上から来るもの
朝の光は、昨日の夜が嘘だったみたいに村を照らしていた。
家の壁も、畑も、井戸も、土で作った見えない道も、明るいところで見るとただそこにあるだけに見える。
でも、創磨の目には違って見えた。
あの赤い目が、まだ壁の端に残っている気がした。
かさ。
かさ。
草でもない、骨でもない、細い足の音。
創磨は家の横の土壁に残った白い糸を見つめていた。
細い。
本当に細い。
風が吹けば切れそうなほど頼りないのに、その一本が、創磨の頭の中ではずっと重くなっていた。
弓にいる。
でも、弓だけでは足りない。
クモは壁を登る。
前から来るわけではない。
上から来る。
「そうま」
芽依の声で、創磨は振り返った。
芽依は家の入口に立っていた。片手には小さな石を握っている。昨日の夜から、ずっと何かを持っていないと落ち着かないのかもしれない。
「まだ見よると?」
「うん」
「取らんと?」
創磨は白い糸をもう一度見た。
手を伸ばせば届く。
でも、その近くをクモが通った。
あの赤い目のやつが。
「今は取らん」
「なんで」
「先に、家をどうにかする」
「家?」
芽依は家の壁を見た。
木と石でできた、小さな村の家。
昨日までは、土穴よりずっと安心できる場所だった。
でも今は、窓も屋根も、壁の角も、全部が入り口に見えた。
「クモ、壁登るけん」
創磨が言うと、芽依の顔が少しこわばった。
「……昨日の、ほんとに登ると?」
「たぶん」
「たぶんばっか」
「でも、ゲームでは登る」
「ゲームやろ」
「ここも、だいたい同じやん」
芽依は言い返そうとして、黙った。
今まで、木も取れた。
作業台もできた。
パンも作れた。
ボートも地面をすべった。
盾も矢を受けた。
ゲームと同じところが、何度もあった。
だから、クモだけ違うとは思えなかった。
「前の道、作ったやん」
芽依が小さく言った。
「あれ、意味なかと?」
「意味はある」
創磨はすぐに答えた。
「スケルトンの矢は、まっすぐ来るけん。見えんようにしたら、たぶん少しはまし」
「じゃあよかやん」
「でも、クモは上」
創磨は家の屋根を見上げた。
四角い木材の屋根。
そこに何かが張りついて、夜の間にゆっくり歩いていたとしたら。
窓の上からのぞいていたとしたら。
屋根の端から赤い目が下りてきたとしたら。
創磨の背中が冷たくなった。
「上も守らんば」
芽依も屋根を見た。
それから、嫌そうに口を曲げる。
「めい、上見たくなか」
「おれも」
「そうまも?」
「うん」
「じゃあ誰が見ると」
創磨は答えられなかった。
見たくない。
でも、見ないとわからない。
わからないまま夜になる方が、もっと怖い。
その時、家の中から望来の声がした。
「そうまー」
眠そうな声だった。
「おくすり?」
創磨の胸の奥が、別の重さで沈んだ。
朝の薬。
昨日の夜で、残り三十六回になった。
今から一つ飲ませる。
そうしたら、残り三十五回。
十七日と半分。
創磨は白い糸から目を離した。
「先、薬」
「うん」
芽依もすぐにうなずいた。
*
望来は真ん中のベッドに座っていた。
髪は少し乱れていて、目はまだ半分しか開いていない。赤ちゃん村人はそのすぐ横に座り、望来の服の端をつまんでいる。
つよし号は入口の近くに置いてあった。
昨日の夜、すぐ逃げられるように寄せたままだ。
「みく、おくすり?」
「うん」
創磨は薬袋を手に取った。
軽い。
もう、手に持っただけでわかる。
袋の中身が、少しずつ減っている。
創磨は中から一つ取り出した。
白い小さな薬。
これだけは、この世界で作れない。
木を切っても出ない。
石を掘っても出ない。
作業台に何を並べても、たぶん出てこない。
「残り三十六回」
創磨は小さく言った。
芽依が横で見ている。
「これ飲んだら、三十五回」
芽依の顔が少しだけ固くなった。
望来はその数字を全部はわかっていない顔で、薬を見ていた。
「にがい?」
「にがい」
「やだ」
「水あるけん」
創磨はバケツの水を器に移した。
