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第4章 親族の壁

【親族の呪縛、コネという名の幻影】

 エントリーシートが完成し、いよいよ秋の本番に向けてラストスパートをかけようとしていた8月の終わり。

 颯の前に、再び「家」という名の巨大な壁が立ちはだかった。


 お盆の法要が集中的に落ち着いたある夜、実家の居間に親族たちが集まった。

 兄が寺を継ぐこと自体は受け入れられたものの、颯が「市役所試験を受ける」と打ち明けた途端、部屋の空気は一変した。

 「おい、颯。公務員試験なんて受けるだけ時間の無駄だ。やめておけ」

 口を開いたのは、地域に顔が利く気難しい伯父だった。

 他の親族たちも一様に、苦り切った顔で頷いている。


 「お前、何も分かってないな。この京都や滋賀の市役所なんてものはな、昔からほとんどが『コネ採用』なんだよ。市議会議員の紹介があるとか、役所の幹部に親戚がいるとか、そういう裏の繋がりがない受験生がどれだけ筆記で点数を取ったって、面接で体よく落とされるに決まっている。お前みたいなお寺の次男坊が、後ろ盾もなしに勝てるわけがないだろう」


「そうです。世間知らずにも程がありますよ。せっかくお寺から解放されたのに、またそんな理不尽なところで傷つくだけです」


 親族たちの言葉は、容赦なく颯の胸に突き刺さった。

平成20年当時、地方の公職採用における「コネ」や 「不透明な選考」の噂は、都市伝説のようにまことしやかに囁かれていた。

 「でも、公務員試験予備校の講師が大丈夫だって」

 颯が口を挟んだ。

 「何にも知らないんだよ。その先生」

 伯父が反論した。

 「もしかしたら、颯のお金目的かしら」

 「汚い商売ねえ」

 親族はみな、進とその所属する公務員試験予備校を罵った。

 一度は前を向いたはずの颯の心が、その言葉によって、またしても暗い不安の泥濘へと引きずり込まれそうになっていた。


【終わった時代の亡霊、揺るぎない確信】

 翌日、青ざめた顔で予備校にやってきた颯は、講義の合間に進を呼び止め、親族から言われた言葉をそのまま打ち明けた。

 「先生……やっぱり、僕みたいにコネも何もない人間は、京都や滋賀の市役所には受からないんでしょうか」


 話を聞いた進は、怒る風でもなく、ただ静かに腕を組んだ。

 そして、眉間の皺の奥にある瞳で、迷える教え子をじっと見つめた。


 「森町さん。確かに、あなたの親族が言う通り、かつての地方自治体の採用試験において、不透明な枠や、地縁血縁による有利不服が存在した時代は、間違いなくありました。それは否定しません」


 進の声は、どこまでも冷静だった。だからこそ、続く言葉には圧倒的な重みがあった。


 「しかし、それはもう『はるか昔』の話です。時代は変わった。今の自治体は、長引く不況の中で、本気で地域を立て直せる人材を求めている。試験制度は年々透明化され、外部の目も厳しくなっている。今の市役所試験は、完全に実力の世界です」

 颯は、じっと聞いていた。

 確かに親族の話は、遠い昔の話だ。

 彼らは、現在の市役所試験には詳しくないはずだった。

 「親族の皆さんは、自分が生きてきた古い時代の常識に囚われています」


 進は一歩、颯に歩み寄った。

 その背後には、かつて自分が数々の理不尽な噂や偏見を自らの知識と情熱でねじ伏せてきた、絶対的なプロフェッショナルとしてのプライドが満ち満ちていた。


 「そんな無責任な噂話を信じて立ち止まるのか、それとも、目の前にある客観的な事実と、自分自身の可能性を信じて進むのか。どちらですか、森町さん」


【私は、伊崎先生を信じます】

 進の言葉を聞いているうちに、颯の胸の奥のモヤモヤとした霧が、一瞬にして晴れていくのが分かった。


 親族たちは、お寺という閉ざされた世界の中で、外の新しい現実を見ようとせず、ただ「無理だ」と否定してきた。

 しかし、目の前にいるこの伊崎進という講師は違う。

 自分の泥だらけの過去に光を当て、エントリーシートを魔法のように生まれ変わらせた。

 何より、誰一人として自分の価値を認めなかった中で、唯一「あなたには最高の適性がある」と全人格を肯定してくれたのだ。


(これ以上、過去の亡霊たちに自分の人生を邪魔されてたまるか)

 颯は、深く息を吸い込むと、真っ直ぐに進の目を見据えた。その瞳には、もう迷いの色はなかった。


 「……分かりました。僕は、親戚の言う古い噂なんかじゃなく、僕をここまで導いてくれた伊崎先生を信じます」


 その言葉を聞いた瞬間、進の険しい顔が、ふっと柔らかく綻んだ。


 「よく言いました、森町さん。私を信じると決めた以上、あなたを徹底的に応援します。古い時代の常識が間違っていたということを、あなたの合格という最高の結果で、あの親族たちに証明してやりましょう」


 「はい」


 平成20年の晩夏。

 周囲の雑音を完全に振り払い、一つの確固たる信頼で結ばれた師弟は、秋の決戦に向けて、これまでにない強固な足取りで再び歩みを進めるのだった。


(第4章・完)

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