【外伝】ある朝
その朝は、最初から特別だったわけではなかった。
創磨は、いつもより少し早く目が覚めていた。
カーテンのすき間から、白っぽい朝の光が入っている。家の中には、まだみんながちゃんと起きる前の静けさがあった。
父の足音が、廊下の向こうでした。
母は台所にいる。食器の音と、冷蔵庫を開ける音がする。
芽依と望来は、まだ寝ていた。
創磨は布団の中で少しだけ体を丸めてから、時計を見た。
起きる時間だった。
学校の日なら、起きて、顔を洗って、着替えて、朝ごはんを食べて、ランドセルの中をもう一回見る。
そうしないと落ち着かない。
宿題を入れたか。
筆箱はあるか。
連絡帳はあるか。
忘れ物をすると、胸の奥がざわざわする。
創磨は布団から出て、静かに部屋を出た。
リビングに行くと、父がテーブルの上のものを少しずつ片づけていた。
「おはよう」
「おはよ」
父の声はいつも通りだった。
「早かね」
「目、覚めた」
「そうか」
父はそれだけ言って、台所の母の方を見た。
「望来、まだ寝とる?」
「寝とると思う。あとで起こす」
母が答えた。
その声も、いつも通りだった。
創磨はテーブルの椅子に座った。
テレビはついていない。
朝の家は、父と母の動く音でできている。
水道の音。
皿の音。
足音。
父が低く咳をする音。
それらが全部、いつもの朝だった。
しばらくして、芽依がぼさぼさの髪で出てきた。
「ねむか……」
「顔、すごかよ」
創磨が言うと、芽依はすぐににらんだ。
「そうまも寝ぐせあるし」
「ないし」
「ある」
「ない」
「あるって」
いつもの言い合いだった。
父が少しだけ笑って、母が「先に顔洗ってきなさい」と言った。
芽依はぶつぶつ言いながら洗面所へ行く。
望来は、まだ起きてこなかった。
いつものことではあった。
望来は朝が弱い。
起こしても、布団の中で丸まって、「ねむか」と言う。母が抱き起こして、芽依が横から「みく、起きて」と言って、それでもしばらくぼんやりしている。
だから、最初は誰もおかしいとは思わなかった。
「望来、起こしてくるね」
母が寝室へ向かった。
創磨はテーブルの上の箸をそろえていた。
父は台所の横で、薬ケースの置いてある棚を見ていた。
白い薬ケース。
望来の朝と夜の薬。
イーケプラ。
望来はうまく言えなくて、よく「イケプラ」と言った。
「みく、イケプラのむ」
そう言って、自分から口を開ける時もある。
苦いと言って嫌がる時もある。
母が「大事な薬よ」と言い、父が水を持ってきて、飲んだあとに「飲めたか」と必ず見る。
それが、望来の日常だった。
寝室の方から、母の声がした。
「望来?」
少しだけ、声の調子が違った。
創磨は箸を持つ手を止めた。
父も顔を上げる。
「望来、起きて」
母の声がもう一度する。
少し早い。
少し高い。
芽依が洗面所から戻ってきた。
「みく、まだ寝とると?」
創磨は答えなかった。
寝室の方で、母が短く息を吸う音がした。
「お父さん」
その呼び方で、家の空気が変わった。
父がすぐに動いた。
創磨も、芽依も、反射みたいに寝室の方を向いた。
母が望来を抱き起こしていた。
望来の目は開いている。
でも、いつもの望来ではなかった。
ぼんやりしている。
呼んでも、すぐに返事がない。
体に力が入っていないように見える。
母の顔から血の気が引いていた。
「望来、わかる? ママよ」
望来は母の方を見ているようで、見ていないようだった。
小さな手が、布団の上で弱く動いた。
芽依が創磨の服を握った。
「そうま、みく、どうしたと」
「わからん」
創磨の声も小さくなった。
父が望来のそばに膝をついた。
「望来」
低い声だった。
父は望来の顔をのぞきこみ、呼吸を見て、目の動きを見て、体の力の入り方を確かめていた。
母は震える手で、望来の背中を支えている。
「昨日の薬……」
母がふいに言った。
その声は、もう母のいつもの声ではなかった。
「夜の薬、飲ませたよね。飲ませた……と思う。あれ、ケース……」
母は振り返って、棚の方を見た。
父がすぐに立ち上がり、薬ケースを取った。
白いケースを開ける。
朝の分。
夜の分。
父の表情が一瞬だけ固くなった。
それを見て、創磨は何か悪いことが起きているとわかった。
母が薬ケースをのぞきこんだ。
「夜の分……残ってる」
その一言で、母の顔が崩れた。
「飲めてなかった……? 昨日、飲ませたつもりで……」
「落ち着いて」
父が言った。