昨日よりも手つきは慣れている。
でも、慣れることが怖かった。
薬が減っていくことに慣れたくなかった。
「みく、口」
望来は少しだけ口を曲げたあと、小さく開けた。
薬を入れる。
水を飲ませる。
こくん。
小さな喉が動く。
創磨はそこを最後まで見た。
「飲めた」
「飲めた」
芽依も言った。
望来は顔をしかめてから、すぐに赤ちゃん村人の方を見た。
「あの子も、のむ?」
「この薬は、みくの」
「みくのだけ?」
「うん」
「じゃあ、あの子、パン」
「薬のあとすぐパンて」
芽依が言う。
望来は当たり前みたいな顔をした。
「あの子、パンすきやもん」
「みくが好きなんやろ」
「あの子も」
赤ちゃん村人は何も言わない。
けれど、望来のそばでじっとしていた。
創磨は小さく息を吐いた。
薬は減る。
食べ物も減る。
でも、食べないと動けない。
守れない。
「今日は、ちゃんと食べてから外見る」
創磨が言うと、芽依はすぐにうなずいた。
「そうまも食べるとよ」
「わかっとる」
「ほんとに?」
「ほんと」
「みくにあげんとよ」
望来がすぐに顔を上げた。
「みく、ちょっと」
「だめ」
芽依が先に言った。
「そうまは今日、上見ると」
「上?」
望来が天井を見た。
「くもしゃん?」
「しゃんじゃなか」
芽依の声が少し強くなる。
「くも、いや」
「みく、見る」
「見らん」
「なんで」
「怖かけん」
「みく、こわくなか」
望来はそう言った。
創磨と芽依は顔を見合わせた。
望来は虫を怖がらない。
家でも、小さな虫を見つけると近づこうとすることがあった。創磨と芽依が逃げるような虫でも、望来だけ平気な顔をしていた。
でも、この世界のクモは違う。
小さな虫ではない。
赤い目で、家の外から見ていた。
「このクモは、だめ」
創磨ははっきり言った。
「なんで」
「大きかけん」
「どれくらい?」
「……みくより大きいかもしれん」
望来は少し考えた。
それから、赤ちゃん村人を見た。
「あの子より?」
「たぶん」
望来の顔が、やっと少し変わった。
「あの子、こわい?」
「怖いと思う」
「じゃあ、みく、まもる」
「みくが守られると」
芽依がすぐに言った。
「みくはつよし号」
「また?」
「また」
望来は不満そうにしたが、赤ちゃん村人の服をつまみ直した。
「じゃあ、あの子も、つよし号」
「うん。あの子も」
創磨はパンを小さく分けた。
望来に。
芽依に。
赤ちゃん村人にも少し。
自分にも。
今日は、自分の分を減らしすぎない。
噛んで、飲み込む。
腹に入れる。
これから屋根を見る。
登るかもしれない。
怖くても、体が動かないと意味がない。
*
家の外に出ると、朝の村は静かだった。
畑の村人がゆっくり土の列を歩いている。
別の村人が井戸の近くで立ち止まっている。
鉄ゴーレムは村の端を、重そうな足取りで回っていた。
いつも通りに見える。
でも、創磨は家の屋根から目を離せなかった。
昨日の夜、あの上を何かが歩いたかもしれない。
そう思うだけで、普通の屋根が急に怖くなる。
「まず、横」
創磨は言った。
「横?」
「家の周りを見る。糸とか、足あととか」
「足あと、あると?」
「わからん」
「またわからん」
「わからんけん見ると」
芽依は少しだけ納得したようにうなずいた。
つよし号には望来と赤ちゃん村人を乗せた。
家の入口から少し離れたところ、でもすぐ中に入れる位置に止める。
「みく、ここ」
「みくも行く」
「ここ」
「ちょっと」
「ちょっともだめ」
芽依が望来の前に立つ。
「みくは見張り」
「見張り?」
「ここから、そうまとめいを見る係」
「また見る係」
「大事な係」
「みく、大事?」
「大事」
望来は少しだけ得意そうな顔をした。
「みく、見張りする」
「降りんでね」
「降りん」
「ほんとに?」
「ほんと」
返事だけは、いつもいい。
創磨はその返事を信じきらないようにしながら、家の横へ回った。
盾を持つか迷ったが、今日は両手を使うかもしれない。だから盾は家の入口に立てかけてある。
