第10話:指の記憶
季節が巡り、また別の土地へ転勤することになった。 新しい環境、新しい人間関係。仕事をこなしながら、見知らぬ土地で日々を過ごしていくうちに、世の中には本当にいろんな人がいるんだなと、どこか俯瞰して周りを見る余裕も少しずつ生まれていた。 あんなにも終わらないように思えた悲しみの日々も、時間は少しずつ、確実に流れていた。
それでも、ふとした瞬間に過去の記憶が顔を出す。 部屋の整理をしていたとき、あのペアリングを見つめた。 もうこれをつけて歩くことはない。頭では分かっていながらも、すぐに手放すことはできなかった。だから私は、手放してしまうその直前に、もう一度その指輪をそっと自分の指にはめてみた。 ひんやりとした金属の感触が、肌に馴染む。 「何号だったっけな」 忘れないように、あるいは、この手の感触を最後に形として残しておきたかったのか。指のサイズを紙にしっかりとメモしてから、私はそれを手放した。 笑い話のようだけど、あのときの私にとっては、それくらい彼女との記憶がすべてだった。
結婚宣言書の紙も、同じように手放した。 けれど何年後だったか、ふとその宣言書のテンプレートやサイトを見つけてしまい、思わずその写真をスマートフォンに保存してしまった。 その画面を見つめながら、「ここにまた、新しい人との名前と日付が書かれる日が来るのかな」と、どこか他人事のように、そして少し切なく考えている自分がいた。
形あるものはすべて手元から消えてしまった。 けれど、彼女が残していった言葉だけは、今も消えずに胸の奥に残っている。
「恋愛をするのは、私で最後にして。」 「今以上に、人を愛して欲しくないの。」
新しい出会いがあっても、誰かと深く関わるたびに、心のどこかでその言葉がブレーキをかけるような、あるいは大切なお守りのような感覚で響いていた。 もう過去の恋にしがみついているわけではない。けれど、あの痛みを伴った別れと、彼女から向けられた圧倒的な愛しさは、私の人生のひとつの確かな刻印になっていた。
時間は傷を完全に消してくれるわけじゃない。 ただ、その痛みと共に生きるための優しさを、少しずつ教えてくれるだけなのだと、新しい土地の空を見上げながら、私は静かにそう思った。




