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妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


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20/32

上から来るもの



 朝の光は、昨日の夜が嘘だったみたいに村を照らしていた。


 家の壁も、畑も、井戸も、土で作った見えない道も、明るいところで見るとただそこにあるだけに見える。


 でも、創磨の目には違って見えた。


 あの赤い目が、まだ壁の端に残っている気がした。


 かさ。


 かさ。


 草でもない、骨でもない、細い足の音。


 創磨は家の横の土壁に残った白い糸を見つめていた。


 細い。


 本当に細い。


 風が吹けば切れそうなほど頼りないのに、その一本が、創磨の頭の中ではずっと重くなっていた。


 弓にいる。


 でも、弓だけでは足りない。


 クモは壁を登る。


 前から来るわけではない。


 上から来る。


「そうま」


 芽依の声で、創磨は振り返った。


 芽依は家の入口に立っていた。片手には小さな石を握っている。昨日の夜から、ずっと何かを持っていないと落ち着かないのかもしれない。


「まだ見よると?」


「うん」


「取らんと?」


 創磨は白い糸をもう一度見た。


 手を伸ばせば届く。


 でも、その近くをクモが通った。


 あの赤い目のやつが。


「今は取らん」


「なんで」


「先に、家をどうにかする」


「家?」


 芽依は家の壁を見た。


 木と石でできた、小さな村の家。


 昨日までは、土穴よりずっと安心できる場所だった。


 でも今は、窓も屋根も、壁の角も、全部が入り口に見えた。


「クモ、壁登るけん」


 創磨が言うと、芽依の顔が少しこわばった。


「……昨日の、ほんとに登ると?」


「たぶん」


「たぶんばっか」


「でも、ゲームでは登る」


「ゲームやろ」


「ここも、だいたい同じやん」


 芽依は言い返そうとして、黙った。


 今まで、木も取れた。


 作業台もできた。


 パンも作れた。


 ボートも地面をすべった。


 盾も矢を受けた。


 ゲームと同じところが、何度もあった。


 だから、クモだけ違うとは思えなかった。


「前の道、作ったやん」


 芽依が小さく言った。


「あれ、意味なかと?」


「意味はある」


 創磨はすぐに答えた。


「スケルトンの矢は、まっすぐ来るけん。見えんようにしたら、たぶん少しはまし」


「じゃあよかやん」


「でも、クモは上」


 創磨は家の屋根を見上げた。


 四角い木材の屋根。


 そこに何かが張りついて、夜の間にゆっくり歩いていたとしたら。


 窓の上からのぞいていたとしたら。


 屋根の端から赤い目が下りてきたとしたら。


 創磨の背中が冷たくなった。


「上も守らんば」


 芽依も屋根を見た。


 それから、嫌そうに口を曲げる。


「めい、上見たくなか」


「おれも」


「そうまも?」


「うん」


「じゃあ誰が見ると」


 創磨は答えられなかった。


 見たくない。


 でも、見ないとわからない。


 わからないまま夜になる方が、もっと怖い。


 その時、家の中から望来の声がした。


「そうまー」


 眠そうな声だった。


「おくすり?」


 創磨の胸の奥が、別の重さで沈んだ。


 朝の薬。


 昨日の夜で、残り三十六回になった。


 今から一つ飲ませる。


 そうしたら、残り三十五回。


 十七日と半分。


 創磨は白い糸から目を離した。


「先、薬」


「うん」


 芽依もすぐにうなずいた。


     *


 望来は真ん中のベッドに座っていた。


 髪は少し乱れていて、目はまだ半分しか開いていない。赤ちゃん村人はそのすぐ横に座り、望来の服の端をつまんでいる。


 つよし号は入口の近くに置いてあった。