その分、体が少し不安になる。
何かが急に出てきたらどうする。
そう思いながら、壁の近くを見た。
家の横には、土の地面と草がある。
角のあたりに、細い白い糸がもう一本ついていた。
「……あった」
創磨が言うと、芽依が後ろからのぞきこんだ。
「これも糸?」
「たぶん」
「取る?」
「まだ」
「また?」
「触ったら、どこかにおるかもしれん」
芽依はすぐに手を引っ込めた。
「いや」
「うん」
白い糸は、壁の角から屋根の方へ少し伸びている。
やっぱり上だ。
創磨はゆっくり顔を上げた。
屋根の端に、何か白っぽいものが引っかかっていた。
蜘蛛の巣のかけらみたいなもの。
それは朝の光で少しだけ光っていた。
「屋根にある」
創磨が言うと、芽依も顔を上げた。
「……見える」
「上、行かんとわからん」
「行くと?」
芽依の声が、少し嫌そうだった。
「行くしかなか」
「めいが行く」
「だめ」
創磨はすぐに言った。
「なんで」
「落ちたら危なか」
「そうまも落ちるやん」
「おれが先」
「なんでそうまが先なん」
「おれの方が大きかけん」
「そんな変わらんし」
「変わる」
芽依は納得していない顔だった。
でも、屋根を見上げると、少しだけ口をつぐんだ。
高い。
家の屋根は、大人から見れば低いのかもしれない。
でも、創磨たちには十分高かった。
落ちたら痛いでは済まないかもしれない。
ゲームなら、落下ダメージ。
でもここでは、足をくじくかもしれない。
頭を打つかもしれない。
望来を抱えて逃げられなくなるかもしれない。
創磨は家の壁を見た。
「ハシゴ、作る」
「ハシゴ?」
「うん。動画で見た。棒で作れる」
「ほんと?」
「たぶん」
「またたぶん」
「でも、クリエイティブで作ったことある」
芽依は少しだけ目を細めた。
「クリエイティブのやつね」
「うん」
「じゃあ、できるかもしれんね」
その言い方は、信じているようで、少しだけ疑っているようでもあった。
創磨は家へ戻り、チェストを開けた。
木材。
棒。
まだ足りる。
作業台の前に座る。
棒を並べる形を思い出す。
左右に縦。
真ん中にも段。
動画で見た形。
クリエイティブで何度も置いた形。
でも、本物の作業台の前では、少し手が震えた。
失敗したら材料がもったいない。
うまくできても、登るのが怖い。
それでも、やるしかない。
ぽん。
目の前に、木のハシゴが現れた。
「できた」
創磨はそれを手に取った。
軽い。
盾よりずっと軽い。
でも、これで自分の体を支えると思うと、急に頼りなく見えた。
「これで登れると?」
芽依が聞く。
「たぶん」
「折れん?」
「わからん」
「怖」
「うん」
望来がつよし号の中から声を上げた。
「みくも!」
「だめ!」
創磨と芽依の声が重なった。
望来はびくっとして、少しだけ口を曲げる。
「みく、のぼれる」
「のぼれん」
「のぼれるもん」
「みくは、つよし号係」
芽依が言う。
「また係」
「大事な係」
望来は不満そうにしながらも、つよし号のへりを握った。
「みく、見張り係」
「そう。それ」
創磨は家の横にハシゴをかけた。
木の壁に、かた、と音を立ててつく。
思ったよりしっかりしている。
でも、上まで続くそれを見た瞬間、創磨の足が少し止まった。
高い。
手をかける。
一段目。
足を乗せる。
木が少しきしむ。
創磨の背中が固まった。
「そうま」
芽依が下から見ている。
「無理なら、めいが」
「大丈夫」
反射みたいに答えた。
大丈夫ではない。
でも、今ここで芽依を登らせるわけにはいかなかった。
創磨はもう一段上った。
手が汗ばんでいる。
木のハシゴが手のひらに食い込む。
下を見ると、芽依の顔があった。
さらに下には、つよし号の中の望来と赤ちゃん村人。
見てしまうと、足がすくむ。
だから、上を見た。
屋根の端。
白い糸。
そこだけを見る。
もう一段。
もう一段。
その時、風が吹いた。
ハシゴが大きく揺れたわけではない。
でも、創磨の体はびくっとした。
足が、少しだけ滑った。
