鳴ったあと
第二十二話「鳴ったあと」
朝の光が、窓の下を白くしていた。
それに気づいた瞬間、創磨は自分がほとんど眠れていなかったことを思い出した。
目は閉じた。
布にも入った。
望来の寝息も、芽依の小さな寝返りの音も聞いていた。
でも、眠った気がしない。
耳だけが、ずっと家の横を向いていた。
からん。
夜の中で鳴った、あの小さな音。
木片と白い石がぶつかっただけの、頼りない音。
でも、確かに聞こえた。
風かもしれない。
草かもしれない。
クモかもしれない。
何かが、本当に糸に触れたのかもしれない。
創磨はベッドの上で、ゆっくり体を起こした。
左腕は、まだ少し重い。
盾を持った日から続く痛みは薄くなってきているけれど、完全には消えていない。肩も、背中も、疲れが抜けきっていなかった。
それでも、朝は来た。
朝が来たなら、やることがある。
「そうま……」
隣のベッドで、芽依が目をこすりながら起き上がった。
髪が少しはねている。
顔は眠そうなのに、目だけはすぐに家の横を見ようとしていた。
「鳴ったよね」
「うん」
創磨は小さくうなずいた。
「夢じゃなかったよね」
「うん」
「……見に行くと?」
「行く」
創磨はそう答えてから、すぐに薬袋を見た。
見に行く。
でも、その前に。
朝の薬。
それを飛ばすわけにはいかない。
望来は真ん中のベッドで、まだ布にくるまっていた。赤ちゃん村人はそのすぐ横で、望来の服の端を小さな手で握っている。
望来は、朝の光がまぶしいのか、顔を半分だけ布に隠したまま言った。
「……おくすり?」
寝ぼけた声だった。
創磨の胸が少しだけ締めつけられる。
いつもの朝の言葉。
でも、この世界では、そのいつもの言葉が毎回重かった。
「うん。朝の薬」
創磨は薬袋を手に取った。
昨日の夜、飲ませたあとで残り三十二回になった。
今から一つ飲ませる。
そうしたら、残り三十一回。
十五日と半分。
数字は、勝手に頭の中で並んだ。
三十一回。
まだある。
そう思いたい。
でも、最初は四十二回あった。
三週間あった。
それが、今はもう三十一回。
減っている。
ちゃんと、確実に減っている。
「そうま」
芽依が横に来ていた。
器に水を入れている。
何も言わない。
でも、芽依もわかっている顔だった。
「みく、口」
「にがい?」
「にがい」
「やだ」
「水あるけん」
「パンは?」
「薬のあと」
「ちょっと?」
「ちょっと」
いつものやり取りをして、望来はようやく口を開けた。
創磨は薬を入れた。
芽依が器を支える。
水を飲ませる。
こくん。
望来の小さな喉が動いた。
創磨は、その動きを最後まで見た。
「飲めた」
「飲めた」
芽依も言った。
望来は苦そうに顔をしかめてから、すぐに手を出した。
「パン」
「早か」
芽依が言いながらも、小さなかけらを渡した。
望来はそれを受け取って、半分を自分の口に入れ、残りを赤ちゃん村人に見せた。
「あの子も」
「ちょっとだけね」
「ちょっと」
望来は本当に小さくちぎって渡した。
赤ちゃん村人はそれを受け取った。
創磨は薬袋をしまいながら、胸の中だけで数えた。
残り三十一回。
十五日と半分。
声には出さなかった。
今は、外を見る方が先だった。
*
扉を開ける前に、創磨は盾を持った。
今日は戦いに行くわけではない。
敵を倒すわけでもない。
ただ、家の横を見るだけ。
それでも、手ぶらでは出られなかった。
「みくは、つよし号」
芽依が先に言った。
「みくも見る」
「つよし号から見る」
「ちょっと行く」
「だめ」
「なんで」
「からんのとこやけん」
その言葉で、望来は少しだけ真面目な顔になった。
昨夜、自分で言っていた。
からん、触ったらだめ。
敵が来た時の音。
創磨が怖くなる音。
芽依も怖くなる音。
望来は赤ちゃん村人の袖をつまんだ。
「赤ちゃんも、だめ」
「うん。赤ちゃんもだめ」
芽依がうなずく。
つよし号は、家の入口のすぐ近くに置いた。
白い石の線より手前。
家へすぐ戻れる場所。
