矢の音
朝になっても、創磨の左腕には、昨日の盾の重さが残っていた。
痛い、というほどではない。
けれど、手を開いたり閉じたりすると、肘のあたりがじんじんする。肩も少し重い。寝て起きたら戻ると思っていたのに、体はそんなに簡単ではなかった。
創磨はベッドの端に座ったまま、自分の左腕を見た。
この腕で、ほんとうに守れるのか。
昨日は、小枝や土のかたまりを受けただけだった。
それでも重かった。
それでも痛かった。
もし本当に矢が飛んできたら。
もし、望来の前で構えなければいけなかったら。
「そうま」
芽依の声がして、創磨は顔を上げた。
芽依はまだ眠そうな顔をしていたが、目だけはちゃんとこちらを見ていた。
「腕、痛かと?」
「ちょっと」
「ちょっとじゃなか顔しとる」
「ちょっとたい」
「昨日、無理しすぎ」
芽依はそう言って、望来の方を見た。
望来は真ん中のベッドで、まだ半分布にくるまっている。小さな手だけが外へ出ていて、薬袋の方に伸びていた。
「みく、おくすり?」
寝起きの声だった。
「朝のやつね」
創磨は薬袋を手に取った。
白い袋。
軽い。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。
昨日の夜も飲ませた。
今朝も飲ませる。
それはいいことのはずだった。
飲めることは、安心のはずだった。
でも、飲ませるたびに減っていく。
創磨は一瞬だけ、中身を全部出して数えたい気持ちになった。
けれど、今はやめた。
朝からその数字を見たら、手が止まりそうだった。
「みく、起きて」
「んー」
「薬飲むよ」
「にがい」
「水あるけん」
芽依がバケツを引き寄せる。
この家の中で薬を飲ませられるようになったことは、やっぱり大きかった。井戸まで走らなくていい。夜でも、すぐ水を出せる。
創磨は薬をひとつ取り出した。
望来の口に入れる。
水を飲ませる。
小さな喉が、こくん、と動いた。
「飲めた」
「飲めた」
芽依がいつものように横で言う。
望来は少し顔をしかめたあと、すぐに布へもぐろうとした。
「寝らんよ」
芽依が布を引っ張る。
「ねむか」
「ごはん食べんば」
「パン?」
「焼きじゃがいも」
「パンがよか」
「あるだけありがたいやろ」
芽依の言い方が、少しだけ母に似ていて、創磨は変な気持ちになった。
家にいた時なら、そんな言い方をされた望来は、すぐに口をとがらせて母に甘えに行ったかもしれない。
でも、ここには母はいない。
望来はしぶしぶ起き上がり、芽依が渡した焼きじゃがいもを両手で持った。
「あつい?」
「もう冷めとる」
「ふーする」
「したかったらしてよか」
望来は真剣な顔で、もう冷めたじゃがいもに息を吹きかけた。
それを見ながら、創磨も自分の分を食べた。
少し硬い。
でも、腹に入ると体の奥が少しだけ戻ってくる感じがする。
食べないと動けない。
昨日、盾を持ってはっきりわかった。
妹に譲ってばかりでは、いざという時に自分が動けない。
それでも、望来がじっと自分の手元を見ていると、創磨は少し迷ってしまった。
「そうまの、ちょっと」
やっぱり言った。
芽依がすぐに望来を見た。
「だめ。そうま、今日も盾持つかもしれんけん、食べんば」
「ちょっと」
「みくのちょっとは大きか」
「ちっちゃいちょっと」
「ちっちゃいちょっとって何」
望来はむうっとした顔をした。
創磨は自分のじゃがいもを見た。
半分は残っている。
あげてもいいかと思った。
でも、左腕の重さが先に来た。
「今日は、だめ」
創磨が言うと、望来は目を丸くした。
「だめ?」
「うん。おれも食べる」
望来は少しだけ口を曲げた。
けれど、泣きはしなかった。
「あとで?」
「残っとったらな」
「残しとって」
