第8話:最後のデート
その日が、最後になるなんて思っていなかった。 いつものように待ち合わせをして、一緒にご飯を食べた。他愛もない話をして笑って、ゆっくりと時間が流れていく。特別な一日ではなかったからこそ、私は何も疑わなかった。
けれど、時間の経過とともに、ふとした瞬間に小さな変化を感じ取っていた。 いつもと同じように笑っている。ニコニコと話している。それなのに、伏し目になったとき、彼女の表情の奥にある影が見えた。 そして、ふと気づいた。 相手の呼吸が浅くなっている。 どうしたのだろうと不安になり、そっと「どうしたの?」と声をかけながら背中をさすった。その優しさに触れた瞬間、彼女は耐えきれなくなったように涙を流してきた。 そのとき、私は何となく察していた。今日が、何かを決断するための日なのだということを。
帰る時間になり、車の中には少し重く静かな空気が流れていた。 彼女は窓の外を見つめたまま、しばらく何も話さなかった。覚悟はしていた。心のどこかで、このままではいけないという予感があったからだ。
しばらくして、彼女はゆっくりと口を開いた。 喉を詰まらせるような、絞り出すような声だった。言葉を紡ぐその姿を見て、伝えるほうもどれほど辛いだろうかと痛いほど伝わってきた。 私は何も言わず、ただ黙って彼女の手を握り、最後までその話を聞いた。
彼女は、静かに言った。 「……別れたい。」
その一言で、車内の時間が止まった。 転勤のこと、住む場所のこと、仕事のこと、子どものこと、一緒に暮らすこと。 これまで何度も話し合ってきた現実を、彼女はひとつひとつ言葉にしていく。 「考えれば考えるほど、不安になっちゃって。」
分かっていた。お互いの仕事の厳しさも、これ以上どう動けばいいのか分からない無力感も、すべて分かっていた。だからこそ、私は言葉に詰まった。 それでも、彼女は最後に、さらに絞り出すようにこう言った。
「お願いがあるの。」 「今以上に、人を愛して欲しくないの。」 「恋愛をするのは、私で最後にして。」 「また誰かと付き合って、苦しい思いをする人が一人でも増えるくらいなら……私で最後でいいと思うんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥は激しく引き裂かれた。 まるで心臓を手でぎゅっと握り潰されたような、そして首を絞められているかのような、息もできないほどの圧倒的な苦しさと動揺が全身を駆け巡った。
別れを告げられているのに、どうしてそんなに切実な言葉をかけるのだろう。 喉が締め付けられるように苦しかった。 帰り道の景色はほとんど覚えていない。ただ、彼女の手を握った感触と、あのとき突き刺さった言葉の数々だけが、胸の奥に深く焼き付いて離れなかった。




