表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

17/32

【外伝】ある朝



 その朝は、最初から特別だったわけではなかった。


 創磨は、いつもより少し早く目が覚めていた。


 カーテンのすき間から、白っぽい朝の光が入っている。家の中には、まだみんながちゃんと起きる前の静けさがあった。


 父の足音が、廊下の向こうでした。


 母は台所にいる。食器の音と、冷蔵庫を開ける音がする。


 芽依と望来は、まだ寝ていた。


 創磨は布団の中で少しだけ体を丸めてから、時計を見た。


 起きる時間だった。


 学校の日なら、起きて、顔を洗って、着替えて、朝ごはんを食べて、ランドセルの中をもう一回見る。


 そうしないと落ち着かない。


 宿題を入れたか。


 筆箱はあるか。


 連絡帳はあるか。


 忘れ物をすると、胸の奥がざわざわする。


 創磨は布団から出て、静かに部屋を出た。


 リビングに行くと、父がテーブルの上のものを少しずつ片づけていた。


「おはよう」


「おはよ」


 父の声はいつも通りだった。


「早かね」


「目、覚めた」


「そうか」


 父はそれだけ言って、台所の母の方を見た。


「望来、まだ寝とる?」


「寝とると思う。あとで起こす」


 母が答えた。


 その声も、いつも通りだった。


 創磨はテーブルの椅子に座った。


 テレビはついていない。


 朝の家は、父と母の動く音でできている。


 水道の音。


 皿の音。


 足音。


 父が低く咳をする音。


 それらが全部、いつもの朝だった。


 しばらくして、芽依がぼさぼさの髪で出てきた。


「ねむか……」


「顔、すごかよ」


 創磨が言うと、芽依はすぐににらんだ。


「そうまも寝ぐせあるし」


「ないし」


「ある」


「ない」


「あるって」


 いつもの言い合いだった。


 父が少しだけ笑って、母が「先に顔洗ってきなさい」と言った。


 芽依はぶつぶつ言いながら洗面所へ行く。


 望来は、まだ起きてこなかった。


 いつものことではあった。


 望来は朝が弱い。


 起こしても、布団の中で丸まって、「ねむか」と言う。母が抱き起こして、芽依が横から「みく、起きて」と言って、それでもしばらくぼんやりしている。


 だから、最初は誰もおかしいとは思わなかった。


「望来、起こしてくるね」


 母が寝室へ向かった。


 創磨はテーブルの上の箸をそろえていた。


 父は台所の横で、薬ケースの置いてある棚を見ていた。


 白い薬ケース。


 望来の朝と夜の薬。


 イーケプラ。


 望来はうまく言えなくて、よく「イケプラ」と言った。


「みく、イケプラのむ」


 そう言って、自分から口を開ける時もある。


 苦いと言って嫌がる時もある。


 母が「大事な薬よ」と言い、父が水を持ってきて、飲んだあとに「飲めたか」と必ず見る。


 それが、望来の日常だった。


 寝室の方から、母の声がした。


「望来?」


 少しだけ、声の調子が違った。


 創磨は箸を持つ手を止めた。


 父も顔を上げる。


「望来、起きて」


 母の声がもう一度する。


 少し早い。


 少し高い。


 芽依が洗面所から戻ってきた。


「みく、まだ寝とると?」


 創磨は答えなかった。


 寝室の方で、母が短く息を吸う音がした。


「お父さん」


 その呼び方で、家の空気が変わった。


 父がすぐに動いた。


 創磨も、芽依も、反射みたいに寝室の方を向いた。


 母が望来を抱き起こしていた。


 望来の目は開いている。


 でも、いつもの望来ではなかった。


 ぼんやりしている。


 呼んでも、すぐに返事がない。


 体に力が入っていないように見える。


 母の顔から血の気が引いていた。


「望来、わかる? ママよ」


 望来は母の方を見ているようで、見ていないようだった。


 小さな手が、布団の上で弱く動いた。


 芽依が創磨の服を握った。


「そうま、みく、どうしたと」


「わからん」


 創磨の声も小さくなった。


 父が望来のそばに膝をついた。


「望来」


 低い声だった。


 父は望来の顔をのぞきこみ、呼吸を見て、目の動きを見て、体の力の入り方を確かめていた。


 母は震える手で、望来の背中を支えている。


「昨日の薬……」


 母がふいに言った。


 その声は、もう母のいつもの声ではなかった。


「夜の薬、飲ませたよね。飲ませた……と思う。あれ、ケース……」


 母は振り返って、棚の方を見た。


 父がすぐに立ち上がり、薬ケースを取った。


 白いケースを開ける。


 朝の分。


 夜の分。


 父の表情が一瞬だけ固くなった。


 それを見て、創磨は何か悪いことが起きているとわかった。


 母が薬ケースをのぞきこんだ。


「夜の分……残ってる」


 その一言で、母の顔が崩れた。


