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第5章 出願

【当たり前の陥穽かんせい、真の強み】


 親族の反対を乗り越え、筆記試験の対策が軌道に乗る一方で、颯は次なる壁にぶち当たっていた。


 エントリーシートのもう一つの最重要項目、「自己PR」の作成である。


 「自分を売り込む、ですか……」


 颯は原稿用紙を前に完全にフリーズしていた。


 お寺という、自己主張を慎み、一歩引いて他者を敬う世界で生きてきた颯にとって、「私はここが優れています」「私を採用すればこんなメリットがあります」と大々的にアピールする文章は、気恥ずかしいだけでなく、書き方すら見当がつかなかった。


 颯は、進に相談することにした。


「なるほど、森町さん、自己PRで悩んでいるのですか」


「はい……。自分の長所なんて、いくら考えても思い浮かばなくて。人より抜きん出た実績もありませんし」


 進は手元の資料に視線を落とし、ふっと前回の面談を振り返るように言った。


 「先日の面談であなたが話してくれた、お通夜のエピソード。あれをそのまま自己PRの核に据えましょう。最愛の人を亡くし、パニックや絶望の極限状態にある遺族を前にしても、取り乱さずに寄り添い、葬儀を冷静にやり遂げる力。これこそが、あなたの最大の売りです」


 それを聞いた颯は、意外そうな顔をして首を横に振った。


 「えっ……あれですか? でも先生、あんなのはお坊さんなら『当たり前』のことですよ。特別なことでも何でもありません」


 「そこです」


 進の声が、にわかに熱を帯びた。眉間の皺がぐっと深くなる。


 「その仕事に就いている者にとっての『当たり前』の中にこそ、普通人に真似できない強みが隠れているんです。普通の二十代の若者が、突然、泣き叫び、怒り狂う他人の前に放り出されて、冷静に対処できません」


 (確かに、そうかも知れない)

 颯はそう感じた。


 「しかし、あなたはそれをごく普通に、逃げずに全うしてきた。それは、凄いことなんです。全然当たり前なんかじゃない。もの凄く、価値のあることなんですよ」


【三段論法の光、出願の朝】


 「強み」を自慢ではなく、客観的な事実として伝える。

 進の言葉によって、颯のなかの「自己PR」に対する認識がガラリと覆った。


 「自己PRは、まず結論としてあなたの強みを述べます。次に、それを証明する僧侶時代のエピソードを具体的に書いて下さい。そして最後に、それが、市役所の現場でどう活かせるかで締めましょう。この三段論法でいけば、どんな面接官の心にも真っ直ぐ刺さる自己PRになります」


 進の導きを受け、颯は再びペンを握った。


 今度は迷わなかった。

 「当たり前」だと思っていた自分の日常が、公務員として市民を守るための「盾」になるのだと信じられたからだ。


【自己PR】


 私の強みは、いかなる極限状態においても冷静沈着に行動し、他者の動揺を受け止めることができる対応力です。

 寺院の副住職として、最愛のご家族を亡くされ、深い絶望や混乱の最中にある遺族の方々と数多く向き合ってまいりました。突然の事態にパニックに陥る方々に対しても、私自身が常に冷静であり続け、お気持ちに寄り添いながら滞りなく葬儀の進行をサポートしてまいりました。その結果、滞りなく葬儀は終了し、関係者から感謝の言葉を頂きました。

 この経験を活かし、市役所では、予期せぬトラブルや、困難な状況に直面した市民の方々に安心感を与え、迅速に問題を解決して職務に貢献したいです。


 書き上げた文章を読み返し、颯は小さく息を吐いた。

 自己中心的でもなく、かといって卑屈でもない。

 お寺の自分と、未来の公務員としての自分が、一本の美しい線で繋がったような充実感があった。


 そして、平成20年9月。ついにその日がやってきた。


 願書提出、出願の朝。


 秋の気配を孕んだ澄んだ空気の中、颯は完成したエントリーシートを大切に鞄に収め、実家の門を出た。


 かつては「ここから逃げ出したい」とだけ願っていたその門が、今は不思議と、自分の背中を押し出してくれる出発の地のように思えた。


 「いってきます」


 誰にともなく呟き、颯は京都の街へと歩き出す。

 郵便局の窓口で願書を提出すれば、もう後戻りはできない。

 伊崎進という講師を信じ、自らの過去を誇りに変えた元僧侶の、人生を賭けた本当の戦いの幕が、ついに切って落とされたのである。


(第5章・完)

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