第12章 ストレスの少ない世界
【図面との再会、薄れていた嫌悪感】
受験勉強のカリキュラムが軌道に乗った頃、修汰は実務の感覚を取り戻すため、地元の小さな建築事務所で週に数日のアルバイトを始めた。
CADを使った図面の修正や、確認申請書類のチェック、小規模な現場の寸法計測――任されるのは補助的な業務ばかりだったが、久しぶりに触れる建築の現場は、驚くほど修汰の肌に馴染んだ。
(……おかしいな。あんなに嫌でたまらなかったはずなのに)
かつて大学時代、大手建築事務所のインターンシップで感じたあの重苦しい違和感。
数字とコストに追われ、冷淡に作業をこなす大人たちを見て「これが自分のやりたいことなのか」と拒絶反応を起こしたはずだった。
しかし、過酷な芸能界で「ご意見番」と呼ばれる大物芸能人の泥酔トラブルや、深夜の工事現場での示談交渉、現場リポーターとの命がけの駆け引きを経験した今の修汰にとって、建築事務所の仕事はあまりにも穏やかで、ロジカルで、ストレスのない世界に感じられた。
(理不尽に怒鳴られることもなければ、深夜に急に呼び出されることもない。図面は描いた通りに納まるし、構造計算は正しい答えを出してくれる……)
なぜ自分は、ここまで建築の世界を嫌い、頑なに拒んでいたのだろうか。
自分の変化に戸惑った修汰は、予備校の面談の際、素直な疑問を進に打ち明けた。
【講師の過去、進が語った「天職」】
「伊崎先生、実は最近、建築事務所でアルバイトを始めたんです。それで気づいたんですが……建築の仕事って、マネージャーをやっていた頃に比べたら全然ストレスがないんです。昔はあれほど拒絶していたのに、なぜあんなに嫌っていたのか自分でも不思議で……」
進は修汰の言葉を優しく受け止めると、少し懐かしむような目をしながら静かに語り始めた。
「金子さん、それはあなたが『もっと苛酷な現場』を経験して、視野と器が大きくなった証拠です。……実はね、私も昔、似たような経験があるんです」
進は自身の過去を明かした。
「私はこの予備校で教える前、長年、小中学生を対象にした学習塾の講師をしていました。ですが、そこでの日々は本当に苦痛の連続だったんです。勉強する意欲のない生徒たちにどうにかして机に向かってもらい、保護者からの理不尽な要望に対応し、日夜『やる気を出させること』だけに神経をすり減らしていました」
進の言葉には、かつて現場で味わったリアルな苦労の重みがこもっていた。
「体も心も限界を迎えて塾を辞めた後、ご縁があってこの公務員予備校の講師になりました。そこで驚いたんです。ここに来る受講生たちは、自分の将来のために、自分の意志で、お金と時間を払って勉強しに来ている。やる気のない生徒を怒鳴りつける必要なんてどこにもない」
進は柔らかく微笑んだ。
「学習塾という過酷な現場を経験したからこそ、私にとってこの予備校講師という仕事が、どれほどストレスがなく、やりがいに満ちた『天職』であるかを深く理解できたんです。だから今の仕事に心から感謝できていますし、毎日が楽しいのですよ」
【遠回りの意味、本当の設計図】
進の語る言葉の一句一句が、修汰の胸にじんわりと染み渡っていった。
「金子さんも同じです。大学時代のあなたは、まだ世の中の厳しさを知らなかった。だから、インターンシップで感じた小さなギャップや息苦しさを『建築そのものへの拒絶』だと勘違いしてしまったのでしょう」
進は修汰の目をまっすぐに見つめた。
「ですが、あなたは逃げずに東京で泥臭いマネージャーの仕事を全うし、理不尽や修羅場を嫌というほど潜り抜けてきた。だからこそ今、建築という仕事の持つ『論理的な美しさ』や『穏やかさ』を、客観的に評価できるようになったのです。あなたの遠回りは、決して無駄ではなかったのですよ」
「伊崎先生……」
かつて建築から逃げ出した自分に対する後ろめたさが、完全に消え去った。
東京での苦しい数年間も、大原雅子と過ごした激動の日々も、すべては自分が「本当にやりたい仕事」の価値に気づくための必要なプロセスだったのだ。
「ありがとうございます。僕……もう二度と迷いません。自分が培ってきた経験と、本来好きだった建築の知識を全部ぶつけて、絶対に合格してみせます!」
「ええ、その意気です。金子さんなら大丈夫。自信を持って机に向かいなさい」
面談室を出た修汰の足取りは、羽のように軽かった。
かつて途切れたと思っていた人生の図面は、より強固で、より美しい構造へと生まれ変わり、完成に向かってまっすぐに描き進められていた。




