一本の糸
チェストの上に置いた糸は、本当に小さかった。
白くて、細くて、少し息を吹きかけただけでどこかへ飛んでいきそうに見える。
けれど創磨には、それがただの細い糸には見えなかった。
弓にいるもの。
敵が来たことを知らせるかもしれないもの。
そして、昨夜、赤い目のクモがこの家の近くを通った証拠。
一本だけ。
たった一本。
創磨はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。
「そうま」
芽依が横からのぞきこんだ。
「それ、ずっと見よるね」
「うん」
「見ても増えんよ」
「わかっとる」
「じゃあ、なんすると」
創磨はすぐには答えなかった。
糸を使う。
それはわかっている。
でも、何に使うかを決められなかった。
弓。
弓があれば、スケルトンが来た時、近づかずに止められるかもしれない。
でも、弓を作るには糸がもっといる。
しかも、弓を作ったところで、矢もいる。
撃つ力もいる。
当てる練習もいる。
ゲームなら、弓を持って、引いて、狙って、放すだけ。
でもこの世界では、腕が震えるかもしれない。
怖くて狙えないかもしれない。
望来を後ろに隠しながら、芽依の声を聞きながら、本当に撃てるのか。
わからなかった。
「弓にするつもりやった」
創磨は小さく言った。
「やった?」
「うん」
「今は違うと?」
「違うっていうか……」
創磨は糸を指先で少しだけ持ち上げた。
軽い。
でも、軽すぎて怖かった。
「これ、張ったら、何か通った時にわかるやつがあった気がすると」
「張る?」
「うん。ひもみたいに」
「罠?」
「罠っていうか、知らせるやつ」
芽依は少し考えた。
「来たよって?」
「うん」
「じゃあ、それが先やろ」
創磨は芽依を見た。
「弓じゃなくて?」
「だって、来たってわからんかったら、弓持っとっても怖かやん」
芽依は当たり前みたいに言った。
その言葉は、創磨の胸にすとんと落ちた。
たしかに、そうだった。
敵を遠くから止めたい。
でも、その前に、どこから来るのかを知らなければならない。
スケルトンは森の影から来た。
矢はまっすぐ飛んできた。
クモは上から来た。
前だけ見ていてもだめだった。
下だけ見ていてもだめだった。
上も、横も、屋根も、壁も、見なければいけない。
「でも、一本じゃ足りん」
創磨は言った。
「一本なら、短く張ればよかやん」
「短く張っても、そこ通らんかったら意味なか」
「じゃあ、目印」
「目印?」
「ここ、クモが通ったってわかる場所に結んどくとか」
芽依はチェストの上の糸を見た。
「白いけん、見えるやろ」
創磨は黙った。
芽依は、創磨が考えていたものとは違うことを言った。
弓でもない。
警報でもない。
ただの目印。
でも、それはそれで意味がある気がした。
クモが通った場所。
糸があった場所。
屋根に近い場所。
壁の角。
そこを覚えておくこと。
それも、守ることにつながる。
「……それもありかもしれん」
創磨が言うと、芽依は少し得意そうな顔をした。
「やろ」
その時、望来がベッドから身を乗り出した。
「ひも?」
「触らんで」
創磨と芽依の声が重なった。
望来はびくっとして、すぐに口を曲げた。
「みく、見るだけ」
「見るだけ」
芽依が少し声をやわらげる。
「大事なやつやけん」
「くもしゃんの?」
望来が聞いた。
創磨は少しだけ言葉に詰まった。
「たぶん」
「くもしゃん、これ落としたと?」
「落としたっていうか、通ったあと」
「じゃあ、返す?」
「返さん」
芽依が即答した。
「これは、こっちの」
「くもしゃん、怒る?」
「もう怒っとるかもしれん」
芽依が言ってから、自分で少し怖くなったのか、口をつぐんだ。
望来は糸をじっと見ていた。
赤ちゃん村人は望来の隣で、同じように糸を見ている。
何をわかっているのかはわからない。
でも、二人ともそれが大事なものだということだけは感じているようだった。
「みく、ひも好き」