 昨日の夜、すぐ逃げられるように寄せたままだ。


「みく、おくすり?」


「うん」


 創磨は薬袋を手に取った。


 軽い。


 もう、手に持っただけでわかる。


 袋の中身が、少しずつ減っている。


 創磨は中から一つ取り出した。


 白い小さな薬。


 これだけは、この世界で作れない。


 木を切っても出ない。


 石を掘っても出ない。


 作業台に何を並べても、たぶん出てこない。


「残り三十六回」


 創磨は小さく言った。


 芽依が横で見ている。


「これ飲んだら、三十五回」


 芽依の顔が少しだけ固くなった。


 望来はその数字を全部はわかっていない顔で、薬を見ていた。


「にがい?」


「にがい」


「やだ」


「水あるけん」


 創磨はバケツの水を器に移した。


 昨日よりも手つきは慣れている。


 でも、慣れることが怖かった。


 薬が減っていくことに慣れたくなかった。


「みく、口」


 望来は少しだけ口を曲げたあと、小さく開けた。


 薬を入れる。


 水を飲ませる。


 こくん。


 小さな喉が動く。


 創磨はそこを最後まで見た。


「飲めた」


「飲めた」


 芽依も言った。


 望来は顔をしかめてから、すぐに赤ちゃん村人の方を見た。


「あの子も、のむ?」


「この薬は、みくの」


「みくのだけ?」


「うん」


「じゃあ、あの子、パン」


「薬のあとすぐパンて」


 芽依が言う。


 望来は当たり前みたいな顔をした。


「あの子、パンすきやもん」


「みくが好きなんやろ」


「あの子も」


 赤ちゃん村人は何も言わない。


 けれど、望来のそばでじっとしていた。


 創磨は小さく息を吐いた。


 薬は減る。


 食べ物も減る。


 でも、食べないと動けない。


 守れない。


「今日は、ちゃんと食べてから外見る」


 創磨が言うと、芽依はすぐにうなずいた。


「そうまも食べるとよ」


「わかっとる」


「ほんとに?」


「ほんと」


「みくにあげんとよ」


 望来がすぐに顔を上げた。


「みく、ちょっと」


「だめ」


 芽依が先に言った。


「そうまは今日、上見ると」


「上?」


 望来が天井を見た。


「くもしゃん?」


「しゃんじゃなか」


 芽依の声が少し強くなる。


「くも、いや」


「みく、見る」


「見らん」


「なんで」


「怖かけん」


「みく、こわくなか」


 望来はそう言った。


 創磨と芽依は顔を見合わせた。


 望来は虫を怖がらない。


 家でも、小さな虫を見つけると近づこうとすることがあった。創磨と芽依が逃げるような虫でも、望来だけ平気な顔をしていた。


 でも、この世界のクモは違う。


 小さな虫ではない。


 赤い目で、家の外から見ていた。


「このクモは、だめ」


 創磨ははっきり言った。


「なんで」


「大きかけん」


「どれくらい?」


「……みくより大きいかもしれん」


 望来は少し考えた。


 それから、赤ちゃん村人を見た。


「あの子より?」


「たぶん」


 望来の顔が、やっと少し変わった。


「あの子、こわい?」


「怖いと思う」


「じゃあ、みく、まもる」


「みくが守られると」


 芽依がすぐに言った。


「みくはつよし号」


「また?」


「また」


 望来は不満そうにしたが、赤ちゃん村人の服をつまみ直した。


「じゃあ、あの子も、つよし号」


「うん。あの子も」


 創磨はパンを小さく分けた。


 望来に。


 芽依に。


 赤ちゃん村人にも少し。


 自分にも。


 今日は、自分の分を減らしすぎない。


 噛んで、飲み込む。


 腹に入れる。


 これから屋根を見る。


 登るかもしれない。


 怖くても、体が動かないと意味がない。


     *


 家の外に出ると、朝の村は静かだった。


 畑の村人がゆっくり土の列を歩いている。


 別の村人が井戸の近くで立ち止まっている。


 鉄ゴーレムは村の端を、重そうな足取りで回っていた。