望来と赤ちゃん村人をそこに座らせて、芽依はもう一度言った。
「ここから出んとよ」
「出ん」
「ほんとに?」
「ほんと」
「赤ちゃんも」
「赤ちゃんも出ん」
望来は赤ちゃん村人の手をぎゅっと握った。
その様子を見てから、創磨は家の外へ出た。
朝の村は、普通に見えた。
畑の方では、村人がゆっくり歩いている。
井戸の近くにも、別の村人がいる。
鉄ゴーレムの重い足音も、遠くでしていた。
何も起きていない朝。
でも、創磨にはそう見えなかった。
家の横。
壁の影。
昨日、糸を張った場所。
そこだけが、朝の中でも暗く見えた。
「そうま」
芽依が小さく言った。
「ゆっくりね」
「うん」
「顔出しすぎんで」
「うん」
「近づきすぎんで」
「わかっとる」
「ほんとに?」
「ほんと」
芽依は信じきっていない顔だった。
それでも、今日は創磨の横にぴったりついてきた。
手には、小さな白い石を握っている。
またポケットから出したのだろう。
創磨はそれを見て、何も言わなかった。
今は、それが芽依の盾みたいなものなのだと思った。
家の角を曲がる。
草のブロックが朝露みたいに光っている。
壁の下。
木片。
石。
糸。
昨日、自分たちが作ったものが見えた。
その瞬間、創磨は息を止めた。
糸は切れていなかった。
けれど、少したるんでいた。
昨日よりも、だらりと下がっている。
木の壁の隙間に差し込んだ小さな木片は、斜めになっていた。完全には抜けていない。でも、少し浮いている。
地面に置いた大きめの石も、昨日より少しだけずれていた。
そして。
「あ」
芽依が先に声を出した。
創磨も見た。
地面に、白い小石が落ちていた。
昨日、糸の真ん中にぶら下げた芽依の石。
小さくて、白くて、たいしたものではない石。
それが、土と草の上にぽつんと落ちていた。
「めいの石」
芽依の声が、小さくなった。
「落ちとる」
「うん」
創磨はしゃがみこんだ。
触る前に、周りを見る。
壁。
屋根。
草。
家の裏へ続く暗い道。
赤い目はない。
かさ、という音もしない。
でも、昨日の夜、何かがここで糸に触れたのかもしれない。
その証拠みたいに、白い石が落ちている。
「切れては、なか」
創磨は糸を見ながら言った。
「でも、たるんどる」
芽依が横からのぞきこむ。
「木片、斜め」
「うん」
「石も動いとる」
「うん」
「じゃあ、鳴ったと?」
創磨は、すぐには答えなかった。
風でも鳴るかもしれない。
自分たちでそう言っていた。
小さい警報だから、間違えるかもしれない。
木片が勝手に落ちたのかもしれない。
白い石の結び方が弱かっただけかもしれない。
でも。
夜、確かに聞こえた。
からん。
そして今、白い石は落ちている。
「たぶん、鳴った」
創磨は言った。
「ほんとに?」
「たぶん」
「またたぶん」
「でも、昨日のたぶんとは違う」
芽依は創磨を見た。
創磨は落ちた白い石を見たまま続けた。
「音、聞いた。朝になったら、石が落ちとった。糸もたるんどる。木片もずれとる」
「うん」
「だから、何かはあった」
芽依は黙った。
怖がっている顔だった。
でも、少しだけ別の顔でもあった。
自分の石が、役に立った。
それに気づき始めている顔。
「めいの石、鳴ったと?」
「うん」
「めいの音、したと?」
「した」
創磨が言うと、芽依は少しだけ口を結んだ。
得意そうにしたいのに、怖さが勝っている顔だった。
「……よかった」
芽依は小さく言った。
「でも、怖か」
「うん」
「鳴ったってことは、来たかもしれんってことやろ」
「うん」
「来たけど、入らんかった?」
「たぶん」
「糸、すごかね」
「糸だけじゃなか」
創磨は落ちた白い石を見た。
「芽依の石も。木片も。昨日、場所決めたことも。みくに触らんように言ったことも」
芽依は少しだけ目を丸くした。
「全部?」
「うん。全部で、からんって鳴った」
芽依は白い石を見た。
足元には、ほかにも小さな石や葉っぱ、木片が置かれている。
芽依が置いた目印。
ここから先は危ない。