「それは約束できん」
芽依が小さく笑った。
「そうま、ちょっと強くなったやん」
「何が」
「みくにごはんあげんかった」
「普通やろ」
「普通じゃなかもん」
芽依はそう言いながら、自分の分を小さくかじった。
創磨は返事をせず、残りをちゃんと食べた。
腹が満たされたわけではない。
でも、体に少し力が戻る。
その少しが、大事だった。
朝食のあと、創磨は盾を持って外に出た。
芽依もすぐについてくる。
望来はつよし号に座らせた。
赤ちゃん村人はまだ来ていない。けれど、望来は何度も家の外を見ていた。
「あの子、来る?」
「来るかもしれん」
「おそい」
「約束しとるわけじゃなかやろ」
「ともだちやもん」
望来は当然みたいに言う。
創磨はその言葉に、少しだけ胸が痛くなった。
友達。
この世界に来てから、望来が作ったつながり。
守らなければいけないのは、望来だけではない。
望来が大事にしたものも、守りたい。
でも、守りたいものが増えるほど、創磨の腕には重さが増えていく気がした。
村の入口へ行くと、昨日作った柵と小さな門が朝の光の中に立っていた。
低い。
頼りない。
けれど、何もないよりはずっといい。
たいまつも、入口の両側に立っている。夜になれば、この火が道の形を少しだけ見せてくれる。
創磨は盾を構えた。
昨日より少しだけ、持ち方がわかる。
でも、やっぱり重い。
「そうま、前見えとる?」
芽依が横から聞く。
「ちょっと」
「ちょっとじゃだめやん」
「隠れたら見えん。見たら顔が出る」
「めんどくさ」
「うん」
芽依は腕を組んで、創磨の横へ回った。
「じゃあ、めいが見る」
「昨日と同じやね」
「うん。めいが右とか左とか言うけん、そうまは盾動かす」
「うん」
「みくはつよし号で待つ」
「みくも見る」
望来がつよし号の中で言った。
「見るだけね」
「みる」
「降りん」
「おりん」
「ほんとに?」
「ほんと」
返事はいい。
でも、望来の返事だけで安心してはいけない。
創磨はつよし号を、家へ戻る道の近くに置いた。何かあれば、芽依が押してすぐ戻れる位置だ。
赤ちゃん村人が来た時も、家の中へ連れていける。
床下の扉。
水。
食べ物。
薬。
鐘。
村の入口。
家。
頭の中で、道筋を何度もたどる。
鐘を鳴らす。
望来と赤ちゃん村人を家へ。
床下へ。
自分は盾。
芽依は横を見る。
できる。
たぶんできる。
でも、本当にその時になったら、体が動くのか。
それはわからなかった。
「じゃあ、いくよ」
芽依が地面から小さな土のかたまりを拾った。
「軽くな」
「わかっとる」
芽依は横から投げた。
「右」
創磨は盾を右へ向ける。
ぼす、と当たる。
「次、左」
今度は小枝。
かつ、と当たる。
「前」
盾を正面に戻す。
芽依は小さな石を投げた。
「痛っ」
「ごめん」
「今の、石やろ」
「ちっちゃいやつ」
「ちっちゃくても石は石」
「でも、矢はもっと痛かっちゃろ」
創磨は黙った。
その通りだった。
小さな石で痛いなら、矢はもっと痛い。
当たった場所によっては、痛いだけでは済まない。
創磨は盾を見つめた。
木の板と鉄の留め具。
これ一枚で、本当に止めるしかない。
何度か練習していると、望来がつよし号の中から声を出した。
「そうま、こーんってする?」
「うん。こーんってする練習」
「みくも」
「みくはせん」
「ちょっと」
「盾、重かけん無理」
「みく、できる」
望来はそう言って、つよし号から降りようとした。
芽依がすぐに押さえる。
「だめ。みくは見る係」
「また見る係」
「大事な係」
「……大事?」
「うん。つよし号に乗っとる大事な係」
望来は少し考えてから、納得したようにうなずいた。
「みく、つよしごう係」
「そうそう」
