表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/32

小さな音



 朝になっても、創磨の耳には、昨夜の音が残っていた。


 かさ。


 家の横。


 白い石と木片を置いた、あの場所。


 クモの道かもしれない場所。


 結局、昨夜は何も入ってこなかった。


 窓の外に赤い目が見えたわけでもない。壁を叩かれたわけでもない。屋根の上を歩く音が続いたわけでもない。


 ただ、一度だけ、家の横で音がした。


 それだけだった。


 でも、その一度だけで、創磨はほとんど眠れなかった。


 朝の光が窓から入ってきても、体は重いままだった。目の奥がじんじんする。頭も少しぼんやりしている。


 眠れていない。


 食べ物が足りない時のふらつきとは違う。


 目を閉じても、すぐに外の音を探してしまう疲れだった。


「そうま」


 芽依がベッドの上から声をかけた。


 髪は少し乱れている。顔も眠そうだった。けれど、目だけはもう外を見ていた。


「昨日、来たと?」


「わからん」


「またわからん」


「音だけやったけん」


「でも、家の横やった」


「うん」


 創磨はうなずいた。


 そこだけは、昨日よりわかった。


 ただ怖いだけではなかった。


 音がした場所が、わかった。


 家の横。


 クモの道かもしれない場所。


 白い石と木片を置いた場所。


 それは、昨日までの自分たちなら気づけなかったことだった。


 何も知らずに、家の中で震えていたかもしれない。


 でも昨日は、音がした時、創磨も芽依も同じ場所を思い浮かべた。


 家の横。


 それだけで、ほんの少しだけ違った。


「そうま……」


 望来の声がした。


 真ん中のベッドで、望来が寝ぼけた顔をしている。赤ちゃん村人はその横に座り、望来の服の端を握っていた。


「おくすり?」


 いつもの朝の言葉だった。


 創磨は薬袋を手に取った。


 昨日の夜、望来に薬を飲ませて、残りは三十四回になった。


 今から朝の分を飲ませる。


 そうしたら、残り三十三回。


 十六日と半分。


 その数字が頭に浮かんだ瞬間、創磨の胸の奥がきゅっと縮んだ。


 三十三回。


 最初に数えた時は、まだあると思おうとした。


 四十二回。


 三週間。


 それでも怖かった。


 まだ半分ではない。


 それでも、確実に減っている。


 木もある。


 家もある。


 作業台もある。


 たいまつもある。


 バケツも、盾も、つよし号もある。


 でも、薬は増えていない。


 ひとつも。


「そうま?」


 芽依が見ている。


「大丈夫」


 創磨はそう言って、薬を一つ取り出した。


 大丈夫ではなかった。


 でも、飲ませないといけない。


「みく、口」


「にがい?」


「にがい」


「やだ」


「水あるけん」


 芽依が器を持ってくる。


 望来は少しだけ口を曲げたあと、小さく開けた。


 薬を入れる。


 水を飲ませる。


 こくん。


 喉が動く。


 創磨は、その動きを最後まで見た。


「飲めた」


「飲めた」


 芽依も横で言った。


 望来は顔をしかめてから、すぐに言った。


「パン」


「薬のあと、いつもパンね」


 芽依があきれたように言う。


「パンがよか」


「じゃがいももある」


「パン」


「またパン」


 そのやり取りは、少しだけいつもの朝みたいだった。


 でも、創磨は薬袋をしまいながら、胸の中で数を数えていた。


 残り三十三回。


 三十三回。


 今夜飲ませたら、三十二回。


 考えるだけで、手が少し冷たくなる。


 でも、今日は薬だけ見ているわけにはいかなかった。


 外に、何かが通っている。


 まだ倒せない。


 弓もない。


 糸も足りない。


 でも、知る方法なら、作れるかもしれない。


     *


 朝食のあと、創磨はチェストの前に座った。


 中には、昨日取った二本の糸が入っている。


 白くて、細くて、頼りない。


 弓には足りない。


 ちゃんとした罠にも、たぶん足りない。