「これは遊ぶひもじゃなか」
創磨は言った。
「これで、守ること考えよる」
「まもる?」
「うん」
「みくも?」
「みくも」
「赤ちゃんも?」
「赤ちゃんも」
望来は少し満足したように、赤ちゃん村人の手を握った。
「じゃあ、大事」
「うん。大事」
*
外は、まだ完全には暗くなっていなかった。
夕方の色が村の屋根に残っている。
屋根の上のたいまつは、まだ火が小さく見えるだけだった。けれど、夜になればその火が意味を持つ。
創磨は糸を持ったまま、家の入口に立った。
「外、行くと?」
芽依が聞く。
「家の近くだけ」
「クモ探すと?」
「探さん」
創磨は首を振った。
「クモは探さん。糸があった場所だけ見る」
「見るだけ?」
「見るだけ」
「ほんとに?」
「ほんと」
芽依は少し疑っている顔だった。
でも、創磨自身も、自分に言い聞かせていた。
探さない。
追わない。
倒そうとしない。
今できるのは、知ることだけ。
クモがどこを通ったのか。
どこが危ないのか。
どこに近づかせてはいけないのか。
それを見るだけ。
望来はつよし号に座らせた。
赤ちゃん村人も隣に乗っている。
家の入口のすぐ近く。
床下の扉まで近い場所。
「みく、ここ」
「また?」
「また」
芽依が言う。
「白い石より外に出んとよ」
「白い石、くものみち」
「そう」
望来は真面目な顔でうなずいた。
「くものみち、行かん」
「赤ちゃんも」
「赤ちゃんも行かん」
望来は赤ちゃん村人の服をつまんだ。
「ここ」
赤ちゃん村人は何も言わない。
けれど、つよし号の中でじっとしていた。
創磨は少しだけ安心して、家の横へ回った。
芽依がすぐ後ろにつく。
手には、いつものように小さな石を握っていた。
「それ、また持っとると?」
「持っとる」
「投げると?」
「わからん」
「投げる前に逃げてよ」
「わかっとる」
わかっている顔ではなかった。
でも、芽依にとっては、その石があるだけで少し落ち着くのかもしれない。
創磨も、手の中の糸を強く握りすぎないようにしながら歩いた。
家の横。
昨日、糸がついていた壁の角。
そこには、もうほとんど何も残っていなかった。
朝の光では見えた白い細い線も、夕方の色では見つけにくい。
「ここやったよね」
芽依が言った。
「うん」
「もうなか?」
「たぶん、取れたか、切れた」
「ふーん」
芽依はしゃがみこんだ。
地面を見る。
草を見る。
壁の根元を見る。
創磨は屋根の方ばかり気にしていたが、芽依は下を見ていた。
「そうま」
「なに」
「ここ、草が変」
「草?」
「ここだけ、ぺたってなっとる」
創磨は芽依の指さす場所を見た。
家の壁のすぐ下。
草の四角い面が、少しだけ押しつぶされたようになっていた。
足あととは言えない。
でも、何かが通ったようにも見える。
「クモ?」
「わからん」
芽依はそう言ってから、顔をしかめた。
「わからんけど、いや」
「うん」
創磨はその場所の近くに、芽依が持っていた白い石をひとつ置かせた。
「ここ、目印」
「石、置くと?」
「うん。ここ通ったかもしれんって」
芽依は少しだけうなずいた。
「じゃあ、こっちにも」
芽依は自分のポケットから、小さな木片を出した。
いつ入れたのか、創磨にはわからない。
「また拾っとったと?」
「なんかいるかと思ったもん」
「またそれ」
「いるやん」
芽依は当然みたいに言った。
創磨は何も言えなかった。
たしかに、いる。
今、その木片は役に立っている。
芽依は白い石から少し離れたところに、木片を置いた。
「ここからここまで、クモの道かもしれん」
その言い方に、創磨は少しだけぞっとした。
クモの道。
見えない道を作ったのは、自分たちだった。
でも、クモにも道がある。
夜の間、自分たちの知らない道を通って、屋根や壁や窓の近くへ来ている。
創磨は糸を持った手を見た。
これ一本では、道をふさげない。
でも、道を知るきっかけにはなる。
「こっちも見よう」
創磨は言った。
*
