ひみつきち
朝から、創磨は何度も棚の上を見てしまった。
家のいちばん奥、高い場所に置いたあの瓶。
暗い液体が入った、小さなガラスの瓶。
触らなければ何も起きない。
たぶん、今はまだ。
それでも、そこにあるだけで落ち着かなかった。
朝の光が家の中へ差し込み、くっつけた三つのベッドを照らしている。壁際のチェスト、かまど、たいまつ。つよし号は入口のそばに置いてあった。
見た目だけなら、ちゃんと暮らしている家だった。
けれど創磨の頭の中では、昨日の灰色のやつらと、村の外れに残った足跡がまだ消えていなかった。
「そうま、また見よる」
芽依が、じゃがいもをかじりながら言った。
「なにを」
「棚のやつ」
創磨は返事をしなかった。
望来はそんな空気に気づいていないみたいに、つよし号の中で足をぶらぶらさせている。
「みく、きょうも、あの子んとこ行く」
「食べてから」
「もう食べた」
「半分しか食べとらんやろ」
望来は焼きじゃがいもの残りを見て、少しだけ口をとがらせた。
それでも言い返さず、ちびちび食べる。昨日の赤ちゃん村人とまた会えると思っているからか、今日はやけに素直だった。
芽依がそれを見て、ふっと笑う。
「みく、ほんと好きなんやね」
「ともだちやもん」
当然みたいに答える。
創磨はそれを聞いて、また棚を見た。
もし、また昨日みたいなのが来たら。
今度は村の中まで入ってきたら。
望来と、あの赤ちゃん村人を、どこに隠す。
家の中へ入れるだけでは足りない気がした。
窓もある。扉もある。もし壊されたら終わりだ。
村人たちは鐘で走った。
でも赤ちゃんは遅い。
望来だって遅い。
創磨は手の中のじゃがいもを見つめたまま、小さく言った。
「芽依」
「なに」
「床ん下、掘る」
芽依が瞬きをした。
「は?」
「隠れる場所」
「どこに」
「この家の中」
「床の下に?」
「うん」
芽依は少しのあいだ黙っていた。
それから、じゃがいもを飲み込んでから、低い声で言う。
「……昨日のやつのため?」
創磨は、今度はごまかさなかった。
「たぶん、あれで終わらん」
「瓶のせい?」
「たぶん」
「たぶんばっかり」
「でも、なんもせんよりよか」
芽依は膝を抱えて少し考えた。
口を開きかけて、閉じて、また開く。
「みく、入れると?」
「入れるようにする」
「……あの子も?」
創磨は芽依の顔を見た。
あの子、で通じるのが、もう少しだけ不思議だった。
昨日まではただの村人の赤ちゃんだったのに、今日はもう、それで通じる。
「入れたかったら、入れらるるようにしたい」
芽依は鼻を鳴らした。
「じゃあ、ちっちゃめじゃだめやん」
「うん」
「狭すぎてもみく泣くよ」
「うん」
「暗すぎても泣く」
「……うん」
そこまで聞いて、芽依は立ち上がった。
「じゃあ、掘る」
「え」
「決めたっちゃろ。なら、はよやらんば」
創磨は少しだけ目を丸くした。
芽依はそういう時、意外と早い。
「みく」
芽依が声をかける。
「なん?」
「今日は、ひみつきち作るよ」
望来の顔がぱっと明るくなった。
「ひみつきち!」
「そう。めいとそうまが作る」
「みくも!」
「みくは……」
創磨が言いかけると、芽依が先に言った。
「みくは、見とる係」
「みる!」
望来はそれだけで満足したらしく、つよし号のへりをぽんぽん叩いた。
創磨は三つくっつけたベッドを少しずらした。
完全に離すのではなく、片側だけ持ち上げる。床板代わりに敷いていた木をどけると、下は土だった。
やっぱりここだ、と創磨は思った。
外からはわかりにくい。
ベッドの陰にもなる。
もし隠れるならここがいちばんいい。
「そこ掘ると?」
芽依が隣にしゃがむ。
「うん。入口はベッドの下」
「みく、入りやすか?」
「少し広げる」
「そうま、ちゃんと考えとったね」
「昨日からな」
創磨は石のシャベルを土へ入れた。
ざく、という音がする。まだ朝で体力もある。掘る手は思ったより進んだ。
芽依も反対側から掘る。
「どんくらい深く?」
「みくが座れて、頭ぶつけんくらい」
「それじゃエンダーマン……」
言いかけて、芽依は止まった。
創磨も止まる。
望来が聞いている。
「なに?」
創磨はすぐに土を崩しながら答えた。
「なんでもなか。高すぎたら暑かろって話」
「ふーん」
望来は深く追わず、またつよし号の上で足を揺らした。
しばらく掘ると、想像していたより空間が取れそうだった。
大人が立つのは無理だが、子どもならしゃがんで入れる。
望来と赤ちゃん村人なら、並んで座れるかもしれない。
創磨は途中で手を止めた。
土のにおいが上がってくる。
このにおいは、最初の夜を思い出させた。
あの狭い穴。暗さ。外のうなり声。芽依にしがみつく望来。
「そうま、どうしたと」
「……いや」
創磨は首を振って、また掘った。
同じ穴でも、今度は違う。
朝が来るまで震えて耐えるための穴じゃない。
守るために、先に作る穴だ。
そこが前と違った。
昼近くになったころ、入口と中の形が見えてきた。
創磨が下へ降りてしゃがむ。
芽依も横へ入る。
肩が少しぶつかるが、二人なら余裕がある。
「みく、入ってみる?」
望来は待ってましたみたいに、つよし号から降りた。
「はいる!」
「ゆっくりな」
芽依が手を貸すと、望来はちいさな足で穴へ入った。