 それでも、二本ある。


 一本だけの時よりは、少しだけできることが増えている。


「それ、使うと?」


 芽依が横から聞いた。


「うん」


「弓?」


「弓はまだ無理」


「じゃあ、昨日のやつ?」


「うん。知らせるやつ」


「来たよって?」


「うん」


 創磨は糸を指でつまんだ。


 強く引けば、すぐ切れそうだった。


 ゲームなら、糸を張って、トリップワイヤーフックをつける。


 何かが通れば、反応する。


 その先にレッドストーンをつなげれば、音が鳴るかもしれない。明かりがつくかもしれない。もっとちゃんとした仕組みも作れるかもしれない。


 でも、今の創磨たちにはレッドストーンがない。


 音符ブロックもない。


 鉄も少ない。


 トリップワイヤーフックを作るにも、ちゃんと材料がいる。


 それに、作れたとしても、どこにつなげればいいのかわからない。


 動画では簡単そうだった。


 でも、本物の家の横に立って考えると、何も簡単ではなかった。


「ほんとは、フックみたいなのがいる」


「ふっく?」


「ひっかけるやつ」


「作れんと?」


「鉄いるかもしれん」


「また鉄」


「うん」


「鉄、少なかやん」


「少なか」


「じゃあ無理やん」


「ちゃんとは、無理」


 創磨はそこで、少しだけ言葉を切った。


「でも、ちゃんとしてなくても、音くらいなら鳴るかもしれん」


「音?」


 芽依の目が少し動いた。


「何かが糸に当たったら、木とか石が落ちるようにする」


「からんって?」


「うん。からんって」


「それ、よかやん」


「でも、弱い」


「弱い?」


「糸、切れるかもしれん。風でも鳴るかもしれん。みくが触っても鳴るかもしれん。赤ちゃん村人が触っても鳴るかもしれん」


「だめやん」


「だめじゃなか。中途半端なだけ」


 芽依は少し考えた。


 それから、ぽん、と自分のポケットを叩いた。


「めい、石ある」


「また?」


「ある」


 芽依は当然みたいな顔で、ポケットから小さな白い石を出した。


 ひとつではなかった。


 二つ。


 三つ。


 さらに、小さな木片も出てきた。


「いつ拾ったと」


「昨日」


「なんで」


「なんかいるかと思ったもん」


「またそれ」


「いるやん」


 芽依は少し得意そうに言った。


 創磨は返す言葉がなかった。


 いる。


 本当にいる。


 その小さな石も、木片も、今は役に立つ。


 家にいたら、洗濯機の中でがらがら鳴って怒られるだけのものかもしれない。


 でも、この世界では違う。


 石は目印になる。


 木片はたいまつを支える。


 そして今は、音を鳴らすものになるかもしれない。


「それ、使ってよか?」


「よかよ」


 芽依はすぐに言った。


「でも、めいの石やけん」


「わかっとる」


「あとで返して」


「罠に使うけん、返せんかもしれん」


「じゃあ、めいの罠」


「みんなの罠」


「めいの石やもん」


「……じゃあ、芽依の音」


 芽依は少しだけ満足したようにうなずいた。


「よか」


 望来がつよし号の中から身を乗り出した。


「みくも、石ある?」


「みくは触らん」


 創磨と芽依の声が重なった。


 望来はびくっとして、すぐに口を曲げた。


「みく、見るだけ」


「見るだけ」


 芽依が言う。


「ひも、触ったらだめ」


「なんで」


「音なるけん」


「音、すき」


「好きでもだめ」


「ちょっと」


「ちょっともだめ」


 望来は不満そうにしながら、赤ちゃん村人の手を握った。


「あの子も、見るだけ」


「そう。赤ちゃんも見るだけ」


 赤ちゃん村人は何も言わない。


 ただ、望来に手を握られたまま、創磨たちをじっと見ていた。


     *


 家の横は、朝でも少し暗かった。


 たいまつはある。


 けれど、壁の陰になっている場所は、やっぱり光が届きにくい。


 昨日、音がした場所。


 白い石と木片を置いた場所。


 創磨はそこにしゃがみこんだ。


 草の面は、まだ少しだけ押しつぶされたように見える。


