不吉な瓶
その朝、望来は起きてすぐに言った。
「きょうも、あの子おる?」
まだ少し寝ぼけた顔のまま、つよし号に手をかけている。
創磨は一瞬だけ意味がわからず、すぐに昨日の赤ちゃん村人のことだと気づいた。
「おるかもしれん」
「いく」
「朝ごはん食べてから」
「いく」
「先に食べる」
創磨が言うと、望来は少しだけ口をとがらせたが、すぐに「じゃあ、はやく」と言い直した。
芽依がその様子を見て笑う。
「みく、もう友達んとこ行く気まんまんやん」
「ともだちやもん」
望来は当然みたいに言った。
昨日までは、村は生き延びるための場所だった。
でも今は少し違う。
畑がある。井戸がある。ベッドがある。たいまつがある。家の中で薬も飲める。
それに、望来にはもう、ここで会いたい相手までできている。
創磨はそれを考えながら、焼いたじゃがいもを三人で分けた。
食べ終わると、望来はすぐにつよし号へ座る。もう自分の足みたいな顔をしている。
「いく」
「行くばってん、村の中だけやけんね」
「うん」
返事はよかった。
けれど、こういうときの望来は、返事と動きが別々なことがある。創磨はロープを手に巻きつけながら、念のためもう一度つよし号の結び目を確かめた。
家を出ると、朝の村には昨日と同じように、ゆっくりした動きがあった。
畑の近くにいる村人。井戸のそばを歩く村人。家の前で立ち止まっている村人。
昨日よりも、少しだけその違いが見える。
創磨はつよし号を引きながら、村の外れへ目をやった。
空気は穏やかだった。けれど、何かが引っかかった。
風の音でもない。
村人の足音でもない。
から、と乾いた音がした気がした。
「そうま?」
芽依が創磨の顔をのぞく。
「……なんかおる」
「村人?」
「違う」
その時だった。
村の外れの低い丘の向こうから、灰色っぽい影がひとつ、ふたつ、みっつと現れた。
鼻の長い村人とは違う。
顔色が悪く、手には見たことのある形の武器――クロスボウがある。
その真ん中に、旗を背負ったやつがいた。
黒っぽい旗に、不気味な模様。
動画で見たことがある。
何度も見た。
創磨の背中がぞくっとした。
「……ピリジャー」
「なにそれ」
芽依の声が少しだけ硬くなる。
「襲うやつ」
「え」
創磨はすぐに村のほうを見た。
ここまで来られたらまずい。
村人も、畑も、井戸も、家も、望来の友達も、全部巻き込まれる。
頭の中で、知っていることが一気につながった。
旗持ち。
隊長。
倒すと、変な瓶を落とす。
それを飲んで村に入ると――
そこまで考えて、創磨ははっとした。
今はまだ、その先じゃない。
とにかく、ここへ入れたらだめだ。
「芽依、みく、家ん中!」
「え、今すぐ?」
「今!」
珍しく創磨が強く言うと、芽依もすぐに顔色を変えた。
「みく、入るよ!」
「えー」
「えーじゃなか!」
芽依がつよし号の向きを変える。創磨はロープを引いて、望来ごと家のほうへ急いだ。
その途中、ちょうど畑の近くで、昨日の赤ちゃん村人がいた。
望来がそれを見つけて、体を乗り出す。
「あ」
「みく、だめ!」
芽依が肩を押さえる。
赤ちゃん村人の少し向こうで、大人の村人もこちらを見ていた。まだ何が起きるのかわかっていない顔だ。
創磨は家の前を通り過ぎて、村の中央へ走った。
あった。
鐘だ。
今まで気にしていなかったけれど、村の広場の柱の下に、金色っぽい鐘が吊られている。
創磨は腕を伸ばし、思い切り叩いた。
ごん、と重い音が村じゅうへ響いた。
もう一回。
ごん。
その音と同時に、村人たちの動きが変わった。
畑の村人が家へ走る。井戸の近くのやつも走る。赤ちゃん村人も、大人に引っ張られるようにして消えていく。
「そうま!」
芽依が叫ぶ。
振り向くと、村の入口近くの道へ、白くて大きな影がぬっと現れていた。
今まで遠くで何度か見た気もする。
でも、ちゃんと見るのは初めてだった。
鉄ゴーレム。
四角い体の、巨大な番人。
村の守り手。
「……おるやん」
創磨は思わずつぶやいた。
「なにあれ」
「味方」
「ほんとに?」
「たぶん」
「また!」
芽依が怒るみたいに言う。
でもその顔は、少しだけ安心していた。
ピリジャーたちはもう、村のすぐ近くまで来ていた。
クロスボウの構え方が見える。
この距離なら、撃たれたら危ない。
創磨は鐘のそばの柱の影にしゃがみこんだ。
心臓が速い。
手のひらが汗で滑る。
どうする。
逃がすな。
でも正面からは無理だ。
その時、視線の端につよし号が入った。
いや、つよし号じゃない。家の横に、まだ使っていない小さな木のボートが立てかけてある。昨日、板材の残りで試しに作ったやつだ。
動画で見たことがある。
ボートは、陸でも使える。
人間だけじゃない。
モブもはまる。
創磨は息をのんだ。
「芽依」
「なに」
「みくば家に入れて、扉閉めて」
「そうまは」
「ちょっとだけ行く」
「やだ」
「隊長ば、止める」
芽依の顔が真っ白になる。
「ひとりで!?」
