


「盾持って入口」


「外見ると?」


「出すぎん」


「約束」


「約束」


 芽依はうなずいた。


 その顔は、まだ怖がっていた。


 でも、昨日の夜より少しだけ違った。


 ただ怖いだけではなく、次に何をするかを知っている顔だった。


 創磨も同じだった。


 怖い。


 夜は怖い。


 からんと鳴ったら、もっと怖い。


 でも、鳴ったあと、どうするかを少しだけ決めた。


 それだけで、夜の形がほんの少し変わった。


 外の空が、夕方の色に変わっていく。


 四角い太陽が沈み始める。


 家の横の影が、少しずつ濃くなる。


 白い石の線が、たいまつの光を受けてぼんやり浮かぶ。


 その向こうは、くものみち。


 こちら側は、みくの道。


 そして、その間に、細い糸が張ってある。


 頼りない。


 中途半端。


 でも、昨夜それは鳴った。


 創磨は窓の下に座り、外を見た。


 倒せない敵。


 足りない糸。


 減っていく薬。


 守らなければならない妹。


 守ろうとする芽依。


 赤ちゃん村人を止めた望来。


 小さな石。


 小さな花。


 小さな音。


 その全部が、今の自分たちの夜だった。


 ――鳴ったあとに、どう動くか。


 それを知らなければ、ただ怖いだけで終わる。


 でも今日は、少しだけ違う。


 からん。


 もしまた鳴ったら。


 今度は、動く。

創磨・芽依・望来の名前の由来とキャラクター設定を、近況ノート/活動報告にまとめました。

本編の補足として読んでいただけたら嬉しいです。

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