「そう!」
頭の中で、父の声が鳴った。
落ちるな。
そこに足を置くな。
危ない。
創磨は反射的にハシゴを強く握った。
胸がどくどく鳴る。
「そうま!」
芽依が下から叫んだ。
「大丈夫!」
創磨は息を吸った。
怖い。
でも、今の声で少しだけ戻れた。
父はいない。
でも、声だけは残っている。
創磨はゆっくり足を置き直した。
「……大丈夫」
今度は自分に言った。
屋根の端に手が届いた。
創磨は体を乗り出しすぎないように、そっと上をのぞいた。
屋根の上は、思ったより広かった。
四角い木材が並び、その上に朝の光が当たっている。
でも、端の方に白い糸が何本か絡んでいた。
細い。
けれど一本ではない。
クモが、ここを通った。
たぶん、間違いない。
「ある」
創磨が言うと、下から芽依が聞いた。
「何が?」
「糸。屋根にも」
「クモおる?」
その言葉で、創磨の体が固まった。
屋根の向こう側。
自分から見えないところ。
そこにいたら。
ゆっくり覗き込んだ瞬間、赤い目があったら。
創磨は息を止めた。
でも、何も動かない。
かさ、という音もしない。
屋根の上には、今は糸だけだった。
「おらん、と思う」
「思うって!」
「見えるとこには、おらん」
創磨はそう言い直した。
屋根の端に、暗い隙間があった。
木材と木材の間。
大きな穴ではない。
でも、小さいものなら入れるかもしれない。
クモそのものは無理でも、足がかかったり、糸が絡んだりするには十分だった。
それに、屋根の上は暗くなれば影になる。
たいまつの光も届きにくい。
「ここ、暗くなる」
創磨はつぶやいた。
「なに?」
「屋根の上も、たいまついる」
「屋根に?」
「うん。上が暗かったら、そこから来るかもしれん」
「でも、たいまつ置いたら燃えん?」
芽依の声には、少し本気の不安があった。
父に火で叱られた記憶があるからかもしれない。
創磨も一瞬止まった。
木の屋根。
たいまつ。
ゲームなら大丈夫なことも、ここでは怖い。
火は便利だ。
でも、火は危ない。
「直接は置かん」
創磨は言った。
「石の上とか、土の上に置く」
「屋根に土?」
「少しだけ」
「変な家になるやん」
「燃えるよりよか」
芽依は黙った。
創磨は一度降りることにした。
糸を取りたい気持ちはある。
でも、屋根の上で手を伸ばすのは怖すぎる。
足場も不安定。
手も汗で滑る。
今は見るだけ。
そう決めた。
*
降りる方が怖かった。
上る時は、上だけを見ていればよかった。
でも降りる時は、足を下へ探さなければならない。
一段。
もう一段。
下から芽依がずっと見ている。
「足、そこ」
「わかっとる」
「そこじゃなか、もうちょい右」
「見えんけん言って」
「言いよるやん」
いつもの言い合いなのに、今はそれが助かった。
芽依の声があると、下の位置がわかる。
最後の一段を降りた時、創磨の足は少し震えていた。
地面に立った瞬間、思わずしゃがみ込みそうになる。
「そうま、顔白か」
芽依が言う。
「高かった」
「やけん、めいが行くって言ったのに」
「芽依も怖いやろ」
「怖くなか」
「嘘」
「……ちょっとだけ」
芽依は小さく言った。
創磨は少しだけ笑いそうになったが、すぐに屋根を見た。
「糸、上にもあった」
「取る?」
「まだ」
「ずっと取らんやん」
「落ちたら終わり」
芽依は口を閉じた。
その言葉は強かった。
死ぬという言葉は使わない。
でも、終わり、という言葉だけで十分だった。
創磨は土と石を少し集めた。
芽依も手伝う。
「何すると」
「屋根の上に、たいまつ置く場所作る」
「また上ると?」
「うん」
「休んでからにしたら」
芽依が言った。
創磨は少し驚いた。
「何」
「そうま、足ぷるぷるしとる」
「してなか」
「しとる」
望来がつよし号から言った。
「そうま、ぷるぷる」
「みくまで言わんで」
「ぷるぷるそうま」
望来が少し笑う。
赤ちゃん村人も、よくわからないまま望来を見ている。
創磨はため息をついた。
「ちょっと休む」
「うん。それでよか」