 いつも通りに見える。


 でも、創磨は家の屋根から目を離せなかった。


 昨日の夜、あの上を何かが歩いたかもしれない。


 そう思うだけで、普通の屋根が急に怖くなる。


「まず、横」


 創磨は言った。


「横?」


「家の周りを見る。糸とか、足あととか」


「足あと、あると?」


「わからん」


「またわからん」


「わからんけん見ると」


 芽依は少しだけ納得したようにうなずいた。


 つよし号には望来と赤ちゃん村人を乗せた。


 家の入口から少し離れたところ、でもすぐ中に入れる位置に止める。


「みく、ここ」


「みくも行く」


「ここ」


「ちょっと」


「ちょっともだめ」


 芽依が望来の前に立つ。


「みくは見張り」


「見張り?」


「ここから、そうまとめいを見る係」


「また見る係」


「大事な係」


「みく、大事?」


「大事」


 望来は少しだけ得意そうな顔をした。


「みく、見張りする」


「降りんでね」


「降りん」


「ほんとに?」


「ほんと」


 返事だけは、いつもいい。


 創磨はその返事を信じきらないようにしながら、家の横へ回った。


 盾を持つか迷ったが、今日は両手を使うかもしれない。だから盾は家の入口に立てかけてある。


 その分、体が少し不安になる。


 何かが急に出てきたらどうする。


 そう思いながら、壁の近くを見た。


 家の横には、土の地面と草がある。


 角のあたりに、細い白い糸がもう一本ついていた。


「……あった」


 創磨が言うと、芽依が後ろからのぞきこんだ。


「これも糸?」


「たぶん」


「取る?」


「まだ」


「また?」


「触ったら、どこかにおるかもしれん」


 芽依はすぐに手を引っ込めた。


「いや」


「うん」


 白い糸は、壁の角から屋根の方へ少し伸びている。


 やっぱり上だ。


 創磨はゆっくり顔を上げた。


 屋根の端に、何か白っぽいものが引っかかっていた。


 蜘蛛の巣のかけらみたいなもの。


 それは朝の光で少しだけ光っていた。


「屋根にある」


 創磨が言うと、芽依も顔を上げた。


「……見える」


「上、行かんとわからん」


「行くと?」


 芽依の声が、少し嫌そうだった。


「行くしかなか」


「めいが行く」


「だめ」


 創磨はすぐに言った。


「なんで」


「落ちたら危なか」


「そうまも落ちるやん」


「おれが先」


「なんでそうまが先なん」


「おれの方が大きかけん」


「そんな変わらんし」


「変わる」


 芽依は納得していない顔だった。


 でも、屋根を見上げると、少しだけ口をつぐんだ。


 高い。


 家の屋根は、大人から見れば低いのかもしれない。


 でも、創磨たちには十分高かった。


 落ちたら痛いでは済まないかもしれない。


 ゲームなら、落下ダメージ。


 でもここでは、足をくじくかもしれない。


 頭を打つかもしれない。


 望来を抱えて逃げられなくなるかもしれない。


 創磨は家の壁を見た。


「ハシゴ、作る」


「ハシゴ?」


「うん。動画で見た。棒で作れる」


「ほんと?」


「たぶん」


「またたぶん」


「でも、クリエイティブで作ったことある」


 芽依は少しだけ目を細めた。


「クリエイティブのやつね」


「うん」


「じゃあ、できるかもしれんね」


 その言い方は、信じているようで、少しだけ疑っているようでもあった。


 創磨は家へ戻り、チェストを開けた。


 木材。


 棒。


 まだ足りる。


 作業台の前に座る。


 棒を並べる形を思い出す。


 左右に縦。


 真ん中にも段。


 動画で見た形。


 クリエイティブで何度も置いた形。


 でも、本物の作業台の前では、少し手が震えた。


 失敗したら材料がもったいない。


 うまくできても、登るのが怖い。


 それでも、やるしかない。


 ぽん。


 目の前に、木のハシゴが現れた。


「できた」


