第2章 面談室の灯火、覚醒の法理
【伊崎進講師登場】
平成20年、初夏。
公務員試験予備校の門を叩き、受付を済ませた颯は、案内された薄暗い個別面談室の椅子に、ガチガチに緊張しながら腰掛けていた。
コンコン、と控えめなノックの音がして、一人の男が入ってきた。
眉間に深い皺を刻み、一見すると法廷の裁判官のようにも見える険しい風貌の男――専任講師の伊崎進だった。
進は、颯が恐る恐る差し出した履歴書の「職歴欄」に目を落とす。
「森町颯さんですね。専任講師の伊崎進と申します。お寺の、副住職……お坊様ですか」
進の低い声が響く。
颯は、また民間企業の面接の時のように「世間知らずの若者」として扱われるのではないかと身構え、思わずうつむいた。
「はい。一般企業への就職を目指したのですが、職歴が特殊すぎて、ビジネスの役に立たないと全て断られました。自分には、社会に活かせるスキルが何もないんです……」
静まり返る面談室。
しかし、進から返ってきたのは、拒絶の言葉ではなかった。
進は手元に置かれた履歴書からゆっくりと顔を上げると、その鋭い眼差しの奥に、驚くほど温かく、そして熱い光を灯して颯を見つめた。
「森町さん。それは大きな間違いです」
進の声は、穏やかでありながら、面談室の空気を震わせるほどの確信に満ちていた。
「民間企業の面接官は、目先の『売上』や『即戦力のマニュアル』しか見ていないから、あなたの価値に気づけなかっただけです。公務員の世界は違います。あなたがこれまでお寺でやってこられたこと……お盆や法事で、日々、地域の高齢者の方々の孤独や生活の悩みに耳を傾けてこられたのですよね?」
「え……? はい。世間話から始まって、病気のことや将来の不安など、何時間も愚痴や悩みを聴くことは日常茶飯事でした」
「それです」
進は深く頷き、身を乗り出した。
「それこそが、行政が今、喉から手が出るほど欲している『住民対応力』です。そして、何よりも尊いのは……あなたがお通夜や葬儀の場で、最愛の家族を亡くし、絶望と混乱という『人生の極限状態』にある人々と、真っ正面から向き合ってこられたという事実です。そんな経験を持つ20代の若者が、今の日本にはなかなかいないですよ」
【泥濘に咲く、公務員の資質】
進の言葉は、まるで乾いた砂に染み込む水のように、颯の傷ついた心に深く、深く染み渡っていった。
「公務員が日々向き合うのは、順風満帆な市民ばかりではありません。むしろ、生活が苦しい、災害、親族の死といった人生の崖っぷちに立たされた人を救わないといけません。役所の窓口で怒鳴る人や、涙を流す人もいます。そうした『極限状態の市民』の心を最初に受け止めるのが、市役所の職員の仕事です。マニュアル通りのビジネス敬語が上手いだけの人間には、彼らの心は救えない。必要なのは、相手の深い悲しみや怒りを拒絶せず、ただ寄り添い、じっと耳を傾けられる強さです。森町さんには、お寺という場所で、すでにその圧倒的な『適性』が、血肉となって備わっていると思いますよ」
進は眉間の皺を和らげ、どこか遠くを見るような、優しい笑みを浮かべた。
進もかつて、様々な経験をしてきた。
中学の時に母が亡くなった。
母子家庭だったので、全日制高校にいけなかった。
定時制高校から大学に行き、その後も理不尽な現場でいっぱい涙を流してきた。
でも、それがすべて、今の講師としての智慧に繋がっている。
「経験は全て、工夫次第で武器になる」
それが伊崎進講師の絶対的な確信であった。
「森町さん、あなたの過去は、何一つ無駄ではない。民間企業では『役に立たない』と言われたその衣の記憶こそが、市民を救う最高の武器になる。自分を否定することなんて、今日を限りに一切やめましょう。あなたが目指すべきは、市民のセーフティネットとなる市役所職員だ。試験の筆記は私がいくらでも引き上げる。面接は、あなたのありのままの経験を、真っ直ぐ言葉に変えていきましょう」
「先生……」
颯の目から、大粒の涙がポロポロと机にこぼれ落ちた。
お寺から逃げ出し、社会から拒絶され、居場所を失っていた自分を、この男は初めて「そのままの姿」で肯定してくれた。
死者を弔うために着ていたあの衣の重みは、これからは生きている人々を救うための、揺るぎない誇りへと変わるのだ。
面談室の窓の外では、平成20年の初夏の太陽が、新しい一歩を踏み出した青年の未来を、眩しいほどに照らし出していた。
(第二章・完)