芽依は満足そうに言った。
家の前で少しだけ座った。
パンをほんの少し食べる。
水を飲む。
朝の薬を飲ませたあとだから、薬の心配は今は少しだけ遠い。
でも、残り三十五回という数字は、創磨の頭の隅にずっとあった。
時間は減っている。
でも、焦って落ちたら意味がない。
焦って糸を取ろうとして、クモに襲われても意味がない。
ひとつずつ。
父の声が、また胸の奥に戻ってくる。
怖くても、ひとつずつ。
*
二回目に屋根へ上がる時は、創磨一人ではなかった。
芽依が下で、たいまつと土のブロックを渡す係になった。
望来はつよし号から見張り係。
赤ちゃん村人は望来の横。
鉄ゴーレムは遠くを歩いている。
村人たちは何事もないように畑を見ていた。
創磨は土のブロックを屋根の端に置き、その上にたいまつを立てた。
火が小さく揺れる。
木の屋根の上にその明かりがあるだけで、少しだけ空気が変わった。
暗い隙間が減る。
でも、完全ではない。
屋根の反対側はまだ見えない。
創磨はそこまで行きたかったが、足が進まなかった。
ハシゴから離れたら、戻れなくなる気がした。
「そうま、無理せんで!」
芽依が下から言った。
「わかっとる」
「わかっとらん顔しとる!」
創磨は少しだけ息を吐いた。
たしかに、無理しようとしていた。
糸を取る。
屋根全部を見る。
全部すぐに終わらせる。
そう思っていた。
でも、今日はそこまでしなくていい。
昨日の夜にわかったことは、上から来るということ。
今日やることは、上から来るかもしれない場所を少しでも減らすこと。
全部ではない。
少しでいい。
創磨は屋根の端から見える範囲だけを確かめ、暗い隙間の近くに土を置いた。
たいまつをもう一本。
火が揺れる。
屋根の上の白い糸が、その光に照らされて見えた。
やっぱりある。
けれど、手は伸ばさなかった。
「取らんと?」
下から芽依が聞いた。
「今は取らん」
「なんで」
「糸、少なか」
「少ないと?」
「うん」
創磨は屋根の上から、家の横の糸、壁の糸、屋根の糸を順番に見た。
全部集めても、弓に足りるかどうかわからない。
しかも、糸は弓だけに使うものではない。
トリップワイヤー。
動画で見たことがある。
糸を張って、何かが通ったらわかる仕組み。
感圧板よりも、通り道に使いやすいかもしれない。
敵が来たことを知らせる。
クモが横を通ったことを知らせる。
夜、見えなくても音でわかる。
弓に使うか。
知らせるために使うか。
創磨の中で、糸の意味がまた変わった。
遠くから守るためのもの。
同時に、近づいてきたことを知らせるもの。
一本では足りない。
「糸、もっといる」
創磨は言った。
「弓に?」
芽依が聞く。
「弓にも」
「にも?」
「敵が来たのを知らせるやつにも、いるかもしれん」
「知らせるやつ?」
「糸を張ると。通ったらわかるやつ。動画で見た」
「ひも罠?」
「罠っていうか、警報」
「けいほう?」
「来たってわかるやつ」
芽依は少し考えた。
「じゃあ、弓は?」
「弓もいる」
「じゃあ、足りんやん」
「うん」
創磨はうなずいた。
その通りだった。
足りない。
木も、鉄も、食べ物も、薬も、時間も、全部足りない。
そして今は、糸も足りない。
でも、足りないことがわかっただけでも、昨日より前に進んでいる。
創磨はそう思おうとした。
*
昼前には、家の周りが少しだけ変わっていた。
屋根の端に土の小さな台。
その上にたいまつ。
窓の下には、木の板を少し足した。
窓を完全にふさぐと外が見えなくなる。
でも、そのままだと何かがのぞく。
だから、下半分だけをふさいだ。
望来の目の高さからは外が見えにくくなる。
大きなクモの目が、いきなり望来の顔の前に来ることも減るかもしれない。
つよし号が通る入口の横には、木の低い板を置いた。
トラップドアに近いものを作れないか、創磨は考えていた。
床下の扉で使った仕組み。
小さく開くふた。
閉めれば穴を隠せる。
窓にも、屋根裏にも、使えるかもしれない。