芽依はそう言いながら、また小枝を拾おうとした。
その時だった。
かた、と音がした。
練習の音ではない。
村人の足音でもない。
森の方からだった。
創磨は盾を構えたまま、動きを止めた。
芽依も地面に手を伸ばした姿勢のまま、顔を上げる。
森の影。
たいまつの光は、そこまで届かない。
朝の明るさの中でも、木の下だけは暗い。
「そうま」
芽依が小さく言った。
「今の」
「聞こえた」
「戻る?」
戻る。
それが一番いい。
なのに、創磨の足はすぐには動かなかった。
見えないまま背中を向けるのも怖い。
何がいるのかわからないまま逃げるのも怖い。
その迷いの中で、森の影の奥に白いものが見えた。
細い腕。
四角い骨。
そして、手に持っている弓。
「スケルトン」
創磨は言った。
声が思ったより小さかった。
芽依の顔が固まる。
「弓、持っとる?」
「うん」
言い終わるより早く、細い音がした。
ひゅっ。
「左!」
芽依が叫んだ。
創磨は反射みたいに盾を左へ動かした。
かん。
音がした。
盾に、何かが当たった。
衝撃が腕から肩まで抜ける。
「うっ」
創磨は一歩下がった。
盾の表面に、矢が刺さっていた。
細くて、鋭い。
本物の矢だった。
さっきまで投げていた小枝でも、土でも、石でもない。
当たれば体に刺さるもの。
創磨の喉がからからになった。
もし左へ動かすのが遅れていたら。
もし盾の端ではなく、顔へ飛んできていたら。
考えたくないのに、頭の中で勝手に想像してしまう。
「そうま、下がって!」
芽依の声で、創磨はようやく足を動かした。
盾を前にしたまま、少しずつ下がる。
走りたい。
でも、背中を向けるのが怖い。
スケルトンは森の影からこちらを見ている。
近づいてはこない。
けれど、弓を持っている。
また撃つ。
「みく、家!」
芽依が振り返って叫んだ。
「つよし号、家!」
望来はつよし号の中で、目をまんまるにしていた。
「こーんってした?」
「した! でも今は家!」
芽依がつよし号の後ろを押す。
その時、家の横から赤ちゃん村人が出てきた。
望来がすぐに気づく。
「あの子!」
「あと!」
芽依が強く言った。
「先にみく!」
「いや、あの子も!」
「連れてくるけん!」
芽依はつよし号を押しながら、赤ちゃん村人の方へ手を伸ばした。
「こっち!」
赤ちゃん村人は少し迷った。
でも、望来の声に反応したのか、芽依の動きにつられたのか、よたよたとこちらへ走ってくる。
創磨はそれを横目で見ながら、盾を正面に戻した。
また音がした。
ひゅん。
「右!」
芽依の声。
創磨は盾を右へ動かした。
けれど、腕が思ったより遅れた。
かん、とは鳴らなかった。
すっ、と何かが頬の横を通った。
次の瞬間、後ろの柵に矢が刺さった。
ざく、という嫌な音。
創磨の頬に、冷たい風みたいなものが残った。
外れた。
でも、近かった。
近すぎた。
足の力が抜けそうになる。
盾を持つ左腕は、もうじんじんしている。朝からの練習と、昨日の疲れが残っている。食べたはずなのに、体の奥がすかすかする。
ゲームなら、盾を構えればいい。
ボタンを押せば、防げる。
でも、本物は違う。
怖い。
腕が固まる。
前が見えない。
見ようとすると、顔が出る。
隠れると、どこを狙われているかわからない。
「そうま、もういい!」
芽依が叫んだ。
「家まで戻って!」
「でも、あいつ」
「倒さんでよか!」
その声は、強かった。
「逃げると!」
創磨は息をのんだ。
倒さなくていい。
逃げる。
そんなこと、わかっていたはずだった。
この世界では、勝つことより、生き残ることが先だ。
それなのに、盾を作ったことで、少しだけ勘違いしていた。
守れるなら、前に出られる。
前に出られるなら、止められる。
