第九章 冬の終わり
こんにちは。いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
四月に入り、新学期に入りました。
空気はまだ冷たいですが、風の中にほんの少しだけ春の匂いが混じり始めています。
第九章は、そんな季節の変わり目に、悠が駅のホームで老人と交わす「最後の対話」のお話です。
老人が悠の「穴」に向けて語る、静かで、けれど力強い言葉。
どうか、悠と一緒にその言葉を胸に刻んでいただけたら嬉しいです。
それでは、第九章「冬の終わり」をお楽しみください。
三月に入り、冬の終わりがようやく近づいていた。
空気はまだひんやりと冷たいが、風の匂いの奥底に、土の湿り気や春の息吹がかすかに混ざり始めているのを感じる。
悠は、期末テストを終えた解放感とともに、いつものように駅へ向かった。
ホームの端。
老人は、まるで風景の一部のように、いつもの場所に立っていた。
「こんばんは」
悠が声をかけると、老人はゆっくりと振り向いた。気のせいか、いつもより顔色が少し蒼白に見えた。
「ああ。学生か」
老人はかすかに微笑んだ。
「今日は少し遅いな。テストは終わったのか」
「はい、なんとか。これで二年生も終わりです」
「そうか。早いものだな」
生暖かい春一番のような風が強く吹いた。
急行電車が、轟音を立ててホームを通り過ぎていく。風圧で老人の体が少しよろけたのを、悠は手を伸ばして支えようとしたが、老人は自分でしっかりと踏みとどまった。 電車の音が遠ざかった後、老人は悠の方をじっと見て言った。
「お前は」
悠は顔を上げた。
「お前は、人をよく見ているな」
「え?」
「他人が何を考え、何を痛がっているか。それをちゃんと見ようとしている。いいことだ」
悠は少し困ったように、頭を掻きながら笑った。
「そんなことないです。俺、今まで何も見えてなかった。自分のことばっかりで……最近やっと、少しだけ気づき始めたっていうか」
老人は静かに首を振った。
「いや」
そして、優しい声で言った。
「それはな。お前の心に、傷があるからだ」
悠はハッとした。胸の奥を見透かされたような気がした。
胸の奥で、穴が小さく震えた。
半径18ミリ。
そこに吹き込むのは、もう冷たい空気ではなかった。どこか懐かしいような、少しだけ暖かい春の風が通った。
「傷はな」
老人は、夕焼けの残滓が滲む空を見上げながら続けた。
「決して悪いものじゃない。痛い思いをした人間は、強くなるんじゃない。優しくなるんだ」
「……」
「その傷穴があるから、人は、他人の痛みに通じる風を感じることができる。お前は、そのままでいい。その傷を塞がずに、持ったまま大人になりなさい」
それが、悠が聞いた、老人の最後の長い言葉だった。
悠は「はい」とだけ言い、深く頭を下げた。
第九章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「痛い思いをした人間は、強くなるんじゃない。優しくなるんだ」
老人のこの言葉が、悠の胸に開いた「半径18ミリの穴」を初めてあたたかな春の風で満たしてくれました。傷を塞ぐのではなく、持ったまま生きていく。その肯定が、どれほど悠を救ったことでしょうか。
次回、第十章は「いない場所」。
物語は、予期せぬ局面へと向かいます。
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変わらず3日に1話ずつのペースで更新してまいります。
次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします。