「飲めてなかった……? 昨日、飲ませたつもりで……」


「落ち着いて」


 父が言った。


 声は落ち着いていた。


 でも、創磨は父の手が少しだけ強く薬ケースを握ったのを見た。


「救急車」


「え」


「救急車呼ぼう。薬の袋、保険証、母子手帳。持ってきて」


 父は短く言った。


 母は一瞬、動けなかった。


 次の瞬間、はっとしたように電話を手に取った。


 母の声が震えながら、救急車を呼んでいる。


 父は望来を抱き上げた。


 望来の体は、いつもよりずっと頼りなく見えた。


 父の腕の中で、望来は小さく息をしている。


 創磨は何もできなかった。


 何をすればいいのか、わからなかった。


 芽依は泣きそうな顔で、創磨の服を強く握っている。


「そうま……」


 芽依の声が震えていた。


「みく、大丈夫よね」


 創磨は答えられなかった。


 大丈夫、と言いたかった。


 でも、その言葉が喉のところで止まった。


 父は望来を抱いたまま、母に言った。


「薬の袋。いつものイーケプラのやつも。全部持ってきて」


「うん、うん」


「保険証も」


「わかってる、わかってる」


 母はそう言いながら、明らかにわかっていない動きをしていた。


 いつもの母なら、薬の場所も、保険証の場所も、すぐにわかる。


 でもその朝の母は、同じ引き出しを何度も開け、同じバッグの中を何度も探した。


 父は責めなかった。


 ただ、望来を抱いたまま、もう一度言った。


「大丈夫。ひとつずつでよか」


 その言葉は、母に向けたものだった。


 けれど創磨には、父が自分にも言っているように聞こえた。


 ひとつずつ。


 怖くても、ひとつずつ。


 外からサイレンの音が近づいてきた。


 遠くで聞こえていた音が、どんどん大きくなる。


 創磨の胸の中まで、サイレンの音でいっぱいになった。


 救急車が家の前に止まった。


 玄関の外に、赤い光が回っている。


 朝の白い光と、救急車の赤い光が混ざって、玄関がいつもの場所ではないみたいに見えた。


 救急隊の人が入ってきた。


 父は望来の様子を説明した。


 夜の薬が残っていたこと。


 朝から反応がいつもと違うこと。


 てんかんの薬を飲んでいること。


 イーケプラのこと。


 父の声は、ちゃんとしていた。


 ちゃんとしているように聞こえた。


 母は泣きそうになりながら、薬袋を差し出している。


 芽依はもう泣いていた。


 創磨は、ただ立っていた。


 望来と母は、救急車に乗った。


 後ろの扉は開いたままで、救急隊の人が中で望来の様子を見ている。


 母は望来のそばに座り、何度も何度も名前を呼んでいた。


「望来。望来、ママおるよ」


 創磨は玄関の前に立ったまま動けなかった。


 芽依は泣きながら、創磨の服をつかんでいる。


 父は救急車のすぐそばにいた。


 けれど、少しだけ離れた。


 離れたと言っても、救急車の中が見える場所だった。


 父はポケットからタバコを取り出した。


 火をつける手が、ほんの少し震えているように見えた。


 父は何も言わずに煙を吸った。


 それから、長く吐いた。


 白い煙が、朝の空気にほどけていく。


 創磨は、その横顔を見ていた。


 父はさっきまで、ちゃんとしていた。


 望来を抱いて、顔色を見て、呼吸を見て、母に「落ち着いて」と言って、救急隊の人に薬のことを伝えていた。


 でも今の父は、タバコを一本吸わないと次に進めないくらい、怖かったのかもしれない。


 父は救急車の中を見たまま、もう一度煙を吐いた。


 赤い光が父の顔を照らして、消えて、また照らした。


 創磨は初めて思った。


 父も、怖いのかもしれない。


 大人でも。


 父でも。


 それでも、父は動いていた。


 父はタバコを灰皿に押しつけるように消し、短く息を吸い直した。


「創磨」


 名前を呼ばれて、創磨は肩をびくっとさせた。


「中に入って、荷物を確認する。病院に行く準備せんば」


「……うん」


「芽依も、こっち」


 父の声は、いつもの父の声に戻っていた。


 でも創磨は、その前の煙を見ていた。


 救急車がまだそこにあって、望来と母が中にいる時。


 父が一度だけ、少し離れて、タバコを吸ったこと。


 怖くなくなったわけではない。


 怖いまま、頭を切り替えていたこと。


 救急車の扉が閉まった。


 サイレンがまた鳴る。


 母と望来を乗せた救急車が、ゆっくり動き出した。


 芽依が泣きながら叫んだ。


「みく!」


 創磨も声を出そうとした。


 でも、出なかった。


 赤い光が角を曲がって見えなくなっても、サイレンの音だけはしばらく残っていた。


 父はすぐに家へ戻った。


 母から連絡が来るかもしれないから、電話をそばに置く。


 薬の袋を確認する。


 保険証のことを確認する。


 創磨と芽依に着替えさせる。


 父は止まらなかった。