そう思ってしまっていた。
でも違う。
創磨は八歳だ。
盾を持っているだけで腕が震える。
森の影にいるスケルトンを倒しに走っていける体じゃない。
「戻る」
創磨は言った。
今度は、ちゃんと声に出した。
「戻る!」
芽依がうなずいた。
「みく、入って!」
家の扉が開く。
芽依はつよし号を入口まで押し、望来を抱えるようにして降ろした。
床下の扉を開ける。
「みく、下!」
「そうまは?」
「あと!」
「そうまも!」
「あとで来るけん、先!」
望来は泣きそうな顔をしながらも、床下へ降りた。
赤ちゃん村人も、そのあとからするっと入る。
芽依は扉を閉めず、入口のところで創磨を待っていた。
「芽依も入れ!」
創磨が言う。
「そうま来てから!」
「先に入れって!」
「いや!」
言い返す声があるのが、芽依らしかった。
でも、その間にも三本目が来る。
音だけでわかった。
創磨は盾を真ん中へ戻した。
かん。
矢が盾に当たる。
衝撃で、左腕が落ちかける。
「痛っ」
思わず声が出た。
その瞬間、盾の下が少し開いた。
足元が見える。
そこに、もう一本の矢が地面へ突き刺さった。
創磨はぞっとした。
スケルトンは少しずつ近づいている。
森の影から、村の入口の方へ。
柵がある。
門がある。
でも、矢はその上を越えてくる。
柵だけでは足りない。
門だけでも足りない。
盾も、完璧ではない。
創磨は後ろへ下がりながら、村の入口のたいまつを見た。
一本が、さっきの矢で倒れかけている。
火はまだ消えていない。
でも、斜めになって、土に埋まりかけている。
あれが消えたら、入口の明かりが弱くなる。
夜が来た時、あそこが暗くなる。
そう思った瞬間、創磨の足が止まりかけた。
直したい。
今ならまだ火は消えていない。
でも、行けば近づきすぎる。
父の声が、頭の奥で鳴った気がした。
――そう!
短い警告だった。
行きすぎるな。
欲張るな。
創磨は歯を食いしばった。
「そうま、これ!」
芽依が家の入口から何かを投げた。
小さな木の欠片だった。
創磨の足元に転がる。
「なにそれ!」
「ポケット入っとった!」
「なんで!」
「なんかいるかと思ったもん!」
こんな時に、と思った。
けれど、その木片は薄く、少し曲がっていて、倒れかけたたいまつの根元に挟めそうな形だった。
芽依のポケットからは、いつも何か出てくる。
家でもそうだった。
洗濯機がガラガラ鳴って、母がポケットを裏返すと、石や木の端が出てきた。
芽依はそのたびに「なんかいるかと思ったもん」と言った。
ここでも同じだった。
創磨は木片を見た。
たいまつを見た。
スケルトンを見た。
そして、もう一度、父の声を思い出した。
行きすぎるな。
欲張るな。
でも、届くなら。
二歩だけなら。
創磨は盾を前にしたまま、たいまつの方へ二歩寄った。
それ以上は行かない。
足元の木片を拾う。
しゃがむ。
盾を斜め上にかざす。
「芽依、見て!」
「見とる!」
「来る?」
「まだ! まだ来ん!」
創磨は震える手で、たいまつの根元に木片を差し込んだ。
ぐっと押す。
たいまつが少しだけまっすぐになった。
火は消えなかった。
「戻って!」
芽依の声。
創磨は返事もせずに立ち上がった。
その瞬間、また矢の音がした。
「前!」
盾を上げる。
かん。
今までで一番強い衝撃だった。
腕がしびれる。
盾ごと体が後ろへ押される。
転びそうになった足を、なんとか踏ん張る。
もう無理だ。
創磨は走った。
今度は振り返らなかった。
家の中へ飛び込む。
芽依がすぐに扉を閉める。
外の柵に、また矢が刺さる音がした。
家の中は急に狭く感じた。
たいまつの明かりが揺れている。
床下の扉の下から、望来の声がした。
「そうま?」