でも、今すぐ全部は無理だった。
「ここ、閉めるやついる」
創磨が窓を見ながら言うと、芽依が首をかしげた。
「板でよかやん」
「板だけだと、外見えん」
「見えん方が怖くなか?」
「見えんのも怖か」
「あー」
芽依は少し納得したように言った。
「見たいけど、見られたくなかとね」
「うん」
「めんどくさ」
「うん」
望来がつよし号から窓を見た。
「みく、見えん」
「それでよか」
「いや」
「赤い目、見たいと?」
芽依が言うと、望来は少し考えた。
「……ちょっと」
「見らんでよか!」
芽依は本気で嫌そうだった。
創磨は窓の板をもう一度押した。
完全ではない。
でも、少しはまし。
家の横には、芽依が白い石を置いた。
「ここ、クモ来たところ」
「目印?」
「うん」
芽依はさらに、葉っぱを少し離れたところに置く。
「ここから先、みく来たらだめ」
「石、わかるかな」
「白いけん、わかる」
「夜は?」
「たいまつの近くなら見える」
芽依はそう言ってから、望来を見た。
「みく、この白い石より外、行かんとよ」
「なんで」
「クモの道」
「くものみち?」
「そう」
芽依は少し声を低くした。
「赤い目が通った道」
望来は白い石を見た。
それから、赤ちゃん村人の手をぎゅっと握った。
「行かん」
「うん。えらい」
「赤ちゃんも行かん」
「そう。連れて行かんで」
「みく、守る」
芽依は何か言いかけたが、今度は止めなかった。
望来にとって、その子を守ることは大事なのだ。
ただし、守るために危ない方へ行かせない。
それを少しずつ教えなければならない。
*
午後になると、創磨の腕と足は重くなっていた。
ハシゴを上って降りて、土を持って、たいまつを立てて、板を押さえて。
一つ一つは小さな作業なのに、体はちゃんと疲れる。
ゲームなら、材料を置けば終わる。
でも、ここでは持ち上げる。
運ぶ。
登る。
手を伸ばす。
怖がる。
降りる。
それだけで、お腹も減る。
創磨は家の前に座り込んだ。
「休む」
自分から言った。
芽依はすぐにうなずいた。
「うん。休まんば」
少し前までなら、創磨はもう少し無理をしたかもしれない。
でも、無理をして落ちたり、夜に動けなくなったりしたら意味がない。
パンと焼きじゃがいもを分ける。
望来は相変わらずパンを欲しがった。
「パン」
「じゃがいもも」
「パン」
「パン少なか」
「みく、パンがよか」
「じゃあ半分」
創磨は小さく割った。
芽依が創磨を見る。
「そうまの分は?」
「ある」
「ほんとに?」
「ある」
芽依はまだ疑っている顔だったが、今日は何も言わなかった。
創磨は自分の分をちゃんと食べた。
腹に入る。
少し力が戻る。
でも、疲れは消えない。
望来は赤ちゃん村人にも、ほんの少しだけパンを渡した。
「あの子も」
「ちょっとだけよ」
芽依が言う。
「ちょっと」
「みくのちょっとは大きか」
「これは、ちっちゃいちょっと」
望来はそう言って、本当に小さなかけらを渡した。
赤ちゃん村人はそれを受け取り、少しずつ食べた。
望来はそれを見て、満足そうにうなずいた。
「食べた」
「うん」
「赤ちゃん、えらい」
「みくも、ちゃんと食べんば」
「みくも食べよる」
望来は自分のパンを口へ入れた。
食べている姿だけ見ると、いつもの望来だった。
家にいる時みたいに、食べ物を見つけて、欲しがって、少しわがままを言って、でも結局食べる。
その当たり前の姿が、創磨には少しだけ救いだった。
薬も。
食べ物も。
守りも。
全部足りない。
それでも、望来が食べている。
今は、それが大事だった。
*
夕方が近づく前に、創磨はもう一度だけ屋根の端を見た。
昼の光が斜めに当たり、さっきよりはっきり見えた。
創磨は少し迷ってから、ハシゴに手をかけた。
「そうま?」
芽依が気づく。
「取ると?」
「少しだけ」
「危なくなか?」
「ハシゴの近くだけ」
「めいも下で見る」
「うん」
創磨はゆっくり上った。
朝より少しだけ慣れていた。
でも怖さは消えない。