 本当にクモが通ったのかはわからない。


 風かもしれない。


 別の何かかもしれない。


 でも、気持ち悪い。


 見えない道が、そこにあるような気がした。


「ここに張ると?」


 芽依が聞いた。


「うん。でも、低すぎるとみくが引っかかる」


「みく、歩かせんかったらよかやん」


「それでも、触るかもしれん」


「触るね」


「うん」


 創磨は少し考えた。


 高く張りすぎると、ゾンビやスケルトンには当たるかもしれない。


 でも、クモは低く通るのか、壁を登るのか、よくわからない。


 ゲームのクモは大きい。


 壁も登る。


 体が低く、横に広い。


 なら、地面近くでも、壁の角でも、当たる可能性はある。


 でも、望来や赤ちゃん村人が引っかかると困る。


 つよし号も通る。


 村人も通るかもしれない。


「敵だけに当たる罠って、むずかしかね」


 芽依が言った。


「うん」


 創磨はうなずいた。


「動画では、簡単そうやった」


「動画の人、大人?」


「大人もおるし、子どももおる」


「でも、ここにみくおらんやろ」


「うん」


 それが一番違った。


 画面の中の罠なら、間違えても壊せばいい。


 踏んでも、ダメージを受けるだけ。


 ゲームなら、もう一回やればいい。


 でも、ここでは違う。


 望来が転んだら、ただの失敗では済まない。


 赤ちゃん村人が引っかかって泣いたら、夜に音を立てるかもしれない。


 芽依が転べば、膝を切るかもしれない。


 自分が引っかかれば、逃げる時に遅れる。


 罠は敵だけを困らせるものではない。


 自分たちも困るものだった。


「じゃあ、ここ」


 創磨は家の壁の角を指さした。


「家の横から裏に曲がるところ。みくはここ通らんようにする」


「白い石、置く?」


「置く。あと、ここから先はくものみちって決める」


「決めると?」


「うん。ほんとかはわからんけど、危ない場所って決める」


 芽依は少しだけうなずいた。


「じゃあ、みくに言う」


「うん」


 創磨は糸を一本、壁の低いところに結ぼうとした。


 でも、うまくいかなかった。


 木の壁に引っかける場所がない。


 石の隙間に挟もうとしても、するっと抜ける。


 糸は細すぎる。


 力を入れると、切れそうになる。


「……むず」


「そうま、できんと?」


「今やっとる」


「めいがする?」


「ちょっと待って」


 創磨は木片を壁の隙間に差しこんだ。


 そこへ糸を巻く。


 ゆるい。


 すぐ外れそうだった。


 もう片方は、地面に置いた石に結ぶ。


 でも、石が軽すぎて動いた。


「だめやん」


 芽依が言った。


「石、重いやついる」


「じゃあ取ってくる」


「遠く行かんで」


「すぐそこ」


 芽依は走っていき、すぐに少し大きめの石を抱えて戻ってきた。


 顔が少し赤い。


「重っ」


「無理せんでよかって」


「持てたし」


「置いて」


 創磨はその石に糸を巻いた。


 今度は少し安定した。


 でも、糸はぴんと張れない。


 たるむ。


 風で揺れる。


 ちゃんとしたトリップワイヤーとは全然違う。


「これ、鳴ると?」


 芽依が聞く。


「わからん」


「また」


「試す」


 創磨は糸の真ん中に、小さな木片を結んだ。


 その木片に、芽依の白い石をひとつぶら下げる。


 重すぎると糸が切れる。


 軽すぎると音が鳴らない。


 ちょうどいい重さがわからない。


 何度か結び直しているうちに、指が痛くなってきた。


 細い糸が爪の横に食いこむ。


 それでも、やめなかった。


 ようやく、小石が木片に当たるような形になった。


 誰かが糸に触れれば、木片が揺れて、石が板に当たる。


 たぶん。


 ちゃんとは鳴らないかもしれない。


 でも、何もしないよりはましだった。


「芽依、ちょっと触って」


「なんでめい」


「軽く。足じゃなくて、手で」


「手ならよか」


 芽依はしゃがみこんで、糸をちょんと触った。


 木片が揺れた。


 小石が、かつ、と壁に当たった。


 二人とも息を止めた。