ここは見張る場所。
ここは戻る場所。
子どもが置いただけの、ばらばらの印。
でも、そのばらばらの印が、朝になって意味を持っていた。
*
つよし号の中から、望来が身を乗り出した。
「そうまー」
芽依がすぐに振り返る。
「出たらだめ!」
「出とらん」
「乗り出しとる」
「見よるだけ」
「それもだめ」
望来は不満そうにしながらも、赤ちゃん村人の袖をつかんだ。
「赤ちゃん、だめ」
赤ちゃん村人は、家の横の方へ手を伸ばしかけていた。
望来はその手をぎゅっと引いた。
「だめ。からん、さわったらだめ」
創磨と芽依は、同時に望来を見た。
望来は真面目な顔だった。
昨日、自分が言われたことを、今度は赤ちゃん村人に言っている。
守られるだけではない。
ちゃんと、誰かを止めようとしている。
「みく、えらい」
芽依が言った。
望来はぱっと顔を明るくした。
「みく、えらい?」
「うん。赤ちゃん止めたけん」
「赤ちゃん、からんしたらだめ」
「うん。だめ」
望来は満足そうに赤ちゃん村人の服をつまんだ。
「みくが守った」
「うん」
創磨も言った。
「みくが守った」
望来はうれしそうに笑った。
けれど、その笑顔を見ながら、創磨は薬袋の軽さを思い出していた。
望来は守られるだけの子ではない。
でも、守らなければいけない子でもある。
薬が必要な子。
長く歩けない子。
夜に起こして、床下へ連れていかなければならない子。
その望来が、赤ちゃん村人を止めた。
その小ささが、胸に刺さった。
「そうま」
芽依が小さく呼んだ。
「これ、直すと?」
「うん」
「また同じにする?」
「少し変える」
「変える?」
創磨は糸を見た。
切れていない。
使えるかもしれない。
でも、昨日と同じではまた外れるかもしれない。
石が落ちたのは、鳴った証拠でもある。
でも、落ちたままでは次に鳴らない。
「木片を、もう少し深く差す」
「うん」
「石は、少し軽いのに変えるか、結び直す」
「めいの石?」
「使う」
「でも落ちたやつやろ」
「落ちたから、また使う」
芽依は少しだけ考えてから、うなずいた。
「よかよ」
「返せんかもしれんよ」
「もう返ってこんやろ」
「うん」
「じゃあ、めいの石、仕事したってことやん」
芽依はそう言って、少しだけ得意そうにした。
今度は、怖さの中に少しだけ胸を張る感じが混じっていた。
「仕事した」
創磨が言うと、芽依はうなずいた。
「めいの石、えらい」
望来がつよし号から言った。
「石、えらい?」
「えらい」
芽依が答える。
「からんしたけん」
「からん、えらい」
望来は赤ちゃん村人に向かって、真剣に説明した。
「からん、さわったらだめ。敵きたら、からんする」
赤ちゃん村人は、やっぱり何も答えない。
でも、望来の言葉を聞いているように、じっと家の横を見ていた。
*
創磨は警報を直す前に、周りをもう一度見た。
白い石の線。
木片。
押しつぶされた草。
落ちた小石。
たるんだ糸。
斜めになった木片。
昨日の自分たちは、これで何かを倒そうとしたわけではない。
ただ、知りたかった。
来たのかどうか。
どこから来るのか。
何かが近づいた時、少しでも早く起きられるのか。
そのための音だった。
そして、鳴った。
それは勝ちではない。
敵を倒したわけでもない。
安全になったわけでもない。
むしろ、何かが本当に近くまで来たかもしれないとわかってしまった。
でも、知らないままよりはいい。
創磨はそう思った。
怖い。
けれど、知らない方がもっと怖い。
「ここ、くものみちって決めたけど」
創磨は言った。
「たぶん、本当に通っとる」
芽依が息をのむ。
「じゃあ、ここ、もっと危なかやん」
「うん」
「みく、絶対だめやね」
「うん」
「赤ちゃんも」
「うん」
「村人も通るかもしれんよ」
「それも困る」
「じゃあ、しるし増やす?」
芽依がすぐに言った。
創磨はうなずいた。
「白い石の線、もう少しはっきりする」
「めい、石ある」
「また?」
「ある」
芽依はポケットに手を入れた。