家の裏側は、昼間でも少し暗かった。
たいまつの光が届きにくい場所。
壁の影になり、畑からも入口からも見えにくい場所。
昨日までは、あまり気にしていなかった。
家の前。
入口。
村の道。
森の影。
そっちばかり見ていた。
でも、クモは前から来ないかもしれない。
上から来る。
横から来る。
見ていない場所から来る。
「ここ、いや」
芽依が言った。
「暗か」
「うん」
「たいまつ、いるね」
「でも、屋根も家の中も使うけん、全部は置けん」
「足りんの多かね」
「うん」
足りないものばかりだった。
糸も足りない。
たいまつも足りない。
食べ物も、いつも十分ではない。
鉄も少ない。
薬は、もう三十四回になる。
創磨はそこで、はっとした。
薬。
夜の分。
今日の朝に飲んで、残り三十五回になった。
今夜飲ませたら、三十四回。
十七日分。
十七日。
それでも、帰るには短すぎる。
その数字が、胸の中に冷たい石みたいに落ちた。
「そうま?」
芽依が振り向いた。
「薬」
「え?」
「夜の分飲ませたら、三十四回」
芽依の顔が少し固まった。
「三十四回……」
「十七日分」
芽依は目を伏せた。
五歳の芽依にとって、十七日という時間がどこまでわかるのか、創磨にはわからない。
でも、少ないということはわかっている。
薬袋が軽くなっていることも。
毎日減っていることも。
望来がそれを飲まないといけないことも。
芽依は小さく言った。
「早く帰らんばね」
「うん」
「でも、焦ったらだめやろ」
創磨は芽依を見た。
芽依は少し怒ったような顔をしていた。
「そうま、焦ると、無理するけん」
「……うん」
「無理して落ちたら、帰れん」
「うん」
「クモ探しに行くのも、だめ」
「行かん」
「ほんとに?」
「ほんと」
芽依は少しだけ創磨を見つめてから、うなずいた。
「ならよか」
その時、家の裏の壁の低いところで、白いものが光った。
創磨より先に、芽依が気づいた。
「あ」
「なに」
「そこ」
芽依が指さす。
壁と土の隙間。
細い白い糸が、草に引っかかっていた。
屋根の上ではない。
手を伸ばせば届く場所。
でも、暗い壁の影の中だった。
「糸」
創磨の声が小さくなった。
「取る?」
芽依が聞く。
創磨は周りを見た。
かさ、という音はしない。
赤い目もない。
でも、見えないだけかもしれない。
そこに何かが隠れているかもしれない。
創磨はゆっくり息を吸った。
「芽依、後ろ見て」
「うん」
「音したら言って」
「わかっとる」
創磨はしゃがんだ。
膝が少し冷たい土につく。
手を伸ばす。
糸に触れる。
また、ひやっとした。
糸自体は軽い。
でも、その向こうにクモの赤い目がつながっているような気がした。
創磨はゆっくり引いた。
ぷつん。
切れた。
「取れた?」
「取れた」
手の中には、さっきより少し短い糸があった。
二本目。
それだけなのに、創磨の胸は大きく鳴っていた。
「すご」
芽依が小さく言った。
「二本」
「うん」
「でも、足りん?」
「足りん」
「やっぱり」
芽依は少しだけ口を曲げた。
でも、創磨はその二本の糸を見つめていた。
足りない。
でも、一本ではなくなった。
ゼロではない。
一本でもない。
二本。
少しだけ増えた。
それだけで、頭の中の考えも少し変わった。
「もう一個だけ見る」
創磨が言うと、芽依がすぐに眉を上げた。
「ほら、無理しようとしとる」
「違う。家の裏だけ」
「それが増えるとやろ」
「……ごめん」
創磨が素直に言うと、芽依は少しだけ驚いた顔をした。
それから、ふんと鼻を鳴らす。
「わかったならよか」
「戻ろう」
「うん」
創磨は糸をなくさないように、木片と一緒に手のひらで包んだ。
家へ戻る途中、つよし号の中の望来がすぐに気づいた。
「ひも、ふえた?」
「増えた」
「みく、見る」
「見るだけね」
「見るだけ」
望来は両手を膝の上に置いて、じっと糸を見た。
赤ちゃん村人も、その横からのぞきこむ。
「ちっちゃ」