 創磨はそれを手に取った。


 軽い。


 盾よりずっと軽い。


 でも、これで自分の体を支えると思うと、急に頼りなく見えた。


「これで登れると?」


 芽依が聞く。


「たぶん」


「折れん?」


「わからん」


「怖」


「うん」


 望来がつよし号の中から声を上げた。


「みくも!」


「だめ!」


 創磨と芽依の声が重なった。


 望来はびくっとして、少しだけ口を曲げる。


「みく、のぼれる」


「のぼれん」


「のぼれるもん」


「みくは、つよし号係」


 芽依が言う。


「また係」


「大事な係」


 望来は不満そうにしながらも、つよし号のへりを握った。


「みく、見張り係」


「そう。それ」


 創磨は家の横にハシゴをかけた。


 木の壁に、かた、と音を立ててつく。


 思ったよりしっかりしている。


 でも、上まで続くそれを見た瞬間、創磨の足が少し止まった。


 高い。


 手をかける。


 一段目。


 足を乗せる。


 木が少しきしむ。


 創磨の背中が固まった。


「そうま」


 芽依が下から見ている。


「無理なら、めいが」


「大丈夫」


 反射みたいに答えた。


 大丈夫ではない。


 でも、今ここで芽依を登らせるわけにはいかなかった。


 創磨はもう一段上った。


 手が汗ばんでいる。


 木のハシゴが手のひらに食い込む。


 下を見ると、芽依の顔があった。


 さらに下には、つよし号の中の望来と赤ちゃん村人。


 見てしまうと、足がすくむ。


 だから、上を見た。


 屋根の端。


 白い糸。


 そこだけを見る。


 もう一段。


 もう一段。


 その時、風が吹いた。


 ハシゴが大きく揺れたわけではない。


 でも、創磨の体はびくっとした。


 足が、少しだけ滑った。


「そう!」


 頭の中で、父の声が鳴った。


 落ちるな。


 そこに足を置くな。


 危ない。


 創磨は反射的にハシゴを強く握った。


 胸がどくどく鳴る。


「そうま!」


 芽依が下から叫んだ。


「大丈夫!」


 創磨は息を吸った。


 怖い。


 でも、今の声で少しだけ戻れた。


 父はいない。


 でも、声だけは残っている。


 創磨はゆっくり足を置き直した。


「……大丈夫」


 今度は自分に言った。


 屋根の端に手が届いた。


 創磨は体を乗り出しすぎないように、そっと上をのぞいた。


 屋根の上は、思ったより広かった。


 四角い木材が並び、その上に朝の光が当たっている。


 でも、端の方に白い糸が何本か絡んでいた。


 細い。


 けれど一本ではない。


 クモが、ここを通った。


 たぶん、間違いない。


「ある」


 創磨が言うと、下から芽依が聞いた。


「何が?」


「糸。屋根にも」


「クモおる?」


 その言葉で、創磨の体が固まった。


 屋根の向こう側。


 自分から見えないところ。


 そこにいたら。


 ゆっくり覗き込んだ瞬間、赤い目があったら。


 創磨は息を止めた。


 でも、何も動かない。


 かさ、という音もしない。


 屋根の上には、今は糸だけだった。


「おらん、と思う」


「思うって!」


「見えるとこには、おらん」


 創磨はそう言い直した。


 屋根の端に、暗い隙間があった。


 木材と木材の間。


 大きな穴ではない。


 でも、小さいものなら入れるかもしれない。


 クモそのものは無理でも、足がかかったり、糸が絡んだりするには十分だった。


 それに、屋根の上は暗くなれば影になる。


 たいまつの光も届きにくい。


「ここ、暗くなる」


 創磨はつぶやいた。


「なに?」


「屋根の上も、たいまついる」


「屋根に?」


「うん。上が暗かったら、そこから来るかもしれん」


「でも、たいまつ置いたら燃えん?」


 芽依の声には、少し本気の不安があった。


 父に火で叱られた記憶があるからかもしれない。


 創磨も一瞬止まった。