目を丸くして、きょろきょろする。
「ひみつきち」
「どう?」
「いい」
短い返事だったが、声はうれしそうだった。
望来はそのまま座り込み、壁をぺたぺた触る。
「ここ、みくんち」
「みくんちじゃなか」
芽依がすぐにつっこむ。
「みんなの」
「みんなの、みくんち」
「どっちやねん」
創磨は少しだけ笑った。
その時、家の外から、小さな足音が聞こえた。
入口のほうを見ると、昨日の赤ちゃん村人がいた。
扉のところで立ち止まって、家の中をのぞいている。
「あ」
望来がすぐに反応する。
「あの子」
望来は穴の中から、ちいさく手を振った。
「おいで」
赤ちゃん村人はしばらくじっとしていたが、やがて、とてとてと家の中へ入ってきた。
警戒しているというより、様子を見に来た感じだった。
芽依が創磨を見る。
「ほんとに来た」
「うん」
「みくの友達、すご」
望来は穴の中から顔を出して、もう一度手を振った。
「ここ、ひみつ」
言葉が通じているのかはわからない。
けれど赤ちゃん村人はその近くまで来て、床の穴をのぞき込んだ。
創磨は少し迷ってから、手を差し出した。
「……落ちんなよ」
もちろん村人は創磨の手を取らない。
でもその代わり、望来が先に両手を伸ばした。
「おいで」
赤ちゃん村人は、ちょっと考えるみたいに首を傾け、それから、よたよたと穴の中へ降りてきた。
「うわ」
芽依が声を漏らす。
穴の中で、望来と赤ちゃん村人が並んで座る。
二人とも足が短くて、土の床にちょこんと乗っているだけだった。
「……入れた」
創磨は小さくつぶやいた。
望来はうれしそうに、赤ちゃん村人へ小さな花を見せた。赤ちゃん村人も、それをじっと見ている。
この空間は、急ごしらえの避難場所のはずだった。
なのに今は、ほんとうに秘密基地みたいに見えた。
「これなら、いけるかも」
芽依が言う。
「なにが」
「みくも、あの子も、ここなら少しは落ち着く」
創磨はうなずいた。
「まだ足りん」
「なにが」
「水。食べるもん。たいまつ。薬」
「……ああ」
芽依の顔も、少しだけ真面目に戻る。
午後はその準備に使った。
小さな木箱を置く。
焼きじゃがいもを入れる。
パンも少し。
たいまつは壁際。明るすぎず、でも暗くならない位置。
水はすぐ手の届くところへ置く。
薬は最後まで創磨が迷った。
手元に置きたい気持ちもある。
でも、隠れる時に間に合わなかったら意味がない。
創磨は薬袋を見つめたまま、しばらく動けなかった。
芽依がその横で、小さく言う。
「中に入れたがよかよ」
「……うん」
「怖かばってん」
「わかっとる」
「でも、みくが中に入る時、薬なかったらもっと怖か」
創磨は黙ってうなずいた。
薬を小箱のいちばん奥ではなく、すぐ見える場所へ置く。
望来がそれを見て、しゃがみこんだ。
「みくのおくすり」
「そう。ここにあるけんね」
「なくならん?」
その問いに、創磨の手が止まった。
「……なくさんようにする」
望来は意味まではわかっていない顔で、それでも「うん」と言った。
夕方前、創磨たちは一度、隠れる練習をした。
「みく、鐘が鳴ったら、ここ」
「ここ」
「あの子もおったら、一緒でよか」
「いっしょ」
「大きい声出さん。待つ」
望来は真剣な顔で聞いていた。
遊び半分なのか、本気なのか、その間の顔だった。
赤ちゃん村人も、たまたまいた。
創磨が鐘を軽く鳴らすと、村人たちが家へ走る。
それに混じって、赤ちゃん村人もこちらへ来た。
「……ほんとに来る」
芽依が言う。
「みく、あの子、こっち」
望来が穴の入り口から呼ぶと、赤ちゃん村人はまたするっと中へ入った。
望来が満足そうに笑う。
「ひみつ」
「ひみつやね」
芽依も今度は笑った。
床板を戻して、ベッドをずらし直すと、ぱっと見ただけではほとんどわからなくなった。
下に空間があるなんて、知らなければ気づかない。
創磨はその上に座って、しばらく何も言わなかった。
「そうま」
芽依が隣に座る。
「なに」
「まだ、あれ使うつもり?」
棚の上の瓶を見ないまま、芽依が聞く。
創磨はすぐには答えなかった。
使うつもり、ではない。
でも、使う日が来るかもしれないとは思っている。
「……わからん」
ようやくそう言う。
「ばってん、もしもの時、今日みたいに何もないままよりはよかやろ」
「うん」
「みくと、あの子も、ここなら隠れらるる」
「うん」
芽依は膝を抱えて、少しだけ顎を乗せた。
「なんか、ほんとにひみつきちみたいやったね」
「みく、喜びよったしな」
「そうやなくて」
芽依は小さく首を振った。
「そういう顔させんために作ったっちゃろ」
創磨は返事をしなかった。
その通りだったからだ。
夜になり、三つのベッドをくっつけた寝床にまた三人で入る。
望来はすぐに真ん中へもぐり込み、眠たそうに目をこすった。
「また、あした、あそぶ」
「誰と」
「ともだち」
そう言って、もう半分眠っている。
創磨は望来の頭を軽くなでた。
その向こうで、芽依も目を閉じる。
家の中にはたいまつの灯りがあった。
床の下には、水と食べ物と薬のある、小さな隠れ場所がある。
まだ何も始まっていない。
でも、ただ待っているだけでもない。
創磨は暗い天井を見ながら、小さく息を吐いた。
――隠れる場所はできた。次は、扉だ。




