第4話:秋の夜、高速道路を走る
秋も少し深まってきた頃だった。 昼間の穏やかさが嘘のように、夜の冷気が肌を刺すような季節になっていた。 その日、仕事の区切りをつけてスマートフォンを手にしたとき、彼女から一本の着信が入った。
画面に表示された名前を見た瞬間、私は胸騒ぎを覚えた。 いつもより、あまりにも低く、力のない声だった。
「今日ね……仕事中に、急に激しい吐き気と目眩がして……立っていられなくなっちゃって……」
彼女は以前からヘルニアを抱えていた。 転勤を繰り返すたびに紹介状を書いてもらい、知らない街で新しい病院を探し、治療を続けながら必死に仕事をこなしていた。痛みを抑えるための強い薬を飲み、それでも弱音を吐かずに働き続ける姿を、私は近くで見てきた。 その日は、何とか定時まで仕事を終えたものの、一人で車を運転して帰宅するのがやっとだったという。
「家に着いて、そのまま玄関で動けなくなって……今はベッドで横になってるの。でも、頭が割れそうに痛くて……」
その言葉を聞いた瞬間、私のなかの時間が急に早送りされたように血の気が引いた。 「何か食べた?」 焦る気持ちを押し殺して問いかけると、受話器の向こうからかすかな首振りの気配が伝わってきた。
「ううん……何も。気持ち悪くて、冷蔵庫を開ける気力もなくて……」
「ご飯なら少しはあるよ」と、彼女はかろうじてそう教えてくれた。 私は時計を見た。夜の八時を少し回ったところだった。 その日はたまたま仕事が少し早く終わっていた。しかし、彼女の住む街までは、車を飛ばして優に二時間半はかかる距離だった。 「今すぐ、行くから」 気づけば、私はそれ以外の言葉を発していなかった。
「え……? 来るって、今から……?」 「うん。一人にしておけないから。待ってて」
電話を切ると、私はすぐに家の鍵を掴み、自分の車へと走った。 夜の闇に包まれた高速道路に乗る前、私は地元の大きなスーパーへと立ち寄った。 自動ドアをくぐり、広い店内をカートを押しながら歩く。 深夜のスーパーの棚には、生活の匂いが溢れていたが、そのときの私にとって、そこはまるで戦場のように慌ただしく、かつ冷徹な空間に感じられた。
ご飯はあると聞いていた。それなら、お粥の上に乗せるものが必要だ。 バナナなどの果物、卵、ネギ、梅干し。食欲がなくても口にしやすいもの、少しでも栄養がつくものをと思いながら、一つひとつ丁寧にカゴへと入れていく。 レジに並ぶ間も、焦りと不安で胸が締め付けられるようだった。
買い物を済ませ、車に乗り込む。 エンジンをかけ、アクセルを踏み込むと、車体は夜の高速道路へと滑り出していった。
窓の外を流れる景色は、どこまでも暗く、冷たかった。 高速道路のオレンジ色の街灯が、パラパラとフロントガラスをかすめては後ろへ流れていく。 約二時間半。 一人きりの車内は、異様なほど静かだった。 ラジオをつける気にもなれず、ただエンジンの低い唸り声と、自分の荒い呼吸音だけが車内に響いている。 アクセルを踏み込む右足に力を込めながら、私は何度も心の中で彼女の名前を呼んでいた。 「どうか、これ以上苦しんでいませんように」 「間に合ってくれ」 祈るような気持ちで、暗い夜道をただひたすらに走り続けた。
どれくらい時間が経っただろうか。 ようやく彼女の住む街のインターチェンジを降り、見慣れない夜道をナビの画面を頼りに進む。 彼女の住むアパートの明かりが見えたとき、私の心臓はバクバクと激しく鳴っていた。
車を停め、エンジンを切り、階段を駆け上がる。 静まり返った廊下を進み、ドアの前に立つ。 深呼吸を一つして、そっとインターホンを押した。
数秒の沈黙のあと、ガチャリと鍵が開き、ゆっくりと扉が引かれた。
そこに立っていたのは、血の気が引いたように青白い顔をし、痛みに顔を歪ませた彼女だった。 あまりの驚きに、私は思わず息を呑んだ。 パジャマ姿のまま、壁に手をつきながら私を見つめている。
「……本当に、来たの……?」
かすれた声で、彼女は信じられないといった表情を浮かべていた。 私は持っていたスーパーのレジ袋をそっと見せながら、できるだけ穏やかな笑みを作って言った。
「当たり前だよ。辛かったね、もう大丈夫だから」
部屋へ足を踏み入れると、玄関のすぐ脇にある台所から、どこか冷えた空気感が漂っていた。そして、部屋全体には、彼女が貼った湿布特有のツンとした匂いがほのかに立ち込めていた。 一人でどれほど痛みに耐えていたのかを想像すると、胸の奥がキュッと痛んだ。
「作っている間はしんどいだろうから、寝てていいよ。出来上がったら起こすからね」
そう優しく声をかけ、彼女をベッドに戻してから、私は買ってきた荷物を台所へと運んだ。 小さなシンクの前に立ち、鍋に水を張る。 火をつけ、コトコトと水が温まっていく小さな音が、静まり返った部屋に響き渡った。 米を洗い、卵をとき、ネギを刻み、彼女が少しでも楽になれるようにと願いながら、丁寧にお粥を煮込んでいく。
やがて、部屋全体に優しいお米の香りがふわりと広がっていった。
「できたよ」
お椀によそったお粥に、梅干しと卵をそえてテーブルに置き、ベッドの彼女のところへ歩み寄る。 彼女はゆっくりと起き上がり、申し訳なさそうに、けれどどこかホッとしたような複雑な表情で私を見上げた。 「わざわざ、こんな夜中に……ありがとう」 「いいんだよ。ほら、温かいうちに食べて」
スプーンでお粥をすくい、ふうふうと息を吹きかけてから、彼女の口元へと運ぶ。 彼女は小さく口を開け、ゆっくりとそれを飲み込んだ。
環ように温かい味が、体に染み渡っていくようだった。
「……美味しい」
その一言を聞いた瞬間、私の全身から緊張の糸がプツリと切れ、ようやく心の底から安堵のため息が出た。 特別で華やかなデートなんかじゃない。 豪華なレストランでもなければ、ロマンチックな夜景が広がっているわけでもない。 けれど、あの秋の夜、不安と焦りを抱えながら二時間半の闇を走り抜け、小さな台所で鍋をかき混ぜたこの時間こそが、私たちにとってかけがえのない現実であり、確かな絆の証だった。
あの夜、高速道路を走った二時間半の冷たい闇と、部屋に漂っていた湿布の匂い、そして小さなお椀から立ち上る湯気の温もりは、今でも私の心に、決して消えない記憶として静かに焼き付いている。




