第1章 脱衣の鐘、青天の霹靂
【若き僧侶の苦悩】
平成20年、新緑が色鮮やかに境内を彩る京都の街外れ。
森町颯は、本堂から聞こえる読経の響きのなか、自らの衣を見つめて深い溜息をついていた。
家がお寺――その一言が、颯の人生のすべてのレールを決めていた。
数年前、高校2年だったある日の夕食時、住職である厳格な父から「お前、あとを継いでくれるよな」とボソリと言われた。
食卓に漂う独特の威圧感と、逃げ場のない空気。
気がつけば、颯は小さく頷いてしまっていた。
父は、にっこり微笑んだ。
それが、すべての始まりだった。
颯は、流れるように仏教系の大学へと進学した。
大学は楽しかった。
ただ、あくまで進学の目的は、必要な資格を取得して、僧侶になることだった。
卒業後は、父が住職、自分が副住職という緊密な師弟関係が完成していた。
お盆や法事の時期になれば、原付バイクを走らせて檀家を次々と回り、時には厳粛な葬儀の導師も務める。
「若先生、今日も丁寧なお勤めをありがとうございました」
遺族から涙ながらに感謝され、手を合わされるたびに、颯の胸の奥には申し訳なさにも似た、歪な痛みが走る。
(本当に、僕の人生はこれで良いのだろうか。死者を弔う役目は尊い。けれど、僕は自分の足で、自分の人生を生きた実感がまるでない……)
20代半ばを迎え、周囲の友人が社会の荒波で揉まれながらも自立していく姿が、ひどく眩しく、羨ましかった。
誰もいない本堂で、夕暮れの鐘を突きながら、颯は出口のない迷宮を彷徨うような日々を送っていた。
【宿命の反転、そして荒野への一歩】
そんなある日、森町家に文字通りの青天の霹靂が走った。
東京の大手企業でサラリーマンをしていたはずの、優秀な兄が突然、荷物をまとめて実家へ帰ってきたのだ。
「会社、辞めてきたわ。これからは、俺がこの寺を継ぐ」
あっけらかんと言い放った兄は、驚愕する父を背に、颯の部屋のドアを開けた。
そして、呆然とする颯の肩をポンと叩き、悪戯っぽく笑った。
「お前、ずっと苦しそうだったもんな。もう好きにして良いぞ。自分の道を行け」
その瞬間、颯の胸のなかで、何かがパチンと弾けた。
「……え?」
言葉の意味を理解した途端、颯は文字通り、部屋のなかで飛び上がって喜んだ。
長年自分を縛り付けていた透明な鎖が、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
明日からは、何になってもいい。
どんな服を着て、どこへ行っても自由なのだ。
「やっと、僕が自分で選ぶ人生が始まる」
それは、颯にとって、最高にワクワクする転機だった。
【「現実」という壁】
しかし、現世の壁は、颯が想像していたよりも遥かに高く、そして冷酷だった。
「僧侶からの転職」――それは、平成20年の就職氷河期の余韻が残る社会において、困難を極める挑戦だったのだ。
いざ履歴書を書こうとしても、職歴欄に書けるのは「寺院副住職(僧侶)」のみ。
一般企業の面接に赴いても、面接官たちは一様に困惑の表情を浮かべた。
「僧侶、ですか……。いや、お経が読めるのは立派だと思いますが、我が社の営業や事務で、その経験がどう活かせるのかね?」
「ビジネスマナーやパソコンのスキルはありますか? 電話応対の経験は?」
矢継ぎ早に浴びせられる質問に、颯は言葉に詰まるしかなかった。
世間から見れば、自分は「社会経験ゼロの、世間知らずな若者」でしかなかったのだ。
不採用通知の紙が、部屋の机に静かに積み重なっていく。
自由を手に入れたはずなのに、自分には何一つ価値がないのではないか。
そんな焦燥感が、再び颯を支配し始めていた。
【運命のパンフレット】
初夏の風が吹く午後。颯は重い足取りで、京都の大きな書店のビジネス書コーナーを歩いていた。
何か転職のヒントになる資格はないか、藁にもすがる思いだった。
その時、平積みにされた参考書の脇にある、一冊のパンフレットがふと目に留まった。
そこには、凛とした表情で働く若者たちの写真とともに、こんな文字が躍っていた。
『職歴不問。年齢制限大幅緩和。あなたのこれまでの人生を、地域社会のために活かしませんか? ――公務員転職フェア開催』
「公務員……」
颯はその言葉を、口のなかで小さく呟いた。
民間企業のように「これまでの営業実績」や「即戦力のビジネススキル」を問われるのではない。
筆記試験と面接の人物評価によって、誰もが平等にスタートラインに立てる世界。
そして何より、お寺で培った「人の話を聞き、地域のために尽くす」というマインドが、もしかしたら一番真っ直ぐに活かせる場所なのではないか。
暗闇のなかに、一筋の明かりが見えた気がした。
颯はパンフレットを強く握り締めると、そこに記載されていた「公務員試験予備校」の門を叩く決意を固めるのだった。
――この時、颯はまだ知る由もなかった。
その予備校の教壇で、眉間に深い皺を寄せ、誰よりも熱く、重く、法律や政治・経済の講義を展開する一人の風変わりな専任講師・伊崎進という男が、自分の人生を大きく変えることになるということを。
(第1章・完)