声は落ち着いていた。
でも、創磨は父の手が少しだけ強く薬ケースを握ったのを見た。
「救急車」
「え」
「救急車呼ぼう。薬の袋、保険証、母子手帳。持ってきて」
父は短く言った。
母は一瞬、動けなかった。
次の瞬間、はっとしたように電話を手に取った。
母の声が震えながら、救急車を呼んでいる。
父は望来を抱き上げた。
望来の体は、いつもよりずっと頼りなく見えた。
父の腕の中で、望来は小さく息をしている。
創磨は何もできなかった。
何をすればいいのか、わからなかった。
芽依は泣きそうな顔で、創磨の服を強く握っている。
「そうま……」
芽依の声が震えていた。
「みく、大丈夫よね」
創磨は答えられなかった。
大丈夫、と言いたかった。
でも、その言葉が喉のところで止まった。
父は望来を抱いたまま、母に言った。
「薬の袋。いつものイーケプラのやつも。全部持ってきて」
「うん、うん」
「保険証も」
「わかってる、わかってる」
母はそう言いながら、明らかにわかっていない動きをしていた。
いつもの母なら、薬の場所も、保険証の場所も、すぐにわかる。
でもその朝の母は、同じ引き出しを何度も開け、同じバッグの中を何度も探した。
父は責めなかった。
ただ、望来を抱いたまま、もう一度言った。
「大丈夫。ひとつずつでよか」
その言葉は、母に向けたものだった。
けれど創磨には、父が自分にも言っているように聞こえた。
ひとつずつ。
怖くても、ひとつずつ。
外からサイレンの音が近づいてきた。
遠くで聞こえていた音が、どんどん大きくなる。
創磨の胸の中まで、サイレンの音でいっぱいになった。
救急車が家の前に止まった。
玄関の外に、赤い光が回っている。
朝の白い光と、救急車の赤い光が混ざって、玄関がいつもの場所ではないみたいに見えた。
救急隊の人が入ってきた。
父は望来の様子を説明した。
夜の薬が残っていたこと。
朝から反応がいつもと違うこと。
てんかんの薬を飲んでいること。
イーケプラのこと。
父の声は、ちゃんとしていた。
ちゃんとしているように聞こえた。
母は泣きそうになりながら、薬袋を差し出している。
芽依はもう泣いていた。
創磨は、ただ立っていた。
望来と母は、救急車に乗った。
後ろの扉は開いたままで、救急隊の人が中で望来の様子を見ている。
母は望来のそばに座り、何度も何度も名前を呼んでいた。
「望来。望来、ママおるよ」
創磨は玄関の前に立ったまま動けなかった。
芽依は泣きながら、創磨の服をつかんでいる。
父は救急車のすぐそばにいた。
けれど、少しだけ離れた。
離れたと言っても、救急車の中が見える場所だった。
父はポケットからタバコを取り出した。
火をつける手が、ほんの少し震えているように見えた。
父は何も言わずに煙を吸った。
それから、長く吐いた。
白い煙が、朝の空気にほどけていく。
創磨は、その横顔を見ていた。
父はさっきまで、ちゃんとしていた。
望来を抱いて、顔色を見て、呼吸を見て、母に「落ち着いて」と言って、救急隊の人に薬のことを伝えていた。
でも今の父は、タバコを一本吸わないと次に進めないくらい、怖かったのかもしれない。
父は救急車の中を見たまま、もう一度煙を吐いた。
赤い光が父の顔を照らして、消えて、また照らした。
創磨は初めて思った。
父も、怖いのかもしれない。
大人でも。
父でも。
それでも、父は動いていた。
父はタバコを灰皿に押しつけるように消し、短く息を吸い直した。
「創磨」
名前を呼ばれて、創磨は肩をびくっとさせた。
「中に入って、荷物を確認する。病院に行く準備せんば」
「……うん」
「芽依も、こっち」
父の声は、いつもの父の声に戻っていた。
でも創磨は、その前の煙を見ていた。
救急車がまだそこにあって、望来と母が中にいる時。
父が一度だけ、少し離れて、タバコを吸ったこと。
怖くなくなったわけではない。
怖いまま、頭を切り替えていたこと。
救急車の扉が閉まった。
サイレンがまた鳴る。
母と望来を乗せた救急車が、ゆっくり動き出した。
芽依が泣きながら叫んだ。
「みく!」
創磨も声を出そうとした。
でも、出なかった。
赤い光が角を曲がって見えなくなっても、サイレンの音だけはしばらく残っていた。
父はすぐに家へ戻った。
母から連絡が来るかもしれないから、電話をそばに置く。
薬の袋を確認する。
保険証のことを確認する。
創磨と芽依に着替えさせる。
父は止まらなかった。