小さな白い石。
少し灰色の石。
葉っぱ。
木片。
いろいろ出てくる。
創磨は、もう驚かなかった。
芽依のポケットは、今ではチェストの小さい版みたいだった。
「ここから先、危ない」
芽依は石を並べた。
「ここ、くものみち」
また一つ置く。
「ここ、みく来たらだめ」
さらに一つ。
「ここ、赤ちゃんもだめ」
望来がつよし号から声を出す。
「赤ちゃん、だめ」
「そう。赤ちゃんも」
芽依は石を並べながら、少しずつ声に力を戻していた。
昨日はただの拾い癖だったものが、今日は境目を作っている。
危ない場所と、戻れる場所の境目。
創磨はその線を見て、少しだけ息を吐いた。
ちゃんとした防壁ではない。
モンスターを止める力はない。
でも、望来を止める力は少しある。
芽依に思い出させる力もある。
自分が焦って踏み出しそうになった時、止まる目印にもなる。
そういう守り方もある。
*
警報の修理は、昨日より少しだけ早くできた。
一度作っているから、手順はわかる。
それでも、指先はやっぱり痛かった。
糸は細い。
強く結ぶと切れそうになる。
弱く結ぶと外れる。
木片はまっすぐ入らない。
石も、ちょうどいい場所にぶら下がらない。
創磨は何度もやり直した。
「そうま、手、痛かと?」
芽依が聞いた。
「ちょっと」
「代わる?」
「もう少し」
「そうま、もう少しって言って長かよ」
「わかっとる」
「わかっとらん」
芽依はそう言いながらも、木片を押さえてくれた。
「ここ?」
「もうちょい下」
「ここ?」
「うん。そこで止めて」
「早く結んで」
「動かさんでよ」
「動かしとらん」
「ちょっと動いた」
「そうまが遅かけん」
「糸が細かと」
「ひものせいにせん」
「ひものせいはあるやろ」
言い合いながら、二人で結んだ。
昨日よりも、少しだけ強く。
昨日よりも、少しだけ鳴りやすく。
でも、やっぱり中途半端だった。
完成された罠には見えない。
きれいな仕掛けでもない。
ただ、木の隙間に差した木片と、たるんだ糸と、芽依の白い石。
それだけだった。
「試す?」
芽依が聞いた。
「する」
「めい?」
「うん。手で軽く」
「まためい」
「芽依の石やけん」
「それ関係ある?」
「たぶん」
「またたぶん」
芽依はぶつぶつ言いながら、糸にそっと指を当てた。
木片が揺れる。
白い石が、かつん、と当たった。
昨日より、少しだけはっきり聞こえた。
二人は顔を見合わせた。
「鳴った」
「うん」
「昨日より大きか?」
「ちょっと」
「ちょっとか」
「でも、ちょっと大事」
芽依は少しだけうなずいた。
「ちょっとずつやね」
「うん」
「全部ちょっと」
「うん」
ちょっとだけ鳴る。
ちょっとだけわかる。
ちょっとだけ守れる。
この世界では、そのちょっとを積み上げるしかなかった。
創磨は、家の横から裏へ続く影を見た。
そこは、朝になってもまだ暗い。
何かがそこを通ったのかもしれない。
今夜も通るかもしれない。
糸は、また鳴るかもしれない。
鳴らないかもしれない。
でも、何もないよりはいい。
「今日は、もう一個ほしかね」
芽依が言った。
「警報?」
「うん」
「糸が足りん」
「また」
「うん」
「じゃあ、糸探す?」
創磨はすぐには答えなかった。
糸を探すということは、クモの道に近づくということだ。
屋根。
家の裏。
壁の影。
赤い目。
思い出すだけで、足が止まる。
でも、警報が鳴った。
鳴ったからこそ、次が必要だとわかった。
「探す」
創磨は言った。
芽依が少し顔をこわばらせる。
「今日?」
「昼の明るいうちに」
「クモ探すんじゃなかよ」
「糸を探す」
「同じ場所やん」
「同じかもしれん」
「いややね」
「うん」
創磨も本当に嫌だった。
でも、糸がいる。
弓にも。
警報にも。
自分たちが寝ている間に、何かが来たことを知るためにも。
「でも、今日は遠くには行かん」
創磨は言った。
「家の周りだけ。白い石の線より向こうは、少しずつ見る」
「少しずつ」