 木の屋根。


 たいまつ。


 ゲームなら大丈夫なことも、ここでは怖い。


 火は便利だ。


 でも、火は危ない。


「直接は置かん」


 創磨は言った。


「石の上とか、土の上に置く」


「屋根に土?」


「少しだけ」


「変な家になるやん」


「燃えるよりよか」


 芽依は黙った。


 創磨は一度降りることにした。


 糸を取りたい気持ちはある。


 でも、屋根の上で手を伸ばすのは怖すぎる。


 足場も不安定。


 手も汗で滑る。


 今は見るだけ。


 そう決めた。


     *


 降りる方が怖かった。


 上る時は、上だけを見ていればよかった。


 でも降りる時は、足を下へ探さなければならない。


 一段。


 もう一段。


 下から芽依がずっと見ている。


「足、そこ」


「わかっとる」


「そこじゃなか、もうちょい右」


「見えんけん言って」


「言いよるやん」


 いつもの言い合いなのに、今はそれが助かった。


 芽依の声があると、下の位置がわかる。


 最後の一段を降りた時、創磨の足は少し震えていた。


 地面に立った瞬間、思わずしゃがみ込みそうになる。


「そうま、顔白か」


 芽依が言う。


「高かった」


「やけん、めいが行くって言ったのに」


「芽依も怖いやろ」


「怖くなか」


「嘘」


「……ちょっとだけ」


 芽依は小さく言った。


 創磨は少しだけ笑いそうになったが、すぐに屋根を見た。


「糸、上にもあった」


「取る?」


「まだ」


「ずっと取らんやん」


「落ちたら終わり」


 芽依は口を閉じた。


 その言葉は強かった。


 死ぬという言葉は使わない。


 でも、終わり、という言葉だけで十分だった。


 創磨は土と石を少し集めた。


 芽依も手伝う。


「何すると」


「屋根の上に、たいまつ置く場所作る」


「また上ると?」


「うん」


「休んでからにしたら」


 芽依が言った。


 創磨は少し驚いた。


「何」


「そうま、足ぷるぷるしとる」


「してなか」


「しとる」


 望来がつよし号から言った。


「そうま、ぷるぷる」


「みくまで言わんで」


「ぷるぷるそうま」


 望来が少し笑う。


 赤ちゃん村人も、よくわからないまま望来を見ている。


 創磨はため息をついた。


「ちょっと休む」


「うん。それでよか」


 芽依は満足そうに言った。


 家の前で少しだけ座った。


 パンをほんの少し食べる。


 水を飲む。


 朝の薬を飲ませたあとだから、薬の心配は今は少しだけ遠い。


 でも、残り三十五回という数字は、創磨の頭の隅にずっとあった。


 時間は減っている。


 でも、焦って落ちたら意味がない。


 焦って糸を取ろうとして、クモに襲われても意味がない。


 ひとつずつ。


 父の声が、また胸の奥に戻ってくる。


 怖くても、ひとつずつ。


     *


 二回目に屋根へ上がる時は、創磨一人ではなかった。


 芽依が下で、たいまつと土のブロックを渡す係になった。


 望来はつよし号から見張り係。


 赤ちゃん村人は望来の横。


 鉄ゴーレムは遠くを歩いている。


 村人たちは何事もないように畑を見ていた。


 創磨は土のブロックを屋根の端に置き、その上にたいまつを立てた。


 火が小さく揺れる。


 木の屋根の上にその明かりがあるだけで、少しだけ空気が変わった。


 暗い隙間が減る。


 でも、完全ではない。


 屋根の反対側はまだ見えない。


 創磨はそこまで行きたかったが、足が進まなかった。


 ハシゴから離れたら、戻れなくなる気がした。


「そうま、無理せんで!」


 芽依が下から言った。


「わかっとる」


「わかっとらん顔しとる!」


 創磨は少しだけ息を吐いた。


 たしかに、無理しようとしていた。


 糸を取る。


 屋根全部を見る。


 全部すぐに終わらせる。


 そう思っていた。


 でも、今日はそこまでしなくていい。


