27 半現実
朝は不吉の始まり。
気持ちの良い目覚めではなかった。不快な夢を見た事は覚えていた。そのせいで首を振り、腕を突き上げ、つまり自分の寝相が悪くて目が覚めたのだった。動悸は痛いほど早く、寝間着が汗で湿っている。起床したばかりだというのにグッタリとしてしまった。
しばしばこういう夢を見た。鬱屈した生活が長引くと悪夢を見るようになる。殺される夢、気味の悪い夢、落下する夢などあるが、たまにこうして連続している夢も見た。連続している夢とはドラマのように続いているもので、いつその続きを見られるのかも分からず、まるで不定期の小冊子を待つようなものだった。しかし、夢には既視感が付きものなので、僕が連続の夢を視ていると勘違いしているだけなのかもしれない。
体はすでに乾いていたので、ビショビショの衣服を着替え、それを洗濯機に突っ込んでしまうと、湿ったシーツとタオルケットをベランダに干した。よく晴れている。一旦引っ込んで、冷蔵庫から飲み物を注いで、またベランダに戻った。昨晩漬けておいた水出しの麦茶が香ばしく、一息に飲み干してしまうと、体の芯からグワッと発熱し汗が染み出してくる。まだ悪夢の熱が籠っている。冷や汗の残り。
夏の朝。陽差しは強い。地上ではアスファルトの渇いた匂いだとか、発熱する車列にウンザリする通勤通学の人々がいるはずだが、高層マンションのここからは見えない。陽差しがもっと高くなれば、立ち昇る陽炎と汗だの排ガスだの、この時期の湿気だので眼下は霞んでしまうだろう。日によっては涼しく秋の香りも感じたりはするのだが、まだ夏の勢力は強い。地上よりも遥かに太陽は近く、空気の薄さによって鋭く清浄なものであるかのような陽光は、しかし実際は絶え間ない循環によって地表から競り上がってきたガスにまみれている。そこに足音とか、朝の雑踏の匂いだとか、早朝から働く人々の気持ちの切り替わる音のようなものが混じっているようで……何とも憂鬱になるのだった。社会から取り残される不安と一緒に、自身が変わらずにいられる安心感を得て、将来を考えてまた不安になる……。
寝起きの頭でいつも考える事はこんなものだ。労働社会についていけない人間は揺るぎない個性や実力が必要だ。しかし、その持ち合わせのない僕はどうしたらいいのか。いい歳した男がブラブラしているのを許す家族はいない。子供ならともかく金を生み出さない人間は、家族にとって金食い虫のゴクツブシ、不要なのだ――不要家族というやつだ(完全オリジナル)。
する事のない朝。僕の一日はこうして始まる。ベランダに巡らされた柵越しに空を見る。柵は物が落ちないためであり、僕が身投げしないためのものであったが(そんな度胸もないくせに!)、まるで天使を閉じ込めた牢屋のように見えるだろうか――という社会不適合なメランコリーを、普通の大人はしないものだ。皆、子供の将来や家のローンや仕事の進捗が思考を占める筈で、児童的思考の名残りである僕がまともな社会人に戻る日はもう来ないだろう。
職場と自宅の往復だけの生活が定年まで続く事を考えただけで気が遠くなるような弱者は、どのみち一人で生きていけない。規範から逸れ、楽な方へと行くうちに犯罪的欲望と親しくなり、緩慢な社会的死を迎え、いつかは本当に死ぬ、そんな未来予想図を描く朝。
それはそれとして――そんな事に飽きてしまったので洗顔をしようかと、中に戻ってマグカップを台所で軽くゆすいでから洗面台に入る。この頃はきれい好きになった。頻繁に手を洗うし……他にする事もなかったせいだが。
鏡に映る顔を見ながら「お前はクズだ」「早く首を吊れ」と言うようになったのはいつの頃からか。自分の顔ではあるが、老け込んでゲッソリとしたうだつの上がらない顔へ悪態をつく度、本当に憎らしくなった。すぐ頭に血が上る人の事を瞬間湯沸かし器というが、まさか自身の顔をもって体感するとは思わなかった。能無しの引きこもりの不細工の金欠の――鏡視の悪態は尽きない。そのくせ自分が可愛くて社会から逃げ出したアダルトサバイバーを気取っていて、物を触るとすぐに手洗いしたくなる潔癖に――。
このように自己嫌悪を回転させるうちに時間が過ぎていく。鏡の前に立ったまま体が硬直する。瞬きもせずに、妙な抑圧を感じて黙り込んでしまう……身動ぎすれば何かを失ってしまうような、不可解な緊張感というか、言葉が出ないというか……どうしようもない現状と過去の失敗を絶えず思い返しては後悔と恨みを重ねていく……鏡中の僕は負の対象たるドッペルゲンガーだった。同時に在りしの日の残骸であって、映っているのは屍体という事になった……。
そんな遺影の国のアリス的思考を回転させていくと、自己がボンヤリとなってしまう。止めようとしても、次々に妄想が上書きされていくようで、まるで風紋を模写するかのような……今もそうしている通り――。