「うん。見て、印をつける。取れそうなら取る。危なかったら戻る」
「約束」
「約束」
芽依は創磨の顔をじっと見た。
「ほんとに戻るとよ」
「戻る」
「そうま、見つけたら取りたくなるやろ」
「なる」
「なるって言った」
「でも、戻る」
芽依は少しだけ不満そうだったが、うなずいた。
「めいが止めるけん」
「うん」
「無理したら怒るけん」
「うん」
その時、望来がつよし号の中から言った。
「みくも、怒る」
「みくはつよし号」
芽依がすぐに返す。
「みく、ここから怒る」
「それならよか」
「そうま、だめーって言う」
望来は赤ちゃん村人の手を持ち上げながら言った。
「赤ちゃんも、だめー」
赤ちゃん村人は何も言わない。
でも、望来に手を上げられたまま、創磨の方を見ていた。
創磨は少しだけ笑いそうになった。
怖い朝なのに。
白い石が落ちていて、何かが通ったかもしれない朝なのに。
それでも、望来は望来だった。
芽依は芽依だった。
自分も、ちゃんと創磨でいなければならない。
*
昼前。
創磨たちは家の周りをもう一度見て回った。
望来と赤ちゃん村人はつよし号。
家の入口の近く。
白い花の目印のそば。
芽依は何度も振り返って、望来が動いていないかを確認した。
「みく、そこね」
「そこ」
「白い石より外、だめ」
「だめ」
「赤ちゃんも」
「赤ちゃんも」
望来は同じ言葉を繰り返しながら、赤ちゃん村人の袖をつかんでいる。
創磨は家の裏へ回った。
朝よりも光は強いはずなのに、家の裏はやっぱり暗い。
木の壁の下。
石の角。
草のブロックの隙間。
昨日までは何も見えなかった場所に、今日は少しだけ意味が見える。
ここを通ったかもしれない。
ここに足がかかったかもしれない。
ここから壁を登ったかもしれない。
「そうま」
芽依が小さく呼んだ。
「なに」
「ここ、葉っぱ変」
芽依が指さしたのは、家の裏の端だった。
葉っぱのブロックの下に、白い細いものが引っかかっている。
糸かもしれない。
草の繊維かもしれない。
でも、朝の光に照らされて、ほんの少し白く光っていた。
「糸?」
「たぶん」
「取る?」
創磨は周りを見た。
音はない。
赤い目もない。
でも、家の裏は暗い。
壁の上も見えにくい。
昨日なら、すぐに手を伸ばしたかもしれない。
でも、今は白い石の線が後ろにある。
戻る場所がある。
芽依が横にいる。
「芽依、見とって」
「うん」
「上と横」
「わかっとる」
「音したら、すぐ戻る」
「うん」
創磨はしゃがんだ。
手を伸ばす。
糸に触れる。
ぷつん。
短い糸が取れた。
ほんの少しだけ。
「取れた」
芽依が息を吐いた。
「よかった」
「短か」
「でも、糸やろ」
「うん」
短くても、糸は糸だ。
警報には使えるかもしれない。
弓にはまだ遠い。
でも、警報なら。
小さな音なら。
創磨はその糸を手のひらに包んだ。
その時だった。
家の横で、かつん、と音がした。
二人とも動きを止めた。
昨日の夜の音ではない。
さっき試した警報の音に似ていた。
でも、今は昼だ。
望来か。
赤ちゃん村人か。
風か。
それとも。
「戻る!」
芽依が先に言った。
創磨は迷わなかった。
糸を握ったまま、家の横へ走る。
つよし号の中で、望来が赤ちゃん村人の手を押さえていた。
「赤ちゃん、だめ!」
望来が言っている。
赤ちゃん村人の手は、家の横へ伸びかけていた。
つよし号は少しだけ動いていた。
白い花の目印より、ほんの少し前。
でも、白い石の線までは越えていない。
「みく!」
芽依が駆け寄る。
「出たらだめって言ったやろ!」
「みく、出とらん!」
「つよし号、動いとる!」
「赤ちゃんが、ひも見るって!」
「言ってなか!」
「言ったもん!」
望来は必死だった。
赤ちゃん村人を止めようとして、本当に止めていた。
でも、そのせいで、つよし号が少し前へ動いてしまったらしい。
創磨は警報を見た。
糸は切れていない。
小石も落ちていない。
ただ、木片が少し揺れていた。
たぶん、つよし号の先が近くの木片に当たったか、赤ちゃん村人の手が空気を動かしたか。