「ゴーレムおるけん。他のやつは、あれがやるかもしれん」
「かもしれんて!」
その時、矢が柱に突き刺さった。
ぱん、と乾いた音がして、芽依がびくっと肩を縮める。
創磨も心臓が跳ねた。
「行く!」
返事を待たず、創磨はボートをつかんで走った。
怖い。
足がすくみそうだった。
けれど、村の中に入れたらもっとまずい。そう思ったら、止まれなかった。
旗持ちが先にいた。
後ろに二人。
クロスボウの音がまた鳴る。
創磨は家の角を使って体を隠しながら、旗持ちの進む道の前へ、思い切ってボートを置いた。
すとん、と木の船が地面へ収まる。
「こっち!」
思わず叫んだ瞬間、自分でもしまったと思った。
でも遅い。旗持ちが創磨を見た。灰色の目がまっすぐ向く。
創磨は反射みたいに家の角へ飛び込んだ。
矢が壁に刺さる。
足音。
近い。
次の瞬間、旗持ちが一歩踏み出し、そのまま木のボートへはまり込んだ。
「……入った」
創磨の口から声が漏れる。
旗持ちはボートの中でもがいている。
完全じゃない。でも、止まった。
その瞬間、白い大きな影が横から飛び込んできた。
鉄ゴーレムだ。
残りのピリジャーへ向かって、その巨大な腕を振るう。
鈍い音。土の上を転がる影。クロスボウが跳ねる。
創磨はそれを見たあと、ボートの中の旗持ちへ駆け寄った。
石の剣を握る手が震える。
怖い。
でも、やるしかない。
ひと振り。
ふた振り。
旗持ちが暴れる。
創磨は歯を食いしばって、もう一度振った。
ようやく、旗持ちの体が崩れ落ちる。
音もなく、いくつかの物が地面へ落ちた。
旗。
クロスボウ。
そして、小さな瓶。
中に、どろりとした暗い色の液体が入っている。
創磨の背中が冷たくなった。
「……やっぱり」
それだった。
不吉な瓶。
飲んだら、よくないことが起きるやつ。
「そうま!」
芽依の声が飛んでくる。
振り向くと、残りのピリジャーは鉄ゴーレムに弾き飛ばされ、村の外のほうへ逃げるように散っていったところだった。
ゴーレムはしばらくその場に立ち、敵が消えたのを確かめるみたいに動きを止める。
創磨は、そのあいだに瓶を拾った。
ガラス越しに見える液体の色が、朝の光の中でも不気味だった。
「そうま、だいじょぶ!?」
芽依が走ってくる。
その後ろから、望来の顔も家の扉のすき間に見えた。
「そうま!」
「出てきたらだめ!」
創磨が言うと、望来はびくっと止まった。
芽依は創磨の腕をつかんだ。
「けがしとらん?」
「しとらん」
「ほんと?」
「ほんと」
答えながら、創磨は自分の鼓動がまだ速いのを感じていた。
けがはしていない。
でも、足は少しだけふらついていた。
望来がつよし号から身を乗り出して、泣きそうな顔をする。
「そうま、こわかった」
「うん」
創磨は瓶を後ろに隠して、できるだけ普通の声で言った。
「もう大丈夫」
「ぐるる、おった?」
「ぐるるやなかった。ばってん、もうおらん」
望来は少しだけ安心したように、つよし号のへりを握り直した。
その時、創磨の視線の先を、小さな影がよぎった。
昨日の赤ちゃん村人だった。家の陰からそっと顔を出して、こちらを見ている。
望来もそれに気づいて、小さく手を振る。
「おった」
その一言に、創磨は胸の奥の緊張が、少しだけほどけるのを感じた。
村は守れた。
少なくとも、今日は。
けれど、手の中の瓶は、守れたで終わらせてくれない感じがした。
家に戻ってから、創磨はそれをチェストの奥ではなく、誰にも触られない高い棚の上へ置いた。
望来の手も、芽依の手も届かない場所。
芽依がそれを見上げる。
「なに、それ」
「……よくない瓶」
「毒?」
「たぶん、もっとやだやつ」
「飲まんがよかと?」
「絶対飲まん」
創磨は即答した。
芽依はそれ以上聞かなかった。
その代わり、少しだけ真顔になってうなずく。
「なら、さわらんどく」
「うん」
望来はつよし号の中から棚を見ていたが、創磨が「だめ」と言う前に、もう興味をなくしたみたいに赤ちゃん村人のほうを見た。
「また、あそべる?」
「……遊べる」
創磨はそう答えた。
答えながら、自分の中では別のことを考えていた。
この瓶を持ったまま、村へ入るのがまずい。
飲んだらもっとまずい。
でも、いつかは使うかもしれない。
使うなら、その前に準備がいる。
もっと火。
もっと食べ物。
もっと守り。
望来と赤ちゃん村人が隠れられる場所。
村人を守る手。
たまたまみたいに見える形で、ちゃんと備えておかなければならない。
創磨は窓の外を見た。
畑の村人が、また土の列のあいだを歩いている。
鉄ゴーレムは、何事もなかったみたいに村の端をゆっくり回っていた。
さっきまでと同じ村の朝のはずなのに、もう少しだけ違って見える。
ここは、放っておけば守られる場所じゃない。
守るために、知っておかなければならない場所だ。
創磨は棚の上の瓶を見上げて、小さく息を吐いた。
――村の外にも、敵はいる。次は、備えだ。