「おる!」
創磨は床の上に座り込むようにして答えた。
「おるけん!」
芽依は扉に背中をつけたまま、息を荒くしている。
「けが」
「してなか」
「ほんと?」
「ほんと」
「顔、白かよ」
「……ちょっと、怖かった」
言ってから、創磨はしまったと思った。
でも、もう遅い。
芽依は少しだけ目を丸くした。
それから、何も言わずに床へ座った。
「めいも、怖かった」
小さな声だった。
外では、かた、かた、と骨の音がする。
家の周りを歩いているのか、村の入口で止まっているのか、わからない。
でも、すぐには入ってこない。
柵。
門。
家の前の柵。
それらが、少しだけ時間を作っている。
創磨は盾を床に置いた。
左腕がまだ震えている。
手を開いたり閉じたりしても、力が入りにくい。
「これ、ずっとは無理やね」
芽依が言った。
「うん」
「でも、さっき止めた」
「うん」
「止めたけど、無理は無理」
「わかっとる」
創磨は盾を見た。
表面には、矢が二本刺さっている。
練習とは違う。
本当に、誰かを倒すために飛んできたものだ。
床下の扉が少しだけ動いた。
「開けたらだめ」
芽依がすぐ言う。
下から望来の声がする。
「そうま、こーんってした?」
「した」
「いたいの、来んかった?」
「来んかった」
創磨は少しだけ嘘をついた。
痛かった。
腕は痛い。
でも、望来に当たらなかった。
それでいい。
「あの子も、おる?」
「おる」
望来の声の横で、赤ちゃん村人が小さく動く音がした。
「よかった」
創磨はその声を聞いて、ようやく少しだけ息を吐いた。
外の音は、しばらく続いた。
かた。
かた。
草を踏む音。
骨の鳴る音。
時々、弓を引くような音もした。
そのたびに、創磨と芽依は身を固くした。
けれど、矢はもう家の中までは来なかった。
鉄ゴーレムはどこにいるのか。
村人たちはちゃんと家に入っているのか。
あのスケルトンは入口で止まっているのか。
何もわからなかった。
ただ、家の中で息を殺して待つしかない。
最初の土穴の夜を思い出す。
あの時も、外に何かがいて、朝を待つしかなかった。
でも今は、少しだけ違う。
床下には避難場所がある。
入口には柵がある。
盾もある。
芽依が横を見てくれる。
望来と赤ちゃん村人は下に隠れている。
ただ震えているだけではない。
それでも、怖いものは怖かった。
夕方が深くなるころ、外の音が遠ざかった。
倒したわけではない。
追い払ったわけでもない。
ただ、どこかへ行っただけかもしれない。
「……勝ってなかね」
芽依がぽつりと言った。
「うん」
創磨は答えた。
「逃げただけ」
「でも、みくは無事」
「うん」
「あの子も無事」
「うん」
「じゃあ、今日はそれでよか」
芽依の声は、少しだけ震えていた。
でも、ちゃんと強かった。
創磨はうなずいた。
「うん」
しばらくしてから、床下の扉を開けた。
望来がすぐに顔を出した。
「もう、だいじょぶ?」
「今は」
「今は?」
「まだ外には出られん。ばってん、家の中は大丈夫」
望来は少しだけ考えてから、床下から出てきた。
赤ちゃん村人もあとに続く。
望来は創磨の盾を見た。
刺さった矢を見て、目を丸くする。
「いたいの、ここ?」
「うん」
「そうま、痛かった?」
創磨は少し迷った。
「ちょっと」
望来は、盾の木のところを小さな手でぽんと叩いた。
「こーん、えらい」
「盾に言うと?」
芽依が少しだけ笑った。
望来は真面目な顔で、今度は創磨の膝にくっついた。
「そうまも、えらい」
創磨は何も言えなかった。
望来の小さな重みを感じながら、左腕を見た。
まだ震えている。
でも、望来がそこにいる。
赤ちゃん村人も、家の隅でじっとしている。
芽依も、扉の前に座っている。
