第6章 家族の改心
【一本の電話、氷解の調べ】
願書が受理され、秋の一次試験(筆記試験)までいよいよ1ヶ月を切った9月のある日の午後。
予備校の京都校の講師室で、講義の合間に一息ついていた進のもとへ、受付の事務員が慌てた様子でやってきた。
「伊崎先生、お電話が入っています。受講生の森町颯さんの……お兄様と名乗る方からですが、先生を指名されています」
進はわずかに眉を寄せた。
森町家といえば、先日、親族を挙げて「コネ採用の噂」を盾に颯の受験に猛反対していたはずだ。
ついに予備校にまでねじ込んできたのか――進は内心、どのような無理難題や抗議が飛び出してこようとも、颯の未来を守るために毅然と突っぱねる覚悟を決め、受話器を耳に当てた。
「お電話代わりました。専任講師の伊崎です」
しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、怒号ではなく、酷く恐縮した若者の、震える声だった。
『……伊崎先生でしょうか。突然お電話してしまい、本当に申し訳ありません。森町颯の兄です。今日は、どうしても先生にお詫びと、お礼を申し上げたくて、お電話いたしました』
「お詫び、ですか?」
進が問い返すと、兄は事の経緯をぽつりぽつりと、しかし誠実に話し始めた。
【亡霊の正体、そして家族の告白】
『はい。先日、親戚一同で颯の受験を大反対してしまったのですが…。実はその後、気になって、私の高校時代の友人で現職の市役所職員をしている男に、直接会って今の採用試験の現状を確かめてみたんです』
受話器の向こうで、兄が深く息を吸い込む音が聞こえた。
『そうしたら……友人が笑うんです。「コネ採用なんて、俺たちの上司が採用されたようなはるか昔の時代で、とうになくなってるよ。今はそんな不透明なことをしたら一発でニュースになるし、市役所だって本気で優秀な人間を欲しがっているから、完全に実力勝負だよ」と。それを聞いて驚いて、今度は父(住職)も、昔からの知り合いである役所のOBに確認をとってみたらしいのですが、やはり「コネなど今は絶対にない。正々堂々と試験を受けさせなさい」と言われたそうで……』
進は静かに耳を傾けていた。
自分が颯に語った客観的な事実が、森町家の中でも証明された瞬間だった。
『私たちは、自分たちが勝手に思い込んでいた古い時代の常識や、出所もわからない噂話を鵜呑みにして、必死に前を向こうとしていた颯の足を引っ張ってしまっていました。そればかりか、何も知らない私は……先生の裏事情を知りもしないのに、大切な弟をおかしな道にそそのかしているのではないかと、先生のことまで疑ってしまっていたのです。本当に、本当に申し訳ありませんでした』
受話器の向こうで、兄が深々と頭を下げているのが伝わってくるようだった。
『父も、母も、自分の無知を恥じております。本当ならば、家族そろってそちらに伺い、先生に直接お詫びを申し上げなければならないところですが、まずは取り急ぎ、お電話にて非礼をお詫びさせてください。…もう、私たちはこれからは全員、颯の味方です。家族一丸となって、あいつの挑戦を応援します。あいつを……どうかよろしくお願いいたします』
【晴れ渡る空、師弟の絆】
「……事情はよく分かりました」
進の低い声が、少しだけ柔らかさを帯びた。
「お兄様、わざわざご連絡をいただき、ありがとうございます。ご家族の皆様が事実を確認され、森町さんの一番の味方になってくださったこと、私からも御礼申し上げます。ご家族の応援ほど、受験生にとって心強いことはありません。お詫びなど必要ありませんので、どうかこれからは、温かく彼を支えてあげてください。森町さんは必ず、立派な公務員になります」
『ありがとうございます……! よろしくお願いいたします!』
通話を終え、受話器をゆっくりとフックに戻した進は、深く、本当に深く、ホッと胸を撫で下ろした。
眉間の皺が、この数ヶ月で一番緩やかに解けていく。
進にとって何より嬉しかったのは、自分の正しさが証明されたことではない。
家庭という、逃げ場のない閉ざされた世界の中で「否定」の言葉を浴び続けてきた颯が、ついにその家族から「無条件の肯定」を勝ち取ったことだった。
かつて自分が、叔父の政夫からの理不尽な否定の中で孤独に耐えなければならなかったあの苦しみを、颯は味わわずに済んだのだ。
「先生、今の電話、もしかして僕の家からですか…?」
講師室の入り口で、ノートを抱えた颯が不安そうな顔で立っていた。
進は椅子から立ち上がると、これまでにない晴れやかな笑顔を向けた。
「森町さん、最高のニュースです。今、お兄様から電話がありました。ご家族の誤解はすべて解けましたよ。あなたの親族が恐れていた亡霊は消え去った。これからは、ご家族全員があなたの味方です」
「え……っ、本当ですか……!?」
颯の目が、驚きと、それ以上の喜びで大きく見開かれた。
「さあ、これであなたの背後を脅かすものは何一つなくなった。あとは、自分自身と、私を信じて、試験会場へ突き進むだけです!」
「はい!」
平成20年の秋風が、予備校の窓を吹き抜けていく。
孤独な逃亡者だった元僧侶は、今や最強の家族の愛と、最高の師の信頼を背負い、一人の堂々たる「受験生」として、決戦の舞台へと力強く足を踏み出すのだった。




