第八章 老人の過去
こんにちは。いつもお読みいただき、本当にありがとうございます。
季節は少しずつ進み、冷たかった冬の風にもかすかに春の気配が混じる頃。
悠はいつもの駅のホームで、老人と静かな時間を共有していました。
第八章は、かつて透明人間のように扱われてきた老人の「過去」と、彼が悠に向けて語る大切な言葉のお話です。
少し切ない展開になりますが、二人の時間をどうか最後まで見守っていただけたら嬉しいです。
それでは、第八章をお楽しみください。
数日後、塾へ向かう駅のホームで、悠はいつものように老人と並んで立っていた。 寒さは相変わらず厳しかったが、悠の心は以前よりも澄み切っていた。
「おじいさんは、ずっとここにいるんですか」
ふと思い立って、悠は尋ねた。
老人は、少し驚いたような顔をしてから、声を出して笑った。
「さあな。自分でもわからん。ただ、ここから行き交う人を見るのが日課になってしまった」
「家は、あるんですよね?」
「ああ、ある。古くて狭いが、雨風はしのげる」
少しの沈黙があった。電車のレールがかすかに鳴っている。
やがて、老人は遠くを見るような目をして、ぽつりと言った。
「若いころな」
悠は真剣な顔で顔を上げた。
「町工場の、プレスの機械を一日中動かす仕事をしてたんだ。油まみれになってな」
「はい」
「私は、外国人だったんだよ。生まれは向こうだが、親の代にこの国に来た」
悠は少し驚き、老人の顔を見つめた。流暢な日本語、日本の老人のような風貌。全く気づかなかった。
「日本で、ずっと働いていたんですか?」
「そうだ。何十年もな。税金も払ってきたし、この国の人間として生きてきたつもりだった」
老人は、自嘲気味にゆっくりと続けた。
「だが、工場では、名前もちゃんと覚えてもらえなかった。鈴木や佐藤と同じように呼んでほしかっただけなのに」
冷たい風が吹き抜け、老人の白髪を揺らした。
「『おい、三番』『そこの外人』……番号や、属性で呼ばれてた。私が『私』として扱われることは、最後までなかったな」
悠は言葉を失った。アリの姿が、老人の過去と重なった。
「差別ってな」
老人は、悠の目を見て言った。
「ニュースになるような、暴行とか大きな事件じゃないことのほうが多いんだよ。むしろ、それは氷山の一角だ」
「……」
「日常に潜む、小さな小さなことの積み重ねだ。すれ違いざまの舌打ち。あからさまに避けられること。名前を呼んでもらえないこと。透明人間のように扱われること」
老人は再び、重色の空を見た。
「でもな。その『小さいこと』が、毎日毎日降り積もっていくと」
声は静かだったが、深い悲しみを湛えていた。
「それは確実に、人の心を殺す。人生の形を、歪めてしまうんだ」
そのとき、悠は胸の奥の穴が、強く脈打つのを感じた。
半径18ミリ。
その小さな中心から、老人の長い長い孤独の歴史に向かって、何かが外へ、強く広がっていく。想像力が、時間と空間を超えて、他者の痛みに触れようとしていた。
第八章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「傷があるからこそ、他人の痛みに通じる風を感じられる」
老人が遺したその言葉は、悠の胸にある「半径18ミリの穴」を優しく肯定し、これからの彼を支える温かい光になったはずです。別れは突然で悲しいものですが、老人が悠の心に残したものは決して消えません。
次回は、この別れを経て悠がどう前を向くのか、物語がいよいよ結末へと向かっていく展開になります。
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引き続き、3日に1話ずつ投稿していく予定です。
次回の更新も、どうぞよろしくお願いいたします。