「鳴った」


 芽依が小さく言った。


「うん」


「ちっちゃ」


「ちっちゃいけど、鳴った」


「夜、聞こえる?」


「近ければ」


「遠かったら?」


「聞こえんかも」


「中途半端」


「うん」


 創磨はうなずいた。


「中途半端な警報」


 芽依は少しだけ口を曲げた。


「でも、ないよりよか」


「うん。ないよりは、よか」


 その時、望来の声がした。


「みくも、からんする」


「だめ!」


 また二人の声が重なった。


 望来はつよし号の中から身を乗り出していた。


 赤ちゃん村人も、なぜか一緒に身を乗り出している。


「見るだけって言ったやろ」


 芽依が急いで戻る。


「みく、ここから出んと」


「からん、したかった」


「したらだめ」


「なんで」


「敵が来た時の音やけん」


「みく、敵?」


「違う」


「じゃあ、よかやん」


「よくなか」


 芽依は望来の前にしゃがんだ。


「みくが鳴らしたら、そうまが『敵来た』って思ってびっくりするやろ」


「びっくり?」


「うん。怖くなる」


「そうま、怖い?」


 望来が創磨を見る。


 創磨は少しだけ迷ってから、うなずいた。


「怖い」


「そうまも?」


「うん」


「めいも?」


「めいは……」


 芽依は一瞬言いよどんだ。


 それから、小さく言った。


「怖か」


 望来は二人を見比べた。


 それから、少しだけ真面目な顔になった。


「じゃあ、みく、からんせん」


「うん」


「赤ちゃんも、せん」


 望来は赤ちゃん村人の手をぎゅっと握った。


「せんよ」


 赤ちゃん村人は何も言わない。


 でも、望来に引っぱられるまま、つよし号の中へ戻った。


 創磨は小さく息を吐いた。


 罠を作るだけでは足りない。


 望来に触らせない。


 赤ちゃん村人にも触らせない。


 芽依にも場所を覚えてもらう。


 自分も忘れない。


 それ全部が、罠の一部だった。


     *


 昼までに、家の横には三つの印ができた。


 白い石。


 木片。


 小さな糸の警報。


 警報と呼ぶには、あまりにも頼りないものだった。


 糸は少したるんでいる。


 木片も、まっすぐぶら下がっているわけではない。


 風が吹けば揺れる。


 小石の音も小さい。


 クモが通ったとして、本当に鳴るかはわからない。


 それでも、創磨は何度も見た。


 どこから来たら糸に触れるか。


 どの方向からなら、鳴らずに通れてしまうか。


 壁の上から来たら、意味がないかもしれない。


 屋根から下りてきたら、鳴らないかもしれない。


 そもそも、クモが本当にここを通るとは限らない。


 考えれば考えるほど、不安は増えた。


「そうま」


 芽依が言った。


「顔、むずかしか」


「うん」


「できたとに?」


「できたけど、できてない」


「なにそれ」


「鳴るかもしれんけど、鳴らんかもしれん」


「じゃあ、もう一個作れば?」


「糸がない」


「あ」


 芽依は糸を見た。


 二本あった糸のうち、一本は今使っている。


 もう一本は、まだチェストの中。


 使えば、もう一カ所に警報を作れる。


 でも、そうすると弓がまた遠くなる。


 弓にはまだ足りないとはいえ、糸を全部使うのは怖かった。


「残り一本、どうする?」


 芽依が聞いた。


「まだ使わん」


「なんで」


「使う場所、ちゃんと決めたい」


「ここにもいるやん」


「いる。でも、入口にもいる。裏にもいる。屋根にもいる。全部には足りん」


「足りんのばっか」


「うん」


 創磨はうなずいた。


 本当に足りないものばかりだった。


 糸。


 鉄。


 食べ物。


 たいまつ。


 眠る時間。


 薬。


 帰る方法。


 何もかも、少しずつ足りない。


 でも、全部足りないからといって、何もしないわけにはいかない。


「一本は、残す」


 創磨は言った。


「弓のため?」


「弓にも。あと、次にどこが危ないかわかった時のため」


「ふーん」


 芽依は少しだけ不満そうだった。