敵ではない。
でも、鳴った。
「これも鳴るんやね」
芽依が小さく言った。
「うん」
「まちがいでも鳴る」
「うん」
「みくでも、赤ちゃんでも鳴る」
「うん」
創磨はうなずいた。
警報は役に立つ。
でも、間違える。
敵が来た音なのか、望来が触りかけた音なのか、風なのか、わからない。
それも含めて、警報だった。
「みく」
創磨はつよし号の前にしゃがんだ。
「赤ちゃん止めたのは、えらい」
望来の顔が少しだけ明るくなる。
「えらい?」
「うん。でも、つよし号は動かさん」
「みく、動かしてなか」
「赤ちゃん止めたら、動いた」
「赤ちゃんが悪い?」
「悪いじゃなか。危なかった」
望来は少し考えた。
「危なかった?」
「うん。くものみちに近づいた」
その言葉で、望来は赤ちゃん村人の手をもっと強く握った。
「だめ。くものみち、だめ」
「うん」
「みく、戻る」
「そうしよう」
創磨はつよし号を家の入口の方へ少し戻した。
白い花の目印の内側。
望来の道。
危ない白い石の線とは違う、戻っていい場所。
芽依が白い花を見て言った。
「この花、もっと増やした方がよかね」
「みくの道?」
望来が聞く。
「うん。みくの道」
「花の道?」
「そう。花の道」
望来は少しうれしそうにした。
「赤ちゃんも、花の道」
「うん。赤ちゃんも」
創磨は白い石の線と、白い花を見比べた。
白い石は、危ない場所。
白い花は、望来が通っていい場所。
同じ白でも、意味が違う。
芽依が拾った石。
望来が置いた花。
小さなものが、少しずつ世界に線を引いている。
*
昼を過ぎる頃、創磨は警報をもう一つ作ろうとはしなかった。
糸は少し増えた。
でも、まだ足りない。
それに、今日わかったことがある。
警報は鳴る。
でも、間違っても鳴る。
鳴ったあとに、どう動くかを決めていなければ、ただ怖くなるだけだ。
「鳴ったら、まず床下?」
芽依が聞いた。
家の中で、三人は座っていた。
つよし号は入口近く。
望来と赤ちゃん村人は、その中でパンのかけらを分けている。
「夜なら、床下」
創磨は答えた。
「昼なら?」
「見えるなら、まず見る。でも外には出すぎん」
「鳴った場所、見ると?」
「窓から。あと、壁の端から。盾持って」
「みくは?」
「つよし号か床下」
「赤ちゃんは?」
「みくと一緒」
望来がすぐに顔を上げた。
「みく、赤ちゃん守る」
「守るなら、まず離さんこと」
芽依が言った。
「赤ちゃんが行こうとしたら、袖をつまむ」
「袖」
「でも、つよし号は動かさん」
「動かさん」
「白い石より外、だめ」
「だめ」
「白い花のとこは?」
「みくの道」
「そう」
望来は、少しずつ覚えている。
全部は無理かもしれない。
怖くなったら忘れるかもしれない。
でも、繰り返すしかない。
薬と同じだ。
朝と夜。
毎回、飲ませる。
飲めたか見る。
喉が動いたか見る。
危ない場所も、同じように繰り返す。
ここはだめ。
ここは戻る。
ここはみくの道。
ここはくものみち。
「そうま」
芽依が言った。
「鳴ったあと、練習した方がよくなか?」
「練習?」
「からんって鳴ったら、みくを床下に入れる練習」
創磨は少し驚いた。
でも、すぐにうなずいた。
「いる」
「やろ」
「夜に初めてやったら、間に合わんかもしれん」
「うん」
「でも、みく嫌がるかも」
「嫌がるね」
望来はもう、嫌そうな顔をしていた。
「みく、床下いや」
「練習」
「いや」
「敵来た時のため」
「敵、いや」
「だから練習」
「みく、つよし号がいい」
「つよし号も使う。でも、夜は床下」
創磨は望来の前に座った。
「みく、昨日からん鳴ったやろ」
「鳴った」
「あれが鳴ったら、外に何かおるかもしれん」
「くもしゃん?」
「かもしれん」
「赤いの?」
「かもしれん」
望来の顔が少し曇った。
虫は怖がらない望来でも、赤ちゃん村人より大きいかもしれない赤い目のクモは、少し違うらしい。
「そうま、こわい?」
「怖い」
「めいも?」
