第11章 勉強開始
【深夜の電話、すれ違う連絡】
枚方市役所の建築職募集がないという事実に打ちのメ打ちのめされ、修汰はあてもなく夜の街を彷徨っていた。すっかり遅くなり、実家に帰りついたのは深夜23時を回った頃だった。
リビングで起きて待っていた母親が、心配そうな顔で声をかけてきた。
「修汰、どこ行ってたん? さっき予備校ってところから家に電話があったよ。『金子さんに至急お伝えしたいことがある』って」
「え……予備校から?」
慌ててポケットからスマートフォンを取り出したが、画面は真っ暗だった。
夕方にバッテリーが切れ、そのまま放置していたのだ。
23時を過ぎたこの時間帯に折り返し電話をするわけにもいかず、修汰は重い気分のまま床に就いた。
翌朝、午前9時ちょうどに予備校へ電話を入れると、昨日の予備校スタッフが受話器の向こうで呆れたように、しかし安堵した声を上げた。
『あ、金子さん! 今ちょうどこちらからお電話しようと思ってたんですよ! 昨日、枚方市の募集がないとお伝えしたら、ショックだったのか速攻で帰られてしまって……。スマホも自宅もお電話がつながらないから心配したんですからね』
「すみません、ショックで思考が停止してしまって……。スマホの充電も切れていて」
『まったくもう! 私がお伝えしたかったのは、枚方市以外の周辺自治体のことですよ』
カウンセラーはパソコンのデータをめくりながら明快に告げた。
『枚方市自体の募集はありませんが、大阪府庁、大阪市はもちろん、枚方からも十分通勤圏内の東大阪市や八尾市、さらには京都市や他の近隣市町村でも、建築職の募集は毎年たくさん出ています。実家から通いながら親孝行をして、建築公務員として街を守るという夢は、何一つ諦める必要はありません!』
「……っ! そうだったんですか……!」
視野が狭くなり、一枚のドアが閉まっただけで全てが終わったと思い込んでいた。大阪府内や周辺自治体へ目を向ければ、自分を必要としているフィールドは無限に広がっていたのだ。一気に視界が開けた修汰は、受話器を握りしめて深々と頭を下げた。
【伝説の講師・伊崎進との対面】
気を取り直した修汰は、その日の午後に再び予備校の難波校へ向かった。
カウンセラーに案内された個別面談室の扉を開けると、そこには静かな佇まいでノートとペンを構える一人の男性が座っていた。
木村先輩から聞いていた、あの講師――伊崎進だった。
「初めまして、金子修汰と申します」
修汰が挨拶をすると、進は温かい眼差しで会釈した。
『初めまして、金子さん。元マネージャーで、元建築学科。とても興味深い経歴ですね。ようこそ』
初めて会う、予備校の専任講師。
そこには、修汰という人間を温かく迎え入れる包容力が滲み出ていた。
「伊崎先生……僕、理系で建築は学んできましたが、教養試験の文系科目はサッパリで、芸能界での経歴も公務員面接でどう評価されるか不安でたまりません」
進は微笑み、優しく語りかけた。
『不安がる必要はありません。教養試験の文系科目は、満点を取る必要など一切ないのです。理系特有の数的処理で確実に得点し、他は効率よく絞り込めば合格ラインに乗せられます』
進は、なおも、優しく丁寧に話を続けた。
『そしてマネージャーの経験。大物芸能人の現場で培った「不測の事態への危機管理能力」と「人の心に寄り添う対人能力」は、行政や街づくりの現場で最も求められる最強の武器になります。あなたは逃げ出してきたのではない。遠回りをして、最高の経験を積んで戻ってきたのです』
【引き直された設計図、勉強の開始】
進のロジカルで説得力に満ちたメッセージは、修汰の胸の奥底にくすぶっていた迷いや引け目を、綺麗さっぱりと吹き飛ばしてくれた。
(この先生についていけば、俺は絶対に合格できる……!)
面談を終えた修汰は、迷うことなく「建築職公務員試験対策講座」の受講手続きを完了させた。
予備校から手渡された大量のテキストと、建築職専用の特製対策プリントを抱え、修汰は実家へと戻った。
その夜から、金子修汰の新たな戦いが始まった。
実家の机に向かい、予備校のWeb講義画面を開く。
苦手な文系科目は進の指示通り要点だけを効率よく暗記し、得意な数的処理と建築の専門知識を徹底的に鍛え上げる日々。
東京でマネージャーをしていた頃の怒濤のスケジュール管理能力が、ここに来て規則正しい学習計画の実行力として遺憾なく発揮された。
「修汰、夜遅くまで無理したらあかんよ。お茶淹れたからね」
「おおきに、おかん」
母親がそっと置いてくれた濃いお茶の温もりが、疲れた身体に染み渡る。
枚方市という枠を超え、大阪府、大阪市、そして周辺都市の「安全と未来」を創る建築公務員へ。
かつて捨てかけた定規と図面を再び手に取り、修汰はまっすぐな眼差しで、合格への第一歩を踏み出したのだった。