 昨日の夜にわかったことは、上から来るということ。


 今日やることは、上から来るかもしれない場所を少しでも減らすこと。


 全部ではない。


 少しでいい。


 創磨は屋根の端から見える範囲だけを確かめ、暗い隙間の近くに土を置いた。


 たいまつをもう一本。


 火が揺れる。


 屋根の上の白い糸が、その光に照らされて見えた。


 やっぱりある。


 けれど、手は伸ばさなかった。


「取らんと?」


 下から芽依が聞いた。


「今は取らん」


「なんで」


「糸、少なか」


「少ないと?」


「うん」


 創磨は屋根の上から、家の横の糸、壁の糸、屋根の糸を順番に見た。


 全部集めても、弓に足りるかどうかわからない。


 しかも、糸は弓だけに使うものではない。


 トリップワイヤー。


 動画で見たことがある。


 糸を張って、何かが通ったらわかる仕組み。


 感圧板よりも、通り道に使いやすいかもしれない。


 敵が来たことを知らせる。


 クモが横を通ったことを知らせる。


 夜、見えなくても音でわかる。


 弓に使うか。


 知らせるために使うか。


 創磨の中で、糸の意味がまた変わった。


 遠くから守るためのもの。


 同時に、近づいてきたことを知らせるもの。


 一本では足りない。


「糸、もっといる」


 創磨は言った。


「弓に?」


 芽依が聞く。


「弓にも」


「にも?」


「敵が来たのを知らせるやつにも、いるかもしれん」


「知らせるやつ?」


「糸を張ると。通ったらわかるやつ。動画で見た」


「ひも罠?」


「罠っていうか、警報」


「けいほう?」


「来たってわかるやつ」


 芽依は少し考えた。


「じゃあ、弓は?」


「弓もいる」


「じゃあ、足りんやん」


「うん」


 創磨はうなずいた。


 その通りだった。


 足りない。


 木も、鉄も、食べ物も、薬も、時間も、全部足りない。


 そして今は、糸も足りない。


 でも、足りないことがわかっただけでも、昨日より前に進んでいる。


 創磨はそう思おうとした。


     *


 昼前には、家の周りが少しだけ変わっていた。


 屋根の端に土の小さな台。


 その上にたいまつ。


 窓の下には、木の板を少し足した。


 窓を完全にふさぐと外が見えなくなる。


 でも、そのままだと何かがのぞく。


 だから、下半分だけをふさいだ。


 望来の目の高さからは外が見えにくくなる。


 大きなクモの目が、いきなり望来の顔の前に来ることも減るかもしれない。


 つよし号が通る入口の横には、木の低い板を置いた。


 トラップドアに近いものを作れないか、創磨は考えていた。


 床下の扉で使った仕組み。


 小さく開くふた。


 閉めれば穴を隠せる。


 窓にも、屋根裏にも、使えるかもしれない。


 でも、今すぐ全部は無理だった。


「ここ、閉めるやついる」


 創磨が窓を見ながら言うと、芽依が首をかしげた。


「板でよかやん」


「板だけだと、外見えん」


「見えん方が怖くなか?」


「見えんのも怖か」


「あー」


 芽依は少し納得したように言った。


「見たいけど、見られたくなかとね」


「うん」


「めんどくさ」


「うん」


 望来がつよし号から窓を見た。


「みく、見えん」


「それでよか」


「いや」


「赤い目、見たいと?」


 芽依が言うと、望来は少し考えた。


「……ちょっと」


「見らんでよか!」


 芽依は本気で嫌そうだった。


 創磨は窓の板をもう一度押した。


 完全ではない。


 でも、少しはまし。


 家の横には、芽依が白い石を置いた。


「ここ、クモ来たところ」


「目印?」


「うん」


 芽依はさらに、葉っぱを少し離れたところに置く。


「ここから先、みく来たらだめ」


「石、わかるかな」


「白いけん、わかる」


「夜は?」


「たいまつの近くなら見える」


 芽依はそう言ってから、望来を見た。


「みく、この白い石より外、行かんとよ」