守れた。
倒したわけではない。
勝ったわけでもない。
ただ逃げ切っただけ。
それでも、今はそれが一番大事だった。
夜の薬の時間になった。
創磨はバケツの水を手元に寄せ、薬袋を開いた。
袋は、また少し軽くなっていた。
今日は数えたくなかった。
数えれば、また怖くなる。
でも、数えなければ、もっと怖い気がした。
創磨は薬を飲ませる前に、小さな袋をひとつずつ床へ並べた。
一。
二。
三。
途中で、望来がのぞきこむ。
「みくのおくすり?」
「うん」
「ある?」
「……ある」
創磨は答えた。
でも、その声は少しだけ遅れた。
最後まで数えて、指が止まる。
「……三十九」
芽依が顔を上げた。
「三十九?」
「今は、あと三十九回」
朝と夜。
一日に二回。
創磨は頭の中で数え直した。
今から一つ飲ませる。
そうしたら、残り三十八回。
十九日分。
三週間あったはずのものが、十九日になっていた。
たった二日減っただけじゃない。
もう、二日なくなった。
その言い方のほうが、ずっと怖かった。
「十九日……?」
芽依の声が小さくなる。
望来は意味がわからないまま、薬を見ている。
「みく、のむ?」
「うん。飲むよ」
創磨は薬をひとつ取った。
手の中の小さな白い粒は、木よりも、鉄よりも、盾よりも重く感じた。
木は取れる。
石も掘れる。
鉄も、危ないけれど探せるかもしれない。
盾も作れた。
でも、これは作れない。
薬だけは、どうしても作れない。
創磨の頭に、あの朝のことが少しだけよぎった。
望来の体に力が入らなくなって、母が泣きそうな声で電話をしていた朝。
父が望来を抱いたまま、何度も名前を呼んでいた。
救急車の音。
玄関に差し込んだ白い光。
何もできずに立っていた自分。
あの時の父の顔を、創磨はまだ覚えている。
怖かったはずなのに、父は動いていた。
だから今、自分も動かなければならない。
「みく、おくすり」
「うん」
望来はいつもより素直に口を開けた。
薬を入れる。
水を飲ませる。
こくん。
小さな喉が動いた。
創磨は、その動きを最後まで見た。
「飲めた」
「飲めた」
芽依も横で言った。
外には、まだ夜がある。
森もある。
スケルトンも、たぶんどこかにいる。
でも、それよりも確かに、薬は減っている。
残り三十八回。
十九日分。
創磨は薬袋をしまいながら、盾に刺さっていた矢を見た。
矢は怖い。
スケルトンも怖い。
でも、いちばん怖いのは、望来の薬がなくなることだった。
創磨は、盾から矢を一本ずつ抜いた。
矢の先は細く、冷たかった。
「これ、使えると?」
芽依が聞いた。
「……矢としては、たぶん」
「弓いるやん」
「うん」
「作れる?」
「糸がいる」
「糸?」
「たぶん、クモ」
芽依の顔が一気に嫌そうになった。
「虫やん」
「虫っていうか、クモ」
「もっと嫌」
創磨も同じ気持ちだった。
クモは嫌いだ。
でも、弓があれば、遠くの敵に届くかもしれない。
スケルトンみたいに、こっちも遠くから守れるかもしれない。
ただ、それはまだ先だ。
今夜は、そこまで行けない。
「今日は、出らん」
創磨は言った。
「出ん」
芽依もすぐにうなずいた。
望来は薬を飲んで安心したのか、芽依の膝に寄りかかっている。
赤ちゃん村人は、床下の入口の近くでじっとしていた。
たいまつの火が小さく揺れる。
床下の扉もある。
柵もある。
盾もある。
芽依のポケットから出てきた木片で、倒れかけたたいまつも立っている。
小さいものばかりだ。
頼りないものばかりだ。
けれど、全部つながると、一晩を越える力になる。
創磨は、薬袋と盾と矢を見た。
守るものは増えた。
でも、時間は減っている。
――残り三十八回。十九日分。
次は、遠くから守る方法を探す。




