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妹の薬が尽きる前に  作者: MONEMOLT


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16/33

矢の音



 朝になっても、創磨の左腕には、昨日の盾の重さが残っていた。


 痛い、というほどではない。


 けれど、手を開いたり閉じたりすると、肘のあたりがじんじんする。肩も少し重い。寝て起きたら戻ると思っていたのに、体はそんなに簡単ではなかった。


 創磨はベッドの端に座ったまま、自分の左腕を見た。


 この腕で、ほんとうに守れるのか。


 昨日は、小枝や土のかたまりを受けただけだった。


 それでも重かった。


 それでも痛かった。


 もし本当に矢が飛んできたら。


 もし、望来の前で構えなければいけなかったら。


「そうま」


 芽依の声がして、創磨は顔を上げた。


 芽依はまだ眠そうな顔をしていたが、目だけはちゃんとこちらを見ていた。


「腕、痛かと?」


「ちょっと」


「ちょっとじゃなか顔しとる」


「ちょっとたい」


「昨日、無理しすぎ」


 芽依はそう言って、望来の方を見た。


 望来は真ん中のベッドで、まだ半分布にくるまっている。小さな手だけが外へ出ていて、薬袋の方に伸びていた。


「みく、おくすり?」


 寝起きの声だった。


「朝のやつね」


 創磨は薬袋を手に取った。


 白い袋。


 軽い。


 そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ重くなった。


 昨日の夜も飲ませた。


 今朝も飲ませる。


 それはいいことのはずだった。


 飲めることは、安心のはずだった。


 でも、飲ませるたびに減っていく。


 創磨は一瞬だけ、中身を全部出して数えたい気持ちになった。


 けれど、今はやめた。


 朝からその数字を見たら、手が止まりそうだった。


「みく、起きて」


「んー」


「薬飲むよ」


「にがい」


「水あるけん」


 芽依がバケツを引き寄せる。


 この家の中で薬を飲ませられるようになったことは、やっぱり大きかった。井戸まで走らなくていい。夜でも、すぐ水を出せる。


 創磨は薬をひとつ取り出した。


 望来の口に入れる。


 水を飲ませる。


 小さな喉が、こくん、と動いた。


「飲めた」


「飲めた」


 芽依がいつものように横で言う。


 望来は少し顔をしかめたあと、すぐに布へもぐろうとした。


「寝らんよ」


 芽依が布を引っ張る。


「ねむか」


「ごはん食べんば」


「パン?」


「焼きじゃがいも」


「パンがよか」


「あるだけありがたいやろ」


 芽依の言い方が、少しだけ母に似ていて、創磨は変な気持ちになった。


 家にいた時なら、そんな言い方をされた望来は、すぐに口をとがらせて母に甘えに行ったかもしれない。


 でも、ここには母はいない。


 望来はしぶしぶ起き上がり、芽依が渡した焼きじゃがいもを両手で持った。


「あつい?」


「もう冷めとる」


「ふーする」


「したかったらしてよか」


 望来は真剣な顔で、もう冷めたじゃがいもに息を吹きかけた。


 それを見ながら、創磨も自分の分を食べた。


 少し硬い。


 でも、腹に入ると体の奥が少しだけ戻ってくる感じがする。


 食べないと動けない。


 昨日、盾を持ってはっきりわかった。


 妹に譲ってばかりでは、いざという時に自分が動けない。


 それでも、望来がじっと自分の手元を見ていると、創磨は少し迷ってしまった。


「そうまの、ちょっと」


 やっぱり言った。


 芽依がすぐに望来を見た。


「だめ。そうま、今日も盾持つかもしれんけん、食べんば」


「ちょっと」


「みくのちょっとは大きか」


「ちっちゃいちょっと」


「ちっちゃいちょっとって何」


 望来はむうっとした顔をした。


 創磨は自分のじゃがいもを見た。


 半分は残っている。


 あげてもいいかと思った。


 でも、左腕の重さが先に来た。


「今日は、だめ」


 創磨が言うと、望来は目を丸くした。


「だめ?」


「うん。おれも食べる」


 望来は少しだけ口を曲げた。


 けれど、泣きはしなかった。


「あとで?」


「残っとったらな」


「残しとって」


「それは約束できん」


 芽依が小さく笑った。


「そうま、ちょっと強くなったやん」


「何が」


「みくにごはんあげんかった」


「普通やろ」


「普通じゃなかもん」


 芽依はそう言いながら、自分の分を小さくかじった。


 創磨は返事をせず、残りをちゃんと食べた。


 腹が満たされたわけではない。


 でも、体に少し力が戻る。


 その少しが、大事だった。


 朝食のあと、創磨は盾を持って外に出た。


 芽依もすぐについてくる。


 望来はつよし号に座らせた。