「なんで」


「クモの道」


「くものみち?」


「そう」


 芽依は少し声を低くした。


「赤い目が通った道」


 望来は白い石を見た。


 それから、赤ちゃん村人の手をぎゅっと握った。


「行かん」


「うん。えらい」


「赤ちゃんも行かん」


「そう。連れて行かんで」


「みく、守る」


 芽依は何か言いかけたが、今度は止めなかった。


 望来にとって、その子を守ることは大事なのだ。


 ただし、守るために危ない方へ行かせない。


 それを少しずつ教えなければならない。


     *


 午後になると、創磨の腕と足は重くなっていた。


 ハシゴを上って降りて、土を持って、たいまつを立てて、板を押さえて。


 一つ一つは小さな作業なのに、体はちゃんと疲れる。


 ゲームなら、材料を置けば終わる。


 でも、ここでは持ち上げる。


 運ぶ。


 登る。


 手を伸ばす。


 怖がる。


 降りる。


 それだけで、お腹も減る。


 創磨は家の前に座り込んだ。


「休む」


 自分から言った。


 芽依はすぐにうなずいた。


「うん。休まんば」


 少し前までなら、創磨はもう少し無理をしたかもしれない。


 でも、無理をして落ちたり、夜に動けなくなったりしたら意味がない。


 パンと焼きじゃがいもを分ける。


 望来は相変わらずパンを欲しがった。


「パン」


「じゃがいもも」


「パン」


「パン少なか」


「みく、パンがよか」


「じゃあ半分」


 創磨は小さく割った。


 芽依が創磨を見る。


「そうまの分は?」


「ある」


「ほんとに?」


「ある」


 芽依はまだ疑っている顔だったが、今日は何も言わなかった。


 創磨は自分の分をちゃんと食べた。


 腹に入る。


 少し力が戻る。


 でも、疲れは消えない。


 望来は赤ちゃん村人にも、ほんの少しだけパンを渡した。


「あの子も」


「ちょっとだけよ」


 芽依が言う。


「ちょっと」


「みくのちょっとは大きか」


「これは、ちっちゃいちょっと」


 望来はそう言って、本当に小さなかけらを渡した。


 赤ちゃん村人はそれを受け取り、少しずつ食べた。


 望来はそれを見て、満足そうにうなずいた。


「食べた」


「うん」


「赤ちゃん、えらい」


「みくも、ちゃんと食べんば」


「みくも食べよる」


 望来は自分のパンを口へ入れた。


 食べている姿だけ見ると、いつもの望来だった。


 家にいる時みたいに、食べ物を見つけて、欲しがって、少しわがままを言って、でも結局食べる。


 その当たり前の姿が、創磨には少しだけ救いだった。


 薬も。


 食べ物も。


 守りも。


 全部足りない。


 それでも、望来が食べている。


 今は、それが大事だった。


     *


 夕方が近づく前に、創磨はもう一度だけ屋根の端を見た。


 昼の光が斜めに当たり、さっきよりはっきり見えた。


 創磨は少し迷ってから、ハシゴに手をかけた。


「そうま?」


 芽依が気づく。


「取ると?」


「少しだけ」


「危なくなか?」


「ハシゴの近くだけ」


「めいも下で見る」


「うん」


 創磨はゆっくり上った。


 朝より少しだけ慣れていた。


 でも怖さは消えない。


 ハシゴの近く。


 屋根の端。


 そこに絡んだ糸だけなら、手が届く。


 創磨は片手でハシゴを握ったまま、もう片方の手を伸ばした。


 細い糸に指が触れる。


 ひやっとした。


 糸そのものが冷たいわけではない。


 あの赤い目とつながっている気がしたからだ。


 創磨はそっと引いた。


 ぷつん。


 糸が切れた。


 手の中に、白い細い糸が残った。


 たったそれだけ。


 でも、創磨の心臓は大きく鳴っていた。


「取れた?」


 芽依が下から聞く。


「取れた」


「クモおる?」


「おらん」


 そう答えた瞬間だった。


 屋根の向こう側で、かさ、と音がした。