 創磨はその後ろについて動いた。


 自分で何かを考えていたわけではない。


 父が動くから、創磨も動いた。


 芽依は何度も泣きそうになりながら、創磨のそばから離れなかった。


 病院へ向かう車の中は、静かだった。


 父は運転していた。


 信号で止まるたび、スマホを見たいのを我慢しているように見えた。


 母から連絡が入ったのは、病院に近づいてからだった。


 父はスピーカーにして、短く返事をした。


「うん。着く。もうすぐ着く」


 母の声は、まだ震えていた。


 でも、少しだけ違っていた。


 家を出る時より、ほんの少しだけ、息ができている声だった。


 あとで聞いたことだった。


 病院に着いてから、母が急に思い出したのだという。


 発作が出た時の薬。


 もしもの時に使うように、と言われていた緊急の薬。


 ブコラム。


 母はそれを持っていた。


 でも、家では思い出せなかった。


 救急車を呼ぶ時も、望来を抱える父の横でも、母はただ必死だった。


 いつもなら覚えているはずのもの。


 もしもの時のために持っていた薬。


 それすら、怖さで頭から抜けていた。


 病院に着いて、先生の顔を見て、薬袋を出した時、母はようやく思い出した。


「先生、薬……発作の時の薬、あります」


 母はバッグの中を慌てて探った。


「これです。発作の時にって……」


 先生が受け取り、望来の状態を見ながら、その薬を使った。


 創磨は、その場にはいなかった。


 その時、創磨と芽依はまだ父の車の中だった。


 けれど、病院に着いて、小児科の部屋へ入った時、望来は少しだけ戻っていた。


 ベッドの上にいた。


 母がそばに座り、望来の小さな手を握っている。


 家で見た望来とは、少し違っていた。


 目が開いている。


 母の声に、ゆっくり反応している。


 まだぼんやりしていた。


 声も弱かった。


 でも、創磨たちが入ってくると、望来はほんの少しだけまばたきをした。


「みく」


 芽依が泣きそうな声で呼んだ。


 望来はすぐには返事をしなかった。


 少し遅れて、ゆっくり目を動かす。


 そして、本当に小さな声で言った。


「……めい」


 その一言で、芽依の顔がくしゃっと崩れた。


「みくぅ……」


 芽依は泣いた。


 創磨も、胸の奥に詰まっていたものが一気にほどけるような気がした。


 父は何も言わなかった。


 ただ、ベッドの上の望来を見て、ゆっくり息を吐いた。


 家の前でタバコの煙を吐いた時とは違う息だった。


 今度は、少しだけ戻ってこられた人の息だった。


 母は望来の手を握ったまま、小さく言った。


「思い出せんかった……薬、持っとったのに」


 父は母を責めなかった。


「怖かったけん」


 短くそう言った。


 母は口元を押さえて、何度もうなずいた。


 創磨はその言葉を聞いていた。


 怖かったけん。


 母も怖かった。


 父も怖かった。


 自分も、芽依も怖かった。


 薬があっても、怖さで忘れてしまうことがある。


 薬は、持っていればいいものではなかった。


 思い出して、使って、効いて、それでようやく望来が望来に戻るものだった。


 望来は完全にいつも通りではなかった。


 まだ眠そうで、ぼんやりしていて、声も弱い。


 それでも、望来は望来だった。


 創磨の知っている望来が、少しだけ戻っていた。


「そうま」


 母が呼んだ。


 創磨はベッドのそばへ行った。


 望来はぼんやりした目で創磨を見た。


「みく」


 創磨が呼ぶと、望来は少しだけ口を動かした。


「……そうま」


 それだけだった。


 それだけで、創磨は泣きそうになった。


 あの朝、創磨は初めて知った。


 薬は、ただの白い粒ではない。


 飲めば終わりのものでもない。


 薬があることも、思い出せることも、ちゃんと使えることも、当たり前ではない。


 望来がいつもの望来でいることは、当たり前ではない。


 朝と夜に飲むイーケプラ。


 望来が「イケプラ」と呼ぶ薬。


 そして、もしもの時に使う薬。


 その一つひとつが、望来をこちら側に引き戻していた。


 創磨はその朝のことを、ずっと覚えている。


 救急車の赤い光。


 母の震えた声。


 父がタバコを吸って、怖いまま頭を切り替えた横顔。


 病院の白い天井。


 ベッドの上で、小さく「そうま」と呼んだ望来の声。


 だから創磨は、薬を軽く見られない。


 飲んだかどうかを、曖昧にはできない。


 飲み込む喉の動きを、最後まで見てしまう。


 あの朝、何もできなかったから。


 今度は、ちゃんと見ていたいと思ったから。


 薬は、望来が望来のままでいるためのものだった。


 そして今、その薬は、異世界の小さな家の中で、あと十四回しか残っていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