第2話:優しさの染みる味
ホームセンターに行ったのは、私の方だった。 目的は、我が家の猫用の餌を買いに行くこと。ただ、ふと買い物の最中も彼女と繋がっていたいような気がして、私は何気なくスマホで通話を始めていた。
電話の向こうの彼女は、自分の家でいつも通りにくつろいでいた。 「買い物の音だけ聞いててほしいの」 私がそうワガママを言うと、彼女は特に嫌がることもなく、「いいよ、聞いてる」と快く受け入れてくれた。姿は見えなくても、ポケットの中のスマホの向こう側で、私の足音や、商品をカゴに入れるカサカサという音、店内のざわめきを静かに耳に傾けてくれている。 実際に会っているわけではないけれど、同じ時間を細やかに共有している感覚があった。巨大なホームセンターの広大な通路をカートを押しながら歩く中、時折聞こえる「ねえ、そっちはどんな感じ?」なんていう私の声に、スマホの向こうからふんわりとした柔らかい返事が返ってくる。それだけで、いつもの何気ない買い物が少しだけ特別なものに思えていた。
店内を奥へ進み、私は猫用の餌が並ぶ売り場を探していた。 しかし、広すぎてどこに何があるのか分かりにくく、私は近くにいた一人の店員さんに声をかけた。 「すみません、猫用の餌ってどこに並んでいますか?」 そうごく自然に道を尋ねた。
その店員さん、いや、その店舗の店長さんは、とても穏やかな笑顔で「あちらのコーナーですよ」と売り場まで丁寧に案内してくれ、さらに「これですよね」とスムーズにお会計まで済ませてくれた。 親切に対応してもらい、「助かりました、ありがとうございます」とお礼を告げ、お店を出る。
私はその時、何気ない日常の報告のつもりで、電話越しの彼女に向かって「いま買い物が終わったよ、〇〇店の店長さんがすごく親切にしてくれたんだ」と、そのホームセンターの店の名前を口にした。
……その瞬間だった。
電話の向こうの空気が、ガチリと凍りついたのが分かった。
『え……そこ、今、どこって言った……?』
信じられないものを見るような、あるいは自分の耳を疑うような、そんな驚愕に満ちた声が響く。 何か聞き間違えたのかと思い、「え、〇〇店だけど……?」と首をかしげながら返すと、彼女はしばらく言葉を失ったあと、震えるような声で信じられない真実をポツリと告げたのだ。
「そこ……私の、元旦那が店長をやっているお店だよ……」
スマホを取り落としそうになった。 心臓が大きく跳ね上がり、血の気が引いていくのが分かる。 よりによって、私が何も知らずに猫の餌を買い求め、あまつさえ親切に案内してもらい、お会計までしてもらったその店の店長が、彼女の元旦那だったなんて。あまりにも奇妙で、冗談としか思えないような運命の悪戯だった。
しかも、その人こそが、かつて彼女の作った料理に対して「味が薄い」と冷たく言い放ち、目の前で醤油をドバッとかけた、あの苦い記憶の張本人だったのだ。
手羽元の煮物を食べた夜、彼女が自虐的に笑いながら話してくれた過去の傷。その痛みの原因を作った人物の元へ、今の私が知らず知らずのうちに足を踏み入れ、親切にしてもらっていたという恐ろしいほどのシンクロ。
「え……あの噂の、醤油事件の人が……?」 私が絶句しながらそう聞き返すと、電話の向こうの彼女も、信じられないというように小さく息を呑んだ。
「そうだよ……。よりによって、あなたがそこに行くなんて思わないじゃん……」
あまりの偶然の恐ろしさに、私たちはしばらくの間、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。 世間は狭いと言うけれど、まさか自分の大切な人が、かつて自分の心に深い傷を負わせた元夫と、こんな形で交差してしまうなんて。鳥肌が立つような衝撃と同時に、どこか現実離れした滑稽さすら感じられた。
あんなにも優しく親切にしてくれたあの笑顔の裏に、かつて彼女を泣かせた男の面影があったなんて想像もつかない。もし私がその場で彼の正体に気づいていたとしたら、一体どんな顔をしていたことだろう。想像するだけで背筋が凍るような思いがする。
けれど、電話越しにその事実を共有したことで、私たちはかえって強くお互いの存在を意識させられた。 過去の理不尽な影がこんなところで不意に顔を覗かせたけれど、今の彼女の隣にいるのは、ほかならない私なのだから。
「もう二度と、あんなところ行かないからね」 私が少し照れくさそうにそう言うと、電話の向こうで彼女はフッと力の抜けたような、それでいてどこかホッとしたような柔らかい笑い声を漏らした。
「うん、そうだね。もう二度と行かないでね。……でも、教えてくれてありがとう」
日常のなかに突如として現れた、過去の亡霊のような奇妙な偶然。 けれど、その出来事があったからこそ、私たちは過去の傷を改めて二人で乗り越え、今日という穏やかな時間をより強く噛み締めることができたのだった。