 赤ちゃん村人はまだ来ていない。けれど、望来は何度も家の外を見ていた。


「あの子、来る?」


「来るかもしれん」


「おそい」


「約束しとるわけじゃなかやろ」


「ともだちやもん」


 望来は当然みたいに言う。


 創磨はその言葉に、少しだけ胸が痛くなった。


 友達。


 この世界に来てから、望来が作ったつながり。


 守らなければいけないのは、望来だけではない。


 望来が大事にしたものも、守りたい。


 でも、守りたいものが増えるほど、創磨の腕には重さが増えていく気がした。


 村の入口へ行くと、昨日作った柵と小さな門が朝の光の中に立っていた。


 低い。


 頼りない。


 けれど、何もないよりはずっといい。


 たいまつも、入口の両側に立っている。夜になれば、この火が道の形を少しだけ見せてくれる。


 創磨は盾を構えた。


 昨日より少しだけ、持ち方がわかる。


 でも、やっぱり重い。


「そうま、前見えとる?」


 芽依が横から聞く。


「ちょっと」


「ちょっとじゃだめやん」


「隠れたら見えん。見たら顔が出る」


「めんどくさ」


「うん」


 芽依は腕を組んで、創磨の横へ回った。


「じゃあ、めいが見る」


「昨日と同じやね」


「うん。めいが右とか左とか言うけん、そうまは盾動かす」


「うん」


「みくはつよし号で待つ」


「みくも見る」


 望来がつよし号の中で言った。


「見るだけね」


「みる」


「降りん」


「おりん」


「ほんとに?」


「ほんと」


 返事はいい。


 でも、望来の返事だけで安心してはいけない。


 創磨はつよし号を、家へ戻る道の近くに置いた。何かあれば、芽依が押してすぐ戻れる位置だ。


 赤ちゃん村人が来た時も、家の中へ連れていける。


 床下の扉。


 水。


 食べ物。


 薬。


 鐘。


 村の入口。


 家。


 頭の中で、道筋を何度もたどる。


 鐘を鳴らす。


 望来と赤ちゃん村人を家へ。


 床下へ。


 自分は盾。


 芽依は横を見る。


 できる。


 たぶんできる。


 でも、本当にその時になったら、体が動くのか。


 それはわからなかった。


「じゃあ、いくよ」


 芽依が地面から小さな土のかたまりを拾った。


「軽くな」


「わかっとる」


 芽依は横から投げた。


「右」


 創磨は盾を右へ向ける。


 ぼす、と当たる。


「次、左」


 今度は小枝。


 かつ、と当たる。


「前」


 盾を正面に戻す。


 芽依は小さな石を投げた。


「痛っ」


「ごめん」


「今の、石やろ」


「ちっちゃいやつ」


「ちっちゃくても石は石」


「でも、矢はもっと痛かっちゃろ」


 創磨は黙った。


 その通りだった。


 小さな石で痛いなら、矢はもっと痛い。


 当たった場所によっては、痛いだけでは済まない。


 創磨は盾を見つめた。


 木の板と鉄の留め具。


 これ一枚で、本当に止めるしかない。


 何度か練習していると、望来がつよし号の中から声を出した。


「そうま、こーんってする?」


「うん。こーんってする練習」


「みくも」


「みくはせん」


「ちょっと」


「盾、重かけん無理」


「みく、できる」


 望来はそう言って、つよし号から降りようとした。


 芽依がすぐに押さえる。


「だめ。みくは見る係」


「また見る係」


「大事な係」


「……大事?」


「うん。つよし号に乗っとる大事な係」


 望来は少し考えてから、納得したようにうなずいた。


「みく、つよしごう係」


「そうそう」


 芽依はそう言いながら、また小枝を拾おうとした。


 その時だった。


 かた、と音がした。


 練習の音ではない。


 村人の足音でもない。


 森の方からだった。


 創磨は盾を構えたまま、動きを止めた。


 芽依も地面に手を伸ばした姿勢のまま、顔を上げる。


 森の影。


 たいまつの光は、そこまで届かない。


 朝の明るさの中でも、木の下だけは暗い。


「そうま」


 芽依が小さく言った。


「今の」


「聞こえた」


「戻る?」


 戻る。


 それが一番いい。


 なのに、創磨の足はすぐには動かなかった。


 見えないまま背中を向けるのも怖い。


 何がいるのかわからないまま逃げるのも怖い。


 その迷いの中で、森の影の奥に白いものが見えた。


 細い腕。


 四角い骨。


 そして、手に持っている弓。


「スケルトン」


 創磨は言った。


 声が思ったより小さかった。


 芽依の顔が固まる。


「弓、持っとる?」


「うん」


 言い終わるより早く、細い音がした。


 ひゅっ。


「左!」


 芽依が叫んだ。


 創磨は反射みたいに盾を左へ動かした。


 かん。


 音がした。


 盾に、何かが当たった。


 衝撃が腕から肩まで抜ける。


「うっ」


 創磨は一歩下がった。


 盾の表面に、矢が刺さっていた。