「ちっちゃいけど、大事」
芽依が言った。
「ひもで、くもしゃん止める?」
「止められん」
創磨は答えた。
「じゃあ、なにすると?」
「わかるようにする」
「なにが?」
「どこから来るか」
望来は少し考えて、首をかしげた。
「くもしゃん、道ある?」
「あるかもしれん」
「くものみち」
「うん。くもの道」
望来は白い石の方を見た。
「そこ、行かん」
「うん。行かん」
「赤ちゃんも」
「うん」
望来は赤ちゃん村人の手をぎゅっと握った。
「赤ちゃん、行かん」
赤ちゃん村人は何も言わなかった。
でも、望来の手を振りほどくことはしなかった。
*
夜の薬の時間になった。
創磨は薬袋を手に取った。
朝より、また軽い。
わかっていた。
それでも、毎回胸が重くなる。
「みく、おくすり」
望来は少し眠そうな顔をした。
「にがい」
「水あるけん」
「ひも、あとで見る」
「薬が先」
芽依が言った。
「薬飲まん子は、ひも見れん」
「みく、のむ」
望来はすぐに口を開けた。
創磨は薬を入れ、水を飲ませた。
こくん。
喉が動く。
飲めた。
その瞬間だけは、何度経験しても少し安心する。
「飲めた」
「飲めた」
芽依も言う。
創磨は薬袋の中を見た。
残り三十四回。
十七日分。
心の中で数えた数字が、静かに重くなる。
三十四。
多いようで、少ない。
十七日。
この世界に来てから、まだ何日も経っていないはずなのに、体の中ではずっと長く感じる。
その十七日で、本当に帰れるのか。
エンダードラゴン。
エンド。
ブレイズロッド。
エンダーパール。
動画で知っている言葉だけが、頭の奥で遠く光る。
でも、今の創磨たちは、クモの糸を二本持っているだけだった。
帰る道は、まだ遠すぎる。
でも、足元の道を見なければ、その遠い場所へは行けない。
創磨はチェストの上に、今日取った糸を並べた。
一本。
二本。
短いものを合わせても、まだ頼りない。
弓には足りない。
知らせる仕組みにも足りない。
でも、今日はもう別の意味があった。
糸は、クモの道を教える。
どこを通ったのか。
どこが危ないのか。
どこへ望来を近づけてはいけないのか。
創磨は家の横と裏に置いた、白い石と木片の目印を思い出した。
芽依が見つけた押しつぶされた草。
壁の隙間に引っかかった糸。
屋根の端。
家の裏の暗いところ。
少しずつ、見えないものの形が見えてきた。
「そうま」
芽依が入口の近くで外を見ていた。
「なに」
「今、音」
創磨の体が固まった。
望来も赤ちゃん村人の手を握る。
家の外。
壁の向こう。
かさ。
小さな音。
草を踏む音ではない。
骨の音でもない。
細い足が、何かをこするような音。
創磨は息を止めた。
でも、昨日とは違った。
ただ怖いだけではない。
頭の中に、昼間置いた白い石が浮かんだ。
家の横。
壁の角。
クモの道かもしれない場所。
音は、そっちからした。
「横」
創磨は小さく言った。
「家の横」
芽依が創磨を見る。
「わかると?」
「たぶん」
その「たぶん」は、昨日までのたぶんとは少し違った。
ただの勘ではない。
今日、見た。
覚えた。
印を置いた。
だから、少しだけわかる。
かさ。
もう一度、音がした。
やっぱり、家の横。
創磨は盾に手を伸ばした。
芽依は望来の前に立つ。
望来は赤ちゃん村人を抱き寄せるようにして、小さく言った。
「くものみち」
創磨はうなずいた。
「うん」
外にいる。
まだ、倒せない。
弓もない。
糸も足りない。
でも、どこにいるのかは、昨日より少しだけわかる。
創磨は盾を握ったまま、窓の下に身を低くした。
夜は、また怖い。
でも、ただ真っ暗なだけではなくなった。
一本の糸が、二本になった。
二本の糸が、見えない道を少しだけ教えてくれた。
守るには、まだ足りない。
帰るには、もっと足りない。
それでも、創磨は外の音を聞きながら思った。
――まずは、知る。
倒すより先に。
逃げるより先に。
守るために、知らなければならない。