「めいは、いっぱい鳴る方がよか」


「おれもそう思う」


「じゃあ使えばよかやん」


「でも、今ここで全部使ったら、あとで困るかもしれん」


「あとでばっか」


「あとで困ったら、みくが困る」


 芽依は黙った。


 望来の名前が出ると、芽依は強く言い返さないことが多い。


 望来はつよし号の中で、赤ちゃん村人にパンのかけらを見せている。


「これは、みくの」


 そう言いながら、少しだけ赤ちゃん村人の口元へ持っていく。


「ちょっとね」


 自分でそう言って、自分で小さくちぎって渡す。


 赤ちゃん村人はそれを受け取って、少しずつ食べた。


 望来はうれしそうに笑った。


「あの子、食べた」


「うん」


 芽依が答える。


「みくも食べなさい」


「みく、食べた」


「ちょっとしか食べとらんやろ」


「あとで」


「あとでじゃなか」


 その声を聞きながら、創磨は糸の方を見た。


 守るものが増えている。


 望来だけではない。


 芽依も。


 赤ちゃん村人も。


 つよし号も。


 村の家も。


 畑も。


 少しずつ、自分たちのものになっている。


 だから、怖い。


 壊されたくないものが増えるほど、夜が怖くなる。


     *


 夕方になる前に、創磨はもう一度、警報を試した。


 今度は芽依が立って、糸に足を近づけた。


「ほんとにやると?」


「軽く」


「めい、転ばん?」


「転ばんように」


「それが怖かっちゃけど」


「ゆっくりでよか」


 芽依はむっとした顔をしながら、そっと足を出した。


 糸に触れる。


 木片が揺れる。


 かつん。


 さっきより少し大きな音がした。


「鳴った」


「うん」


「でも、めい、足に当たった」


「痛い?」


「痛くはなか。でも、いや」


「敵もいやかもしれん」


「敵は痛い方がよか」


「痛くする罠は、今は無理」


「穴掘れば?」


 芽依が言った。


 創磨は地面を見た。


 落とし穴。


 動画で見たことがある。


 敵を落とす穴。


 上に土や葉っぱをかぶせるもの。


 でも、すぐに望来の顔が浮かんだ。


 望来は白い石を見ても、忘れて近づくかもしれない。


 赤ちゃん村人も落ちるかもしれない。


 つよし号だって、押し方を間違えたら落ちる。


「穴は、まだだめ」


「なんで」


「みくが落ちる」


「しるし置けばよかやん」


「みくは、しるし見ても行くかもしれん」


 芽依は少し考えてから、うなずいた。


「行くね」


「うん」


「赤ちゃんも行くね」


「うん」


「つよし号も落ちるね」


「うん」


「じゃあ、だめやん」


「だめ」


 芽依は少し不満そうにしながらも、納得したようだった。


「じゃあ、音だけ」


「うん。今は音だけ」


「中途半端やね」


「中途半端でよか」


「よかと?」


「敵を倒す罠じゃなか。起きるための罠やけん」


 芽依は創磨を見た。


 創磨は、自分で言ってから、その言葉が少しだけ胸に残った。


 起きるための罠。


 倒すためではない。


 勝つためでもない。


 ただ、寝ている間に近づかれないように。


 何かが来た時、少しでも早く気づけるように。


 望来を起こして、床下へ入れる時間を作るために。


 芽依が赤ちゃん村人を引っぱる時間を作るために。


 自分が盾を持つ時間を作るために。


 そのための、小さな音。


「そうま」


 芽依が小さく言った。


「なに」


「それ、いいと思う」


 創磨は少しだけ目を丸くした。


 芽依がそんなふうに言うことは、あまり多くない。


「中途半端やけど」


「うん」


「でも、いいと思う」


「……ありがと」


「別に」


 芽依はすぐにそっぽを向いた。


「めいの石やし」


「うん」


「めいの音やし」


「うん」


 創磨は、少しだけ笑いそうになった。


 でも、その時、家の中から望来の声がした。


「めいー。みく、からんせんかったよー」


「えらい」


 芽依がすぐに返す。


「赤ちゃんも、せんかったー」


「えらい」


「つよしくんも、せんかったー」