 細くて、鋭い。


 本物の矢だった。


 さっきまで投げていた小枝でも、土でも、石でもない。


 当たれば体に刺さるもの。


 創磨の喉がからからになった。


 もし左へ動かすのが遅れていたら。


 もし盾の端ではなく、顔へ飛んできていたら。


 考えたくないのに、頭の中で勝手に想像してしまう。


「そうま、下がって!」


 芽依の声で、創磨はようやく足を動かした。


 盾を前にしたまま、少しずつ下がる。


 走りたい。


 でも、背中を向けるのが怖い。


 スケルトンは森の影からこちらを見ている。


 近づいてはこない。


 けれど、弓を持っている。


 また撃つ。


「みく、家!」


 芽依が振り返って叫んだ。


「つよし号、家!」


 望来はつよし号の中で、目をまんまるにしていた。


「こーんってした?」


「した! でも今は家!」


 芽依がつよし号の後ろを押す。


 その時、家の横から赤ちゃん村人が出てきた。


 望来がすぐに気づく。


「あの子!」


「あと!」


 芽依が強く言った。


「先にみく!」


「いや、あの子も!」


「連れてくるけん!」


 芽依はつよし号を押しながら、赤ちゃん村人の方へ手を伸ばした。


「こっち!」


 赤ちゃん村人は少し迷った。


 でも、望来の声に反応したのか、芽依の動きにつられたのか、よたよたとこちらへ走ってくる。


 創磨はそれを横目で見ながら、盾を正面に戻した。


 また音がした。


 ひゅん。


「右!」


 芽依の声。


 創磨は盾を右へ動かした。


 けれど、腕が思ったより遅れた。


 かん、とは鳴らなかった。


 すっ、と何かが頬の横を通った。


 次の瞬間、後ろの柵に矢が刺さった。


 ざく、という嫌な音。


 創磨の頬に、冷たい風みたいなものが残った。


 外れた。


 でも、近かった。


 近すぎた。


 足の力が抜けそうになる。


 盾を持つ左腕は、もうじんじんしている。朝からの練習と、昨日の疲れが残っている。食べたはずなのに、体の奥がすかすかする。


 ゲームなら、盾を構えればいい。


 ボタンを押せば、防げる。


 でも、本物は違う。


 怖い。


 腕が固まる。


 前が見えない。


 見ようとすると、顔が出る。


 隠れると、どこを狙われているかわからない。


「そうま、もういい!」


 芽依が叫んだ。


「家まで戻って!」


「でも、あいつ」


「倒さんでよか!」


 その声は、強かった。


「逃げると!」


 創磨は息をのんだ。


 倒さなくていい。


 逃げる。


 そんなこと、わかっていたはずだった。


 この世界では、勝つことより、生き残ることが先だ。


 それなのに、盾を作ったことで、少しだけ勘違いしていた。


 守れるなら、前に出られる。


 前に出られるなら、止められる。


 そう思ってしまっていた。


 でも違う。


 創磨は八歳だ。


 盾を持っているだけで腕が震える。


 森の影にいるスケルトンを倒しに走っていける体じゃない。


「戻る」


 創磨は言った。


 今度は、ちゃんと声に出した。


「戻る!」


 芽依がうなずいた。


「みく、入って!」


 家の扉が開く。


 芽依はつよし号を入口まで押し、望来を抱えるようにして降ろした。


 床下の扉を開ける。


「みく、下!」


「そうまは?」


「あと!」


「そうまも!」


「あとで来るけん、先!」


 望来は泣きそうな顔をしながらも、床下へ降りた。


 赤ちゃん村人も、そのあとからするっと入る。


 芽依は扉を閉めず、入口のところで創磨を待っていた。


「芽依も入れ!」


 創磨が言う。


「そうま来てから!」


「先に入れって!」


「いや!」


 言い返す声があるのが、芽依らしかった。


 でも、その間にも三本目が来る。


 音だけでわかった。


 創磨は盾を真ん中へ戻した。


 かん。


 矢が盾に当たる。


 衝撃で、左腕が落ちかける。


「痛っ」


 思わず声が出た。


 その瞬間、盾の下が少し開いた。


 足元が見える。


 そこに、もう一本の矢が地面へ突き刺さった。


 創磨はぞっとした。


 スケルトンは少しずつ近づいている。


 森の影から、村の入口の方へ。


 柵がある。


 門がある。


 でも、矢はその上を越えてくる。


 柵だけでは足りない。


 門だけでも足りない。


 盾も、完璧ではない。


 創磨は後ろへ下がりながら、村の入口のたいまつを見た。


 一本が、さっきの矢で倒れかけている。


 火はまだ消えていない。


 でも、斜めになって、土に埋まりかけている。


 あれが消えたら、入口の明かりが弱くなる。


 夜が来た時、あそこが暗くなる。


 そう思った瞬間、創磨の足が止まりかけた。


 直したい。


 今ならまだ火は消えていない。


 でも、行けば近づきすぎる。


 父の声が、頭の奥で鳴った気がした。


 ――そう!


