第9話:それぞれの時間
別れた日から、電話は鳴らなくなった。 仕事が終わる時間になると、無意識にスマートフォンに手が伸びる。けれど、画面は暗いままだった。 「あ、もう電話は来ないんだ。」 頭では分かっていても、毎日のように聞いていた「お疲れさま」という声がない静けさは、思っていた以上に重く、冷たかった。
やっぱり、すぐには忘れられなかった。 別れた直後の毎日は、暗闇の中に放り出されたようだった。 一人で部屋に戻ると、静けさが耳鳴りのように響く。どうしようもない寂しさと喪失感から逃れるように、私はお酒を浴びるように一人で飲んだ。 アルコールの力を借りなければ、正気を保っていられなかった。酔いに身を任せながら、部屋の隅で、声を出さずにただひたすら泣いた。 「どうして……」 「愛しているのに……」 誰もいない部屋で、一人で何度も名前を呼び、愛していると呟き続けた。
ふと部屋を見渡せば、彼女との思い出の品が残っている。 ふたりでお揃いで買ったペアリング。そして、あの頃、本気で未来を誓って書き上げ、彼女に送った「結婚宣言書」。 あんなにも本気で、この人と生きていくんだと信じて疑わなかった。未来のすべてをそこに賭けていたのに、それがすべて過去になってしまった現実が、どうしようもなく苦しかった。 こんなにも愛していたのに、どうしてこうなってしまったんだろう――。お酒の力を借りて涙を流す夜は、終わりのない暗闇のようだった。
それでも、生活をしていれば、日常は容赦なくやってくる。 スーパーへ足を運ぶと、そこには危険があふれていた。 特に、手羽先のコーナー。 そこを通るたびに彼女の顔が浮かんでしまうから、私はわざわざ視線を逸らし、その近くを通らないように避けて歩いていた。あの頃の思い出が一気に溢れ出して、もし見たらその場で泣き出しそうになってしまうのが怖かったからだ。 ポカリスエットの棚の前でも、お粥の材料を見るたびでも同じだった。日常の買い物のひとつひとつに、彼女との記憶が突き刺さるようだった。
「元気にしているかな。」 そう心の中で呟いても、自分から連絡をすることはなかった。彼女が選んだ未来と、あの言葉を尊重したかったからだ。
「恋愛をするのは、私で最後にして。」 「今以上に、人を愛して欲しくないの。」
彼女が残したその重くて温かい言葉は、消えることなく心の奥底に深く沈み込んでいた。 時間が経てばいつか薄れていくと思っていた。けれど、人は思い出を綺麗に消し去ることはできなくて、ただ思い出との付き合い方を少しずつ覚えていくだけなのだと、あの頃の私はようやく気づき始めていた。




