表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/11

第1章 脱衣の鐘、青天の霹靂

【若き僧侶の苦悩】

 平成20年、新緑が色鮮やかに境内を彩る京都の街外れ。


 森町颯もりまち はやては、本堂から聞こえる読経の響きのなか、自らの衣を見つめて深い溜息をついていた。


 家がお寺――その一言が、颯の人生のすべてのレールを決めていた。


 数年前、高校2年だったある日の夕食時、住職である厳格な父から「お前、あとを継いでくれるよな」とボソリと言われた。

 食卓に漂う独特の威圧感と、逃げ場のない空気。

 気がつけば、颯は小さく頷いてしまっていた。

 父は、にっこり微笑んだ。

 それが、すべての始まりだった。


 颯は、流れるように仏教系の大学へと進学した。

 大学は楽しかった。

 ただ、あくまで進学の目的は、必要な資格を取得して、僧侶になることだった。

 卒業後は、父が住職、自分が副住職という緊密な師弟関係が完成していた。


 お盆や法事の時期になれば、原付バイクを走らせて檀家を次々と回り、時には厳粛な葬儀の導師も務める。


 「若先生、今日も丁寧なお勤めをありがとうございました」


 遺族から涙ながらに感謝され、手を合わされるたびに、颯の胸の奥には申し訳なさにも似た、歪な痛みが走る。


 (本当に、僕の人生はこれで良いのだろうか。死者を弔う役目は尊い。けれど、僕は自分の足で、自分の人生を生きた実感がまるでない……)


 20代半ばを迎え、周囲の友人が社会の荒波で揉まれながらも自立していく姿が、ひどく眩しく、羨ましかった。

 誰もいない本堂で、夕暮れの鐘を突きながら、颯は出口のない迷宮を彷徨うような日々を送っていた。


【宿命の反転、そして荒野への一歩】


 そんなある日、森町家に文字通りの青天の霹靂が走った。


 東京の大手企業でサラリーマンをしていたはずの、優秀な兄が突然、荷物をまとめて実家へ帰ってきたのだ。


 「会社、辞めてきたわ。これからは、俺がこの寺を継ぐ」


 あっけらかんと言い放った兄は、驚愕する父を背に、颯の部屋のドアを開けた。

 そして、呆然とする颯の肩をポンと叩き、悪戯っぽく笑った。


 「お前、ずっと苦しそうだったもんな。もう好きにして良いぞ。自分の道を行け」


 その瞬間、颯の胸のなかで、何かがパチンと弾けた。


 「……え?」


 言葉の意味を理解した途端、颯は文字通り、部屋のなかで飛び上がって喜んだ。

 長年自分を縛り付けていた透明な鎖が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。

 明日からは、何になってもいい。

 どんな服を着て、どこへ行っても自由なのだ。


 「やっと、僕が自分で選ぶ人生が始まる」

 それは、颯にとって、最高にワクワクする転機だった。


【「現実」という壁】


 しかし、現世うつしよの壁は、颯が想像していたよりも遥かに高く、そして冷酷だった。


 「僧侶からの転職」――それは、平成20年の就職氷河期の余韻が残る社会において、困難を極める挑戦だったのだ。


 いざ履歴書を書こうとしても、職歴欄に書けるのは「寺院副住職(僧侶)」のみ。


 一般企業の面接に赴いても、面接官たちは一様に困惑の表情を浮かべた。


 「僧侶、ですか……。いや、お経が読めるのは立派だと思いますが、我が社の営業や事務で、その経験がどう活かせるのかね?」


 「ビジネスマナーやパソコンのスキルはありますか? 電話応対の経験は?」


 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、颯は言葉に詰まるしかなかった。

 世間から見れば、自分は「社会経験ゼロの、世間知らずな若者」でしかなかったのだ。

 不採用通知の紙が、部屋の机に静かに積み重なっていく。

 自由を手に入れたはずなのに、自分には何一つ価値がないのではないか。

 そんな焦燥感が、再び颯を支配し始めていた。


【運命のパンフレット】


 初夏の風が吹く午後。颯は重い足取りで、京都の大きな書店のビジネス書コーナーを歩いていた。

 何か転職のヒントになる資格はないか、藁にもすがる思いだった。


 その時、平積みにされた参考書の脇にある、一冊のパンフレットがふと目に留まった。


 そこには、凛とした表情で働く若者たちの写真とともに、こんな文字が躍っていた。


 『職歴不問。年齢制限大幅緩和。あなたのこれまでの人生を、地域社会のために活かしませんか? ――公務員転職フェア開催』


 「公務員……」


 颯はその言葉を、口のなかで小さく呟いた。


 民間企業のように「これまでの営業実績」や「即戦力のビジネススキル」を問われるのではない。

 筆記試験と面接の人物評価によって、誰もが平等にスタートラインに立てる世界。

 そして何より、お寺で培った「人の話を聞き、地域のために尽くす」というマインドが、もしかしたら一番真っ直ぐに活かせる場所なのではないか。


 暗闇のなかに、一筋の明かりが見えた気がした。

 颯はパンフレットを強く握り締めると、そこに記載されていた「公務員試験予備校」の門を叩く決意を固めるのだった。


 ――この時、颯はまだ知る由もなかった。


 その予備校の教壇で、眉間に深い皺を寄せ、誰よりも熱く、重く、法律や政治・経済の講義を展開する一人の風変わりな専任講師・伊崎進という男が、自分の人生を大きく変えることになるということを。


(第1章・完)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