 短い警告だった。


 行きすぎるな。


 欲張るな。


 創磨は歯を食いしばった。


「そうま、これ!」


 芽依が家の入口から何かを投げた。


 小さな木の欠片だった。


 創磨の足元に転がる。


「なにそれ!」


「ポケット入っとった!」


「なんで!」


「なんかいるかと思ったもん!」


 こんな時に、と思った。


 けれど、その木片は薄く、少し曲がっていて、倒れかけたたいまつの根元に挟めそうな形だった。


 芽依のポケットからは、いつも何か出てくる。


 家でもそうだった。


 洗濯機がガラガラ鳴って、母がポケットを裏返すと、石や木の端が出てきた。


 芽依はそのたびに「なんかいるかと思ったもん」と言った。


 ここでも同じだった。


 創磨は木片を見た。


 たいまつを見た。


 スケルトンを見た。


 そして、もう一度、父の声を思い出した。


 行きすぎるな。


 欲張るな。


 でも、届くなら。


 二歩だけなら。


 創磨は盾を前にしたまま、たいまつの方へ二歩寄った。


 それ以上は行かない。


 足元の木片を拾う。


 しゃがむ。


 盾を斜め上にかざす。


「芽依、見て!」


「見とる!」


「来る?」


「まだ! まだ来ん!」


 創磨は震える手で、たいまつの根元に木片を差し込んだ。


 ぐっと押す。


 たいまつが少しだけまっすぐになった。


 火は消えなかった。


「戻って!」


 芽依の声。


 創磨は返事もせずに立ち上がった。


 その瞬間、また矢の音がした。


「前!」


 盾を上げる。


 かん。


 今までで一番強い衝撃だった。


 腕がしびれる。


 盾ごと体が後ろへ押される。


 転びそうになった足を、なんとか踏ん張る。


 もう無理だ。


 創磨は走った。


 今度は振り返らなかった。


 家の中へ飛び込む。


 芽依がすぐに扉を閉める。


 外の柵に、また矢が刺さる音がした。


 家の中は急に狭く感じた。


 たいまつの明かりが揺れている。


 床下の扉の下から、望来の声がした。


「そうま?」


「おる!」


 創磨は床の上に座り込むようにして答えた。


「おるけん!」


 芽依は扉に背中をつけたまま、息を荒くしている。


「けが」


「してなか」


「ほんと?」


「ほんと」


「顔、白かよ」


「……ちょっと、怖かった」


 言ってから、創磨はしまったと思った。


 でも、もう遅い。


 芽依は少しだけ目を丸くした。


 それから、何も言わずに床へ座った。


「めいも、怖かった」


 小さな声だった。


 外では、かた、かた、と骨の音がする。


 家の周りを歩いているのか、村の入口で止まっているのか、わからない。


 でも、すぐには入ってこない。


 柵。


 門。


 家の前の柵。


 それらが、少しだけ時間を作っている。


 創磨は盾を床に置いた。


 左腕がまだ震えている。


 手を開いたり閉じたりしても、力が入りにくい。


「これ、ずっとは無理やね」


 芽依が言った。


「うん」


「でも、さっき止めた」


「うん」


「止めたけど、無理は無理」


「わかっとる」


 創磨は盾を見た。


 表面には、矢が二本刺さっている。


 練習とは違う。


 本当に、誰かを倒すために飛んできたものだ。


 床下の扉が少しだけ動いた。


「開けたらだめ」


 芽依がすぐ言う。


 下から望来の声がする。


「そうま、こーんってした?」


「した」


「いたいの、来んかった?」


