第3章 赤裸々な叫び、衝撃のエントリーシート
【エントリーシートが書けない】
平成二十年の夏。秋に行われる市役所試験に向けて、颯の猛勉強が始まった。
試験までの期間はわずか3ヶ月余り。
法律や経済の専門科目を一から詰め込むには圧倒的に時間が足りない。
そこで進が提示した戦略は、出題が「教養科目」のみに絞られた市役所への単願突破だった。
数的処理という数学パズルのような問題。
文章理解という現代文や英文。
政治・経済、歴史、地理、さらには生物や地学。
範囲は膨大だが、聞かれるのは基本的な内容のみ。
うまく学習すれば、3ヶ月で何とかなる。
僧侶時代には使わなかった脳の領域をフル回転させる日々は過酷だった。
だが、進を初め、何人かの講師が「無駄のない講義」を展開してくれた。
おかげで、颯の筆記の得点力は着実に伸びていた。
しかし、颯には筆記試験以上に、夜も眠れないほどの大きな不安があった。
それは、面接試験の成否を握る「エントリーシート(面接カード)」がうまく書けないことだった。
「森町さん、文章の体裁なんて後からいくらでも直せます。まずは格好をつけず、あなたの本当の動機をとりあえず書いてみることから始めましょう」
進にそう背中を押され、颯は悩み抜いた末に、書き上げたシートの下書きを提出した。
予備校の講師室。進は眼鏡の位置を直し、受け取った颯のシートの「志望動機」の欄に目を落とした。
次の瞬間、進は大笑いしてしまった。
『志望動機』
私は、家がお寺なので、行きたくもない仏教系の大学に行き、卒業後は檀家の高齢者の愚痴や泣き言を聞かされ、こんな仕事は嫌だと思っていたところ、兄がサラリーマンを辞めて帰ってきてあとを継ぐことになり、私は晴れて解放され、市役所に転職を考えました。
講師室の喧騒が、進のなかで一瞬にして消え去った。
あまりにも赤裸々、あまりにも正直。
もちろん、このまま提出することは出来ない。
これを出せば、面接官が読んだ瞬間に「自己中心的で、我が強く、嫌な仕事から逃げてきただけの上から目線の若者」という最悪の印象を持つだろう。
一発不採用になることは火を見るより明らかだった。
進は額に手を当て、深く大きな溜息をついた。
だが、怒りは湧かなかった。むしろ、これほどまでに不器用で、嘘をつけない颯の純粋さは魅力だ。
進は、かつて周囲の理不尽に翻弄されて足掻いていた若き日の自分を思い出していた。
「……森町さん」
進はゆっくりと顔を上げ、怯えたようにこちらを見つめる颯を真っ直ぐに見据えた。
「正直に書いて頂いたのを拝見しました。これを『独り言の愚痴』に聞こえないように、表現を工夫しましょう」
「表現を工夫?」
颯は、戸惑った。
正直に書いたが、こんな文章をそのまま面接官に出したらまずいことは分かっていた。
でも、どうしたら良いのか分からなかったのだ。
「面接官という『他者』に対する敬意と、あなたの経験が持つ本当の価値をしっかり伝えましょう」
進は、そう言うと、さらさらとの文章を直した。
「内容は変えません。森町さんの作詞作曲されたたものを、私が編曲・ストリングスをするだけです」
【反転の法理、言葉に宿る光明】
進は赤いペンを握ると、颯のシートの文字の裏側にある「真実の価値」を手繰り寄せるように、猛然とペンを走らせ始めた。
「森町さんは、『行きたくもない大学に行かされた』のではありません。『若くして地域の伝統や精神性を学ぶ環境に身を置いた』のです。『高齢者の愚痴や泣き言を聞かされて嫌だった』のではありません。『誰にも言えない孤独や痛みを抱えた住民の声を、最も近い距離で受け止め続けてきた』のです。そして『解放されたから転職する』のではありません。『家庭の事情が解決し、培った経験をより広い地域社会のために活かす決意が固まった』から転職するのです」
進のペン先から、力強い文字が次々と紡がれていく。
それは、颯の過去の「泥」を、公務員としての「蓮の花」へと一瞬にして昇華させる添削だった。
『修正された志望動機』
◯◯市を、より住みやすい街にしたいです。これまで、地域に根差した寺院の副住職として、主に高齢者の方々の生活上の悩みや、ご家族を亡くされた方々の精神的な痛みに寄り添う役割を担ってまいりました。日々、様々な境遇にある住民の皆様の切実な声に耳を傾けるなかで、個人の救済だけでなく、行政という大きな枠組みから地域社会のセーフティネットを支えたいという思いが強く芽生えました。
この度、家庭内の環境が整い、自らの進路を選択できるようになたことを契機に、これまで培ってきた「住民の多様な想いを受け止め、共感する力」を市役所の窓口業務や福祉行政に役立てたいと考え、志望いたしました。
書き終えたシートを進から差し出され、それを読んだ颯は、文字通り声を失った。
書かれている事実は、自分の歩んできた人生そのものだ。
何一つ嘘はついていない。それなのに、進の手によって生まれ変わった文章は、自己中心的な響きが完全に消え去り、読む者に「この若者になら、市民の命を預けられる」と思わせるほどの、圧倒的な説得力と気品を放っていた。
「これが……僕の経験の、本当の意味……」
颯の震える声に、進は穏やかに、しかし熱い眼差しで頷いた。
「言葉ひとつで、過去の呪縛辛かった経験は誇りに変わる。森町さんは、人生から逃げた人ではありません。立派な、市役所で使える人材です。この志望動機を胸に、秋の試験まで一気に駆け抜けましょう」
「はい……! 先生、ありがとうございます!」
赤ペンで美しく直されたエントリーシートを両手でしっかりと握りしめた颯の胸に、かつてない本物の闘志が宿っていた。
平成20年の夏、うだるような暑さのなか、一人の元僧侶の「本当の反撃」が、今ここに始まったのである。
(第3章・完)