創磨はその後ろについて動いた。
自分で何かを考えていたわけではない。
父が動くから、創磨も動いた。
芽依は何度も泣きそうになりながら、創磨のそばから離れなかった。
病院へ向かう車の中は、静かだった。
父は運転していた。
信号で止まるたび、スマホを見たいのを我慢しているように見えた。
母から連絡が入ったのは、病院に近づいてからだった。
父はスピーカーにして、短く返事をした。
「うん。着く。もうすぐ着く」
母の声は、まだ震えていた。
でも、少しだけ違っていた。
家を出る時より、ほんの少しだけ、息ができている声だった。
あとで聞いたことだった。
病院に着いてから、母が急に思い出したのだという。
発作が出た時の薬。
もしもの時に使うように、と言われていた緊急の薬。
ブコラム。
母はそれを持っていた。
でも、家では思い出せなかった。
救急車を呼ぶ時も、望来を抱える父の横でも、母はただ必死だった。
いつもなら覚えているはずのもの。
もしもの時のために持っていた薬。
それすら、怖さで頭から抜けていた。
病院に着いて、先生の顔を見て、薬袋を出した時、母はようやく思い出した。
「先生、薬……発作の時の薬、あります」
母はバッグの中を慌てて探った。
「これです。発作の時にって……」
先生が受け取り、望来の状態を見ながら、その薬を使った。
創磨は、その場にはいなかった。
その時、創磨と芽依はまだ父の車の中だった。
けれど、病院に着いて、小児科の部屋へ入った時、望来は少しだけ戻っていた。
ベッドの上にいた。
母がそばに座り、望来の小さな手を握っている。
家で見た望来とは、少し違っていた。
目が開いている。
母の声に、ゆっくり反応している。
まだぼんやりしていた。
声も弱かった。
でも、創磨たちが入ってくると、望来はほんの少しだけまばたきをした。
「みく」
芽依が泣きそうな声で呼んだ。
望来はすぐには返事をしなかった。
少し遅れて、ゆっくり目を動かす。
そして、本当に小さな声で言った。
「……めい」
その一言で、芽依の顔がくしゃっと崩れた。
「みくぅ……」
芽依は泣いた。
創磨も、胸の奥に詰まっていたものが一気にほどけるような気がした。
父は何も言わなかった。
ただ、ベッドの上の望来を見て、ゆっくり息を吐いた。
家の前でタバコの煙を吐いた時とは違う息だった。
今度は、少しだけ戻ってこられた人の息だった。
母は望来の手を握ったまま、小さく言った。
「思い出せんかった……薬、持っとったのに」
父は母を責めなかった。
「怖かったけん」
短くそう言った。
母は口元を押さえて、何度もうなずいた。
創磨はその言葉を聞いていた。
怖かったけん。
母も怖かった。
父も怖かった。
自分も、芽依も怖かった。
薬があっても、怖さで忘れてしまうことがある。
薬は、持っていればいいものではなかった。
思い出して、使って、効いて、それでようやく望来が望来に戻るものだった。
望来は完全にいつも通りではなかった。
まだ眠そうで、ぼんやりしていて、声も弱い。
それでも、望来は望来だった。
創磨の知っている望来が、少しだけ戻っていた。
「そうま」
母が呼んだ。
創磨はベッドのそばへ行った。
望来はぼんやりした目で創磨を見た。
「みく」
創磨が呼ぶと、望来は少しだけ口を動かした。
「……そうま」
それだけだった。
それだけで、創磨は泣きそうになった。
あの朝、創磨は初めて知った。
薬は、ただの白い粒ではない。
飲めば終わりのものでもない。
薬があることも、思い出せることも、ちゃんと使えることも、当たり前ではない。
望来がいつもの望来でいることは、当たり前ではない。
朝と夜に飲むイーケプラ。
望来が「イケプラ」と呼ぶ薬。
そして、もしもの時に使う薬。
その一つひとつが、望来をこちら側に引き戻していた。
創磨はその朝のことを、ずっと覚えている。
救急車の赤い光。
母の震えた声。
父がタバコを吸って、怖いまま頭を切り替えた横顔。
病院の白い天井。
ベッドの上で、小さく「そうま」と呼んだ望来の声。
だから創磨は、薬を軽く見られない。
飲んだかどうかを、曖昧にはできない。
飲み込む喉の動きを、最後まで見てしまう。
あの朝、何もできなかったから。
今度は、ちゃんと見ていたいと思ったから。
薬は、望来が望来のままでいるためのものだった。
そして今、その薬は、異世界の小さな家の中で、あと十四回しか残っていない。