「来んかった」


 創磨は少しだけ嘘をついた。


 痛かった。


 腕は痛い。


 でも、望来に当たらなかった。


 それでいい。


「あの子も、おる?」


「おる」


 望来の声の横で、赤ちゃん村人が小さく動く音がした。


「よかった」


 創磨はその声を聞いて、ようやく少しだけ息を吐いた。


 外の音は、しばらく続いた。


 かた。


 かた。


 草を踏む音。


 骨の鳴る音。


 時々、弓を引くような音もした。


 そのたびに、創磨と芽依は身を固くした。


 けれど、矢はもう家の中までは来なかった。


 鉄ゴーレムはどこにいるのか。


 村人たちはちゃんと家に入っているのか。


 あのスケルトンは入口で止まっているのか。


 何もわからなかった。


 ただ、家の中で息を殺して待つしかない。


 最初の土穴の夜を思い出す。


 あの時も、外に何かがいて、朝を待つしかなかった。


 でも今は、少しだけ違う。


 床下には避難場所がある。


 入口には柵がある。


 盾もある。


 芽依が横を見てくれる。


 望来と赤ちゃん村人は下に隠れている。


 ただ震えているだけではない。


 それでも、怖いものは怖かった。


 夕方が深くなるころ、外の音が遠ざかった。


 倒したわけではない。


 追い払ったわけでもない。


 ただ、どこかへ行っただけかもしれない。


「……勝ってなかね」


 芽依がぽつりと言った。


「うん」


 創磨は答えた。


「逃げただけ」


「でも、みくは無事」


「うん」


「あの子も無事」


「うん」


「じゃあ、今日はそれでよか」


 芽依の声は、少しだけ震えていた。


 でも、ちゃんと強かった。


 創磨はうなずいた。


「うん」


 しばらくしてから、床下の扉を開けた。


 望来がすぐに顔を出した。


「もう、だいじょぶ?」


「今は」


「今は?」


「まだ外には出られん。ばってん、家の中は大丈夫」


 望来は少しだけ考えてから、床下から出てきた。


 赤ちゃん村人もあとに続く。


 望来は創磨の盾を見た。


 刺さった矢を見て、目を丸くする。


「いたいの、ここ?」


「うん」


「そうま、痛かった?」


 創磨は少し迷った。


「ちょっと」


 望来は、盾の木のところを小さな手でぽんと叩いた。


「こーん、えらい」


「盾に言うと?」


 芽依が少しだけ笑った。


 望来は真面目な顔で、今度は創磨の膝にくっついた。


「そうまも、えらい」


 創磨は何も言えなかった。


 望来の小さな重みを感じながら、左腕を見た。


 まだ震えている。


 でも、望来がそこにいる。


 赤ちゃん村人も、家の隅でじっとしている。


 芽依も、扉の前に座っている。


 守れた。


 倒したわけではない。


 勝ったわけでもない。


 ただ逃げ切っただけ。


 それでも、今はそれが一番大事だった。


 夜の薬の時間になった。


 創磨はバケツの水を手元に寄せ、薬袋を開いた。


 袋は、また少し軽くなっていた。


 今日は数えたくなかった。


 数えれば、また怖くなる。


 でも、数えなければ、もっと怖い気がした。


 創磨は薬を飲ませる前に、小さな袋をひとつずつ床へ並べた。


 一。


 二。


 三。


 途中で、望来がのぞきこむ。


「みくのおくすり?」


「うん」


「ある?」


「……ある」


 創磨は答えた。


 でも、その声は少しだけ遅れた。


 最後まで数えて、指が止まる。


「……三十九」