 創磨の体が固まる。


 芽依も下で息をのんだ。


「そうま」


 小さな声。


 創磨は動けなかった。


 屋根の向こう。


 見えないところ。


 かさ。


 もう一度。


 風ではない。


 創磨は手の中の糸を握った。


 今、屋根の向こうを見るべきか。


 すぐ降りるべきか。


 見たい。


 でも、見たくない。


 ゲームなら、敵の位置を確認する。


 でも、ここでは目が合うかもしれない。


 飛びかかってくるかもしれない。


「降りて!」


 芽依が叫んだ。


 その声で、創磨の体が動いた。


 創磨は屋根の向こうを見なかった。


 見ないまま、ハシゴに足をかけた。


 一段。


 もう一段。


 手が滑りそうになる。


 でも、降りる。


 見ない。


 欲張らない。


 父の声が、また頭の奥で鳴った。


 ――そう!


 創磨はハシゴを強く握った。


 地面に足がついた瞬間、芽依がすぐに創磨の腕をつかんだ。


「戻る!」


「うん」


 二人は走った。


 望来がつよし号の中で目を丸くする。


「くもしゃん?」


「家!」


 芽依が叫ぶ。


「みく、家!」


 望来は赤ちゃん村人の服をつかんだ。


「赤ちゃん、家!」


 つよし号を家の入口へ引き戻す。


 創磨は手の中の糸を握ったまま、扉を閉めた。


 外では、もう何の音もしなかった。


 でも、それがかえって怖かった。


 屋根の向こうに何かがいたのか。


 ただ風で葉が擦れただけなのか。


 わからない。


 でも、わからないまま降りた。


 今日は、それでよかった。


 創磨は手を開いた。


 白い糸が一本、手のひらに残っていた。


「取れたね」


 芽依が言った。


「うん」


「でも、怖かった」


「うん」


「もう今日は上らんで」


「うん」


 創磨はすぐにうなずいた。


 糸は一本。


 一本だけでは足りない。


 でも、ゼロではない。


     *


 夕方になった。


 創磨はチェストの上に、取った糸を置いた。


 白く細い糸。


 朝から見ていたものと合わせても、まだ頼りない。


 弓には足りない。


 警報にも足りない。


 でも、昨日までは取ることすらできなかった。


 今日は、一本だけ取れた。


 それだけでも前に進んでいる。


 そう思わなければ、怖さだけで心が止まりそうだった。


 窓の外では、屋根のたいまつが夕方の光の中で小さく揺れている。


 まだ火は弱く見える。


 でも、暗くなれば、きっとその火が上の影を少しだけ消してくれる。


 望来は真ん中のベッドに座り、赤ちゃん村人の手をつまんでいた。


 芽依は入口側に座り、白い石の目印がちゃんと見えるかを何度も確認している。


「そうま」


 芽依が言った。


「今日、ちょっとは守れた?」


 創磨はすぐには答えなかった。


 屋根を見た。


 窓を見た。


 ハシゴを見た。


 チェストの上の糸を見た。


「ちょっと」


 創磨は言った。


「ちょっとだけ」


「ちょっとか」


「うん」


「まあ、昨日よりはよかね」


「うん」


 昨日よりはいい。


 でも、まだ足りない。


 前から来るものには壁。


 遠くから来る矢には見えない道。


 上から来るものには屋根の明かり。


 それでも、全部は防げない。


 創磨は手の中に残った糸の感触を思い出した。


 細くて、頼りない。


 でも、あの糸がなければ弓も作れない。


 警報も作れない。


 遠くから守ることも、近づいたことを知ることもできない。


 外で、風が草を揺らした。


 かさ、と音がした。


 三人とも、そちらを見た。


 でも、それはただの風だった。


 たぶん。


 創磨は小さく息を吸った。


 糸は、一本。


 守りたいものは、たくさん。


 夜は、また来る。


 ――糸は、足りない。

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