「怖か」
芽依が答えた。
「赤ちゃんも?」
創磨は赤ちゃん村人を見た。
赤ちゃん村人は、パンのかけらを握ったまま、望来を見ていた。
「怖いと思う」
望来は少し考えた。
それから、赤ちゃん村人の袖をぎゅっとつまんだ。
「じゃあ、練習する」
芽依が小さく息を吐いた。
「えらい」
「みく、えらい?」
「えらい」
「パンある?」
「すぐパンにせん」
芽依が言う。
でも、望来は少しだけ得意そうだった。
*
練習は、思ったより大変だった。
創磨が家の横で、警報を軽く鳴らす。
かつん。
その音を合図に、芽依が望来をつよし号から降ろし、床下の扉へ連れていく。
望来は赤ちゃん村人の手を引く。
創磨は盾を持つ。
それだけ。
言葉にすれば簡単だった。
でも、実際には簡単ではなかった。
一回目。
望来がつよし号から降りる時に、赤ちゃん村人の袖を強く引きすぎて、赤ちゃん村人がつまずきかけた。
「ゆっくり!」
芽依が言う。
「敵来たら、早くやろ!」
「早いけど、転ばんように!」
「むずかしか!」
望来は何がむずかしいのかわからない顔で、赤ちゃん村人を引っぱった。
二回目。
床下の扉の前で、望来が先に入ろうとして、赤ちゃん村人が後ろで止まった。
「赤ちゃん、先?」
望来が聞く。
「みくが先」
創磨が言う。
「でも赤ちゃん」
「芽依が赤ちゃん入れる」
「みくがする」
「みくは先に下」
「いや」
そこで止まった。
練習なのに、止まった。
敵が来ていたら、その間に近づかれていたかもしれない。
三回目。
芽依が役割を変えた。
「みくは先に下。赤ちゃんはめいが入れる。みくは下で手ぇ出す」
「下で?」
「そう。赤ちゃん来たら、こっちってする」
「みく、待つ?」
「うん。待つ係」
「待つ係、大事?」
「大事」
望来はその言葉に弱い。
「みく、待つ係する」
今度は少しうまくいった。
望来が先に床下へ入る。
芽依が赤ちゃん村人を支える。
望来が下から手を出して、「こっち」と言う。
赤ちゃん村人が降りる。
創磨は盾を持って入口を見る。
時間はかかった。
でも、できた。
「今の、よかった」
創磨が言うと、望来は床下から顔を出した。
「みく、できた?」
「できた」
「赤ちゃんも?」
「できた」
「めいも?」
「めいは最初からできとる」
芽依が言う。
望来は満足そうに笑った。
でも、創磨は息を整えながら思った。
練習でこれだけ時間がかかる。
本当に夜、赤い目が近くにいたら。
からんと鳴って、外で足音がしたら。
自分は、この通りに動けるのか。
芽依は、望来を怒らずに急がせられるのか。
望来は、泣かずに床下へ入れるのか。
赤ちゃん村人は、ついてこられるのか。
わからない。
でも、練習しなければもっとわからない。
「もう一回」
創磨が言った。
芽依が少しだけ目を丸くする。
「まだすると?」
「もう一回だけ」
「みく、パン」
望来が言った。
「もう一回したら、ちょっと」
「ちょっと?」
「ちょっと」
望来は考えた。
「じゃあ、する」
芽依があきれたように笑った。
「パンで動くね」
「みく、パンすき」
「知っとる」
四回目。
少しだけ早くなった。
五回目。
望来が「待つ係」と言いながら、自分から床下へ入った。
赤ちゃん村人も、少しだけ慣れたように見えた。
芽依は額に汗をにじませていた。
創磨も、盾を持つ腕が重くなっていた。
でも、やった意味はあった。
からん。
音がする。
動く。
床下へ。
盾。
つよし号。
赤ちゃん村人。
白い石。
白い花。
それぞれが、少しだけつながった。
*
夕方が近づく前に、創磨は家の横の警報をもう一度確認した。
糸はまだ張ってある。
木片は昨日より深く差し込んだ。
白い石は、落ちないように結び直した。
でも、完璧ではない。
風が強ければ鳴るかもしれない。
望来や赤ちゃん村人が近づいても鳴るかもしれない。
クモが屋根から来たら、鳴らないかもしれない。
それでも、昨日よりは少しだけよくなった。
鳴ったあとにどう動くかも、少しだけ練習した。