「つよし号は動かんやろ」


「したかったって」


「言ってなか」


 普通みたいなやり取りだった。


 夕方の光の中で、ほんの少しだけ、家の周りが家らしく見えた。


 白い石。


 木片。


 小さな糸。


 つよし号。


 ベッド。


 チェスト。


 たいまつ。


 どれも頼りない。


 けれど、昨日よりは増えている。


 創磨は空を見た。


 四角い太陽が、少しずつ傾いている。


 夜が来る。


 今日もまた。


     *


 夜の薬を飲ませる時間になると、家の中の空気は少し変わった。


 望来は眠そうだった。


 赤ちゃん村人はその横で、望来の袖をつまんでいる。


 芽依は器に水を入れ、創磨は薬袋を手に取った。


 残り三十三回。


 今から一つ飲ませる。


 そうしたら、三十二回。


 十六日分。


 創磨は袋の中を見た。


 白い薬が、少しずつ減っている。


 ひとつ取るたびに、袋の中の空気が増えていくような気がする。


 軽くなる。


 命の期限が、手の中で軽くなっていく。


「みく、口」


「にがい」


「水あるけん」


「パンは?」


「薬のあと」


「ちょっと?」


「ちょっと」


 望来はその約束で、なんとか口を開けた。


 薬を入れる。


 水を飲ませる。


 こくん。


 飲めた。


 創磨は、その動きを最後まで見る。


「飲めた」


「飲めた」


 芽依も言った。


 望来は少し顔をしかめてから、すぐに手を出した。


「パン」


「早か」


 芽依が言う。


 それでも、小さなかけらを渡した。


 望来はそれを半分食べて、半分を赤ちゃん村人に見せる。


「あの子も」


「ちょっとだけね」


 芽依が言う。


「食べ物、少なかけん」


「ちょっと」


 望来は本当に少しだけ渡した。


 赤ちゃん村人はそれを受け取る。


 創磨はそれを見ながら、薬袋をしまった。


 残り三十二回。


 十六日。


 その言葉を、声には出さなかった。


 芽依もたぶん、わかっている。


 だから言わない。


 言わなくても、二人の間には数字があった。


 夜の準備をする。


 床下の扉を確認する。


 盾を入口の近くに置く。


 つよし号をすぐ動かせる向きにする。


 望来と赤ちゃん村人の寝る場所を真ん中にする。


 たいまつを見る。


 家の横の小さな警報は、外にある。


 見えない。


 でも、そこにある。


 それだけで、創磨の耳はずっと外を向いていた。


「そうま」


 芽依が布に入る前に聞いた。


「あれ、鳴るかな」


「わからん」


「鳴らんかったら?」


「その時は、その時考える」


「怖」


「うん」


「鳴っても怖かね」


「うん」


 鳴らなくても怖い。


 鳴っても怖い。


 でも、何もないよりはいい。


 創磨は盾の位置をもう一度確認してから、ベッドの端に座った。


 望来はもう眠そうにしている。


「からん、せん?」


「今はせんでよか」


「敵、来たら?」


「来たら、からんってなるかもしれん」


「そしたら、そうま起きる?」


「起きる」


「めいも?」


「起きる」


 芽依が答えた。


「みくは?」


「みくも起きる?」


 望来は少し考えた。


「みく、ねむい」


「じゃあ、起こす」


 芽依が言う。


「みくは床下」


「赤ちゃんも?」


「赤ちゃんも」


「つよしくんは?」


「つよし号は入口」


「ひもは?」


「ひもは外」


「くもしゃんは?」


 創磨は少しだけ言葉に詰まった。


 芽依も黙った。


 望来は眠そうな顔のまま、二人を見ている。


「くもは、入れんようにする」


 創磨は言った。


「入れん?」


「うん」


「からんで?」


「からんで、わかる」


「そっか」


 望来はそれで納得したのか、赤ちゃん村人の手を握ったまま布に沈んだ。


「からん、えらいね」


 そう言って、目を閉じる。


 創磨はその言葉を聞いて、少しだけ胸が苦しくなった。


 えらいのは、からんじゃない。


 ただの木片と石と糸だ。