ハシゴの近く。
屋根の端。
そこに絡んだ糸だけなら、手が届く。
創磨は片手でハシゴを握ったまま、もう片方の手を伸ばした。
細い糸に指が触れる。
ひやっとした。
糸そのものが冷たいわけではない。
あの赤い目とつながっている気がしたからだ。
創磨はそっと引いた。
ぷつん。
糸が切れた。
手の中に、白い細い糸が残った。
たったそれだけ。
でも、創磨の心臓は大きく鳴っていた。
「取れた?」
芽依が下から聞く。
「取れた」
「クモおる?」
「おらん」
そう答えた瞬間だった。
屋根の向こう側で、かさ、と音がした。
創磨の体が固まる。
芽依も下で息をのんだ。
「そうま」
小さな声。
創磨は動けなかった。
屋根の向こう。
見えないところ。
かさ。
もう一度。
風ではない。
創磨は手の中の糸を握った。
今、屋根の向こうを見るべきか。
すぐ降りるべきか。
見たい。
でも、見たくない。
ゲームなら、敵の位置を確認する。
でも、ここでは目が合うかもしれない。
飛びかかってくるかもしれない。
「降りて!」
芽依が叫んだ。
その声で、創磨の体が動いた。
創磨は屋根の向こうを見なかった。
見ないまま、ハシゴに足をかけた。
一段。
もう一段。
手が滑りそうになる。
でも、降りる。
見ない。
欲張らない。
父の声が、また頭の奥で鳴った。
――そう!
創磨はハシゴを強く握った。
地面に足がついた瞬間、芽依がすぐに創磨の腕をつかんだ。
「戻る!」
「うん」
二人は走った。
望来がつよし号の中で目を丸くする。
「くもしゃん?」
「家!」
芽依が叫ぶ。
「みく、家!」
望来は赤ちゃん村人の服をつかんだ。
「赤ちゃん、家!」
つよし号を家の入口へ引き戻す。
創磨は手の中の糸を握ったまま、扉を閉めた。
外では、もう何の音もしなかった。
でも、それがかえって怖かった。
屋根の向こうに何かがいたのか。
ただ風で葉が擦れただけなのか。
わからない。
でも、わからないまま降りた。
今日は、それでよかった。
創磨は手を開いた。
白い糸が一本、手のひらに残っていた。
「取れたね」
芽依が言った。
「うん」
「でも、怖かった」
「うん」
「もう今日は上らんで」
「うん」
創磨はすぐにうなずいた。
糸は一本。
一本だけでは足りない。
でも、ゼロではない。
*
夕方になった。
創磨はチェストの上に、取った糸を置いた。
白く細い糸。
朝から見ていたものと合わせても、まだ頼りない。
弓には足りない。
警報にも足りない。
でも、昨日までは取ることすらできなかった。
今日は、一本だけ取れた。
それだけでも前に進んでいる。
そう思わなければ、怖さだけで心が止まりそうだった。
窓の外では、屋根のたいまつが夕方の光の中で小さく揺れている。
まだ火は弱く見える。
でも、暗くなれば、きっとその火が上の影を少しだけ消してくれる。
望来は真ん中のベッドに座り、赤ちゃん村人の手をつまんでいた。
芽依は入口側に座り、白い石の目印がちゃんと見えるかを何度も確認している。
「そうま」
芽依が言った。
「今日、ちょっとは守れた?」
創磨はすぐには答えなかった。
屋根を見た。
窓を見た。
ハシゴを見た。
チェストの上の糸を見た。
「ちょっと」
創磨は言った。
「ちょっとだけ」
「ちょっとか」
「うん」
「まあ、昨日よりはよかね」
「うん」
昨日よりはいい。
でも、まだ足りない。
前から来るものには壁。
遠くから来る矢には見えない道。
上から来るものには屋根の明かり。
それでも、全部は防げない。
創磨は手の中に残った糸の感触を思い出した。
細くて、頼りない。
でも、あの糸がなければ弓も作れない。
警報も作れない。
遠くから守ることも、近づいたことを知ることもできない。
外で、風が草を揺らした。
かさ、と音がした。
三人とも、そちらを見た。
でも、それはただの風だった。
たぶん。
創磨は小さく息を吸った。
糸は、一本。
守りたいものは、たくさん。
夜は、また来る。
――糸は、足りない。