「そうま」
芽依が横に来た。
「なに」
「今日、進んだ?」
創磨は、少し考えた。
敵を倒していない。
新しい武器も作っていない。
弓もまだない。
村の壁も増えていない。
薬も、朝に一つ減った。
でも。
「進んだ」
創磨は言った。
「ちょっとだけ」
「ちょっとばっか」
「うん」
「でも、ちょっと進んだ?」
「うん」
芽依は白い石の線を見た。
それから、家の入口近くに置いた白い花を見た。
「めいの石と、みくの花やね」
「うん」
「石は危ないとこ」
「花は戻るとこ」
「くものみちと、みくの道」
「うん」
芽依は少しだけうなずいた。
「わかりやすか」
「うん」
創磨もそう思った。
子どもが考えた、小さな線。
それでも、自分たちには必要な線だった。
どこが危ないか。
どこへ戻るか。
何が鳴ったか。
鳴ったあと、何をするか。
知らない世界に、少しずつ自分たちの意味を置いていく。
それが、生きる場所を作ることなのかもしれなかった。
望来はつよし号の中で、赤ちゃん村人と並んで座っていた。
床下練習のあとにもらったパンのかけらを、大事そうに食べている。
「みく、待つ係した」
望来が言った。
「したね」
芽依が答える。
「赤ちゃんも、した」
「した」
「からん、鳴ったら、床下」
「そう」
「白い石は、だめ」
「そう」
「白い花は?」
「みくの道」
「うん」
望来は満足そうにうなずいた。
赤ちゃん村人の袖をつまんで、もう一度言う。
「花の道、行くとよ」
赤ちゃん村人は返事をしなかった。
けれど、望来のそばでじっとしていた。
*
夜の準備を始める頃、創磨は薬袋をもう一度見た。
夜の薬はまだ先だった。
でも、朝飲ませた分だけ、袋は軽くなっている。
残り三十一回。
十五日と半分。
今日はまだ、夜の薬はない。
次に飲ませる時は、三十回になる。
十五日分。
その数字を思うと、胸の奥が重くなった。
でも、今は声に出さなかった。
今日は、朝にちゃんと飲めた。
そして、警報の跡を確認した。
鳴ったあとを見た。
鳴ったあとの動きも練習した。
薬は減った。
でも、何もしないまま一日を失ったわけではない。
創磨は薬袋を、すぐ手の届く場所に置いた。
盾を入口の近くに置く。
床下の扉を確認する。
つよし号の向きを確認する。
白い花の位置を見る。
白い石の線を見る。
家の横の糸を見る。
芽依も同じように、ひとつずつ確認していた。
「そうま」
「なに」
「今日、からん鳴ったら?」
「床下」
「みくは?」
「待つ係」
「赤ちゃんは?」
「芽依が入れる。みくが下で手を出す」
「そうまは?」
「盾持って入口」
「外見ると?」
「出すぎん」
「約束」
「約束」
芽依はうなずいた。
その顔は、まだ怖がっていた。
でも、昨日の夜より少しだけ違った。
ただ怖いだけではなく、次に何をするかを知っている顔だった。
創磨も同じだった。
怖い。
夜は怖い。
からんと鳴ったら、もっと怖い。
でも、鳴ったあと、どうするかを少しだけ決めた。
それだけで、夜の形がほんの少し変わった。
外の空が、夕方の色に変わっていく。
四角い太陽が沈み始める。
家の横の影が、少しずつ濃くなる。
白い石の線が、たいまつの光を受けてぼんやり浮かぶ。
その向こうは、くものみち。
こちら側は、みくの道。
そして、その間に、細い糸が張ってある。
頼りない。
中途半端。
でも、昨夜それは鳴った。
創磨は窓の下に座り、外を見た。
倒せない敵。
足りない糸。
減っていく薬。
守らなければならない妹。
守ろうとする芽依。
赤ちゃん村人を止めた望来。
小さな石。
小さな花。
小さな音。
その全部が、今の自分たちの夜だった。
――鳴ったあとに、どう動くか。
それを知らなければ、ただ怖いだけで終わる。
でも今日は、少しだけ違う。
からん。
もしまた鳴ったら。
今度は、動く。
創磨・芽依・望来の名前の由来とキャラクター設定を、近況ノート/活動報告にまとめました。
本編の補足として読んでいただけたら嬉しいです。