――水紋的に視界は滲んでいき、じんわり寄り目になる。遺影の国に埋没して眼球は弛緩し、物が二重にピンぼける。幼少期に排泄を我慢して快楽を感じた、密やかな抑圧が蘇り、仕出かした後の叱責がこれ以上の風紋模写を許さない。遺影的鏡に浮かぶ僕は水紋のように姿を滲ませて、鏡面に浮上しないのだ。さしずめ溺死体で、映っているのはやはり屍体という事なのだ。
生きているような死んでいるような――半現実の視力にも視えるものはあるらしい。寄り目が極まると、ちょうど騙し絵を観る要領でピントは一致し何かを表した。硬直的な抑圧も手伝って、夢見心地で瞬時に会得したものは文字群であり、以下の伝言に満ちていた――、
ボクハ ビョウキダ アネヲ シルト ネエサンヲ ミルト
ヨカラヌ コトヲ オモワク シテシマウ
ビョウインノ トアル イッシツデ ハクイスガタニ ミヲ ツツンダ ネエサンハ
カラノ ビョウシツ ハルゴロノ イイ テンキニ チョウガ トンデモ
カラノ ビョウイン ボクモ フザイ アネモ フザイ
ダレモ イナイノニ ダケド ボクハ イテ ネエサンハ イルノカ イナイノカ
ワカラナイ
テヲ ヒカレテ マツリバヤシニ トケコンデ オウゴンイロノ キセツノジカンノ ナカ
コンノ ハナモヨウ ユカタヲ キテイタ ネエサンノ ウシロスガタガ キエテ
ボクハ ヒトリポッチ シキ
ヒダリテニ ボクヲ ツカンデ ミギテニ ミズフウセン オビニ ウチワ ヲ サシタ
クロカミノ アネガ スガタヲ ケシテ ボクハ ズット ズット トリカエソウト シテイルノニ
ネエサンノ トテモ ヤワラカイ ミサオハ シレヌ ママ カタル ワレモガ ウシロノ ショウメン
ボクハ 見エナイ ケレド 夢ミタ 砂ダラケ ダケド
姉サンノ 肩越シニ 螺旋ノ ユートピア
輝鶏 眼帯 アナモルフォーシス スペア・キー・イン・キー
空ノ病室 ボクハ 一人デ 姉モ 一人デ 光ヲ待ッタ
単眼ニウス 産マレタ弟 異次元病院 白磁サナトリウム
二人目ノ男 最後ノ仲間ガ 天使メイテ 浮遊シタ フリ
姉ヲ助ケテ 時計ニナレテ 幸セ 身体消失 シナクチャ ケチャ ピクチュア
オ前ガ 自立スルナンテ 無理 ヒキコモリノ ゴクツブシノ クセニ
親殺シ 家ヲ 失クシタ オ前ハ 生キテイルダケデ……
――社会不適合者というやつは、こういうものだろうか。人付き合いが億劫で、規則正しい生活を過ごせず、妄想と現実の区別がつかないという……もとより、ここ数年の自分そのものであるから、いまさら考える事もないのだが、夢と現実の違いが分からなくなるというのはいささか問題で、いよいよここまで悪化したのかと、駅前で通り魔を気取る男を映す防犯カメラのヴィジョンが視えてくる――そこで寄り目のトリップは終わった。とても目が疲れる。
児童的抑圧は解け、文字群も視えなくなった。焦点が戻り、鏡には最低の人間と洗顔剤の渇いた飛沫が張りついているだけだ。目がピンぼける事は昔からあったが、夢と連動するような幻は初めてである。神経内科に行こうかと思ったが、ゴクツブシの僕には医療は贅沢品であったので諦めた。
手早く洗顔し身支度を済ませ、天気予報を確認すると、靴を履いた。職安に行くのだ。シーツとタオルケットは干したままでいいだろう。
職安に着いたのは昼だ。道中、暑さを言い訳にして、古本屋だのコンビニだのでサボっていたので遅れたのだ。時間を約束していたわけでもないから、着いた頃には職員皆、出払っている。常駐する受付の職員(きっと彼女らも派遣だ)に利用カードを見せてから端末機に腰掛け、タッチペンでポツポツやり出す。
僕の他にも数人の求職者がいた。同じようにポツポツしたり、情報を印刷している。省エネの冷房では暑く、端末機の熱で汗をかく。袖や二の腕で拭いながら、画一的なディスプレイの配置に潜り込むような猫背で、皆、自分を必要としてくれる文言を検索していた。
皮脂だらけのペンやディスプレイに早速嫌気が差して、もともと探す気がないのだから当たり前ではあったが、「即戦力」「経験者」「派遣」という条件ばかりヒットしてくると……。僕は席を立った。多少の気まずさを周囲に感じながら、空気の淀んだ職安からそそくさと出てしまった。受付を過ぎる際、職員が攻撃の電波を僕に向けた気がしてならない……。
帰り道のドラッグストアでよく冷えた缶コーヒーを一杯飲み干すと、職安の臭い暑さからの開放感は感じたものの、外気はやはり高温だった。本当はたった百円ほどのジュースを買う余裕も財布にないのだが、何となく仕事をひとつやり終えたような無責任な解放感で、つい買ってしまう。カイホウ感はすぐに金の心配、将来の不安になるもので、そそくさと帰宅する他に手っ取り早い解消もなかった。言い訳のつもりで無料の求人誌を一部もらっていく……。