 それでも、今の自分たちには、それくらいしかない。


 小さな音に、命を預けようとしている。


     *


 夜は、静かだった。


 静かすぎた。


 外のたいまつの火が、窓の下で少し揺れている。


 村人の声も、もう聞こえない。


 鉄ゴーレムの重い足音も、遠くなった。


 望来は眠った。


 赤ちゃん村人も、望来の隣で目を閉じている。


 芽依は布の中で丸くなっていたが、たぶん完全には眠っていない。


 創磨も、目を閉じたり開けたりしていた。


 耳が、家の横を探している。


 かさ。


 風かもしれない。


 草かもしれない。


 何もないかもしれない。


 でも、聞こえるたびに体が固まる。


 小さな警報は、まだ鳴らない。


 鳴らないことに安心したいのに、鳴らないことも怖かった。


 本当にそこを通っていないのか。


 それとも、糸に当たらずに通ったのか。


 屋根から来たのか。


 壁の上を歩いているのか。


 考え始めると、きりがない。


 創磨は布の中で、自分の手を握った。


 父がいたら、どうしただろう。


 家の外を見に行っただろうか。


 もっとちゃんとした罠を作っただろうか。


 それとも、まず寝ろと言っただろうか。


 わからない。


 でも、父ならたぶん、怖くても動いた。


 望来が救急車に乗った朝も、父は動いていた。


 母に言っていた。


 ひとつずつでよか。


 創磨は小さく息を吐いた。


 ひとつずつ。


 今日は、音を作った。


 中途半端でも、作った。


 その時だった。


 からん。


 家の横で、小さな音がした。


 創磨は一瞬で目を開けた。


 体が布から起き上がる。


 心臓が、どん、と鳴った。


「芽依」


 声は小さかった。


 でも、芽依はすぐに起きた。


「鳴った?」


「鳴った」


「家の横?」


「たぶん」


 創磨は盾に手を伸ばした。


 手が汗で少しすべる。


 芽依は望来の方へ寄った。


 望来はまだ眠っている。


 赤ちゃん村人も、目を閉じたまま小さく動いただけだった。


 からん。


 もう一度、音がした。


 今度は少し弱かった。


 風かもしれない。


 草かもしれない。


 木片が揺れただけかもしれない。


 でも、鳴った。


 自分たちが作った小さな音が、夜の中でちゃんと聞こえた。


 創磨は窓の下に身を低くした。


 外は暗い。


 たいまつの光が届くところだけが、ぼんやり見える。


 家の横は、影になっている。


 何かいるのかはわからない。


 見えない。


 でも、知らなかった時とは違った。


 何かがあった。


 少なくとも、糸が揺れた。


「そうま」


 芽依の声が震えていた。


「見ると?」


 創磨は答えられなかった。


 見たい。


 見ないとわからない。


 でも、見るためには顔を出さなければならない。


 もし赤い目が、すぐそこにあったら。


 もし、壁に張りついていたら。


 もし、糸を鳴らしたものが、今も窓のすぐ下にいたら。


 創磨は盾を抱えたまま、息を止めた。


 望来が布の中でもぞもぞ動いた。


「……からん?」


 寝ぼけた声だった。


 芽依がすぐに望来の口元へ指を当てる。


「しー」


「くもしゃん?」


「しー」


 望来は半分眠ったまま、赤ちゃん村人の手を握り直した。


 創磨は外を見た。


 何も見えない。


 それでも、音はした。


 中途半端な罠。


 頼りない糸。


 芽依の石。


 小さな木片。


 それが、夜の中で一度だけ、自分たちに知らせた。


 何かが通ったかもしれない、と。


 創磨は盾を握りしめた。


 まだ倒せない。


 まだ外には出られない。


 弓もない。


 強い罠もない。


 でも、今夜は、ただ待っているだけではなかった。


 小さな音が、夜の形を少しだけ変えた。


 創磨は窓の下で、息を殺したまま思った。


 ――鳴った。


 怖い。


 でも、鳴った。


 知らないままじゃ、なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