 芽依が顔を上げた。


「三十九?」


「今は、あと三十九回」


 朝と夜。


 一日に二回。


 創磨は頭の中で数え直した。


 今から一つ飲ませる。


 そうしたら、残り三十八回。


 十九日分。


 三週間あったはずのものが、十九日になっていた。


 たった二日減っただけじゃない。


 もう、二日なくなった。


 その言い方のほうが、ずっと怖かった。


「十九日……?」


 芽依の声が小さくなる。


 望来は意味がわからないまま、薬を見ている。


「みく、のむ?」


「うん。飲むよ」


 創磨は薬をひとつ取った。


 手の中の小さな白い粒は、木よりも、鉄よりも、盾よりも重く感じた。


 木は取れる。


 石も掘れる。


 鉄も、危ないけれど探せるかもしれない。


 盾も作れた。


 でも、これは作れない。


 薬だけは、どうしても作れない。


 創磨の頭に、あの朝のことが少しだけよぎった。


 望来の体に力が入らなくなって、母が泣きそうな声で電話をしていた朝。


 父が望来を抱いたまま、何度も名前を呼んでいた。


 救急車の音。


 玄関に差し込んだ白い光。


 何もできずに立っていた自分。


 あの時の父の顔を、創磨はまだ覚えている。


 怖かったはずなのに、父は動いていた。


 だから今、自分も動かなければならない。


「みく、おくすり」


「うん」


 望来はいつもより素直に口を開けた。


 薬を入れる。


 水を飲ませる。


 こくん。


 小さな喉が動いた。


 創磨は、その動きを最後まで見た。


「飲めた」


「飲めた」


 芽依も横で言った。


 外には、まだ夜がある。


 森もある。


 スケルトンも、たぶんどこかにいる。


 でも、それよりも確かに、薬は減っている。


 残り三十八回。


 十九日分。


 創磨は薬袋をしまいながら、盾に刺さっていた矢を見た。


 矢は怖い。


 スケルトンも怖い。


 でも、いちばん怖いのは、望来の薬がなくなることだった。


 創磨は、盾から矢を一本ずつ抜いた。


 矢の先は細く、冷たかった。


「これ、使えると?」


 芽依が聞いた。


「……矢としては、たぶん」


「弓いるやん」


「うん」


「作れる?」


「糸がいる」


「糸?」


「たぶん、クモ」


 芽依の顔が一気に嫌そうになった。


「虫やん」


「虫っていうか、クモ」


「もっと嫌」


 創磨も同じ気持ちだった。


 クモは嫌いだ。


 でも、弓があれば、遠くの敵に届くかもしれない。


 スケルトンみたいに、こっちも遠くから守れるかもしれない。


 ただ、それはまだ先だ。


 今夜は、そこまで行けない。


「今日は、出らん」


 創磨は言った。


「出ん」


 芽依もすぐにうなずいた。


 望来は薬を飲んで安心したのか、芽依の膝に寄りかかっている。


 赤ちゃん村人は、床下の入口の近くでじっとしていた。


 たいまつの火が小さく揺れる。


 床下の扉もある。


 柵もある。


 盾もある。


 芽依のポケットから出てきた木片で、倒れかけたたいまつも立っている。


 小さいものばかりだ。


 頼りないものばかりだ。


 けれど、全部つながると、一晩を越える力になる。


 創磨は、薬袋と盾と矢を見た。


 守るものは増えた。


 でも、時間は減っている。


 ――残り三十八回。十九日分。


 次は、遠くから守る方法を探す。

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