第8章 揺れる心
【実家の声、届いた郷愁】
渋谷で木村先輩と再会し、「公務員として街を守る建築の道」を提示されてから、修汰の心は激しく揺れ動いていた。
日々の忙しさに追われ、しばらく連絡を取っていなかった地元・大阪枚方の実家。
自分の決断を確かめるように、修汰は久しぶりに実家へ電話をかけた。
『もしもし、修汰か? どうしたん急に。元気にしとるんか?』
受話器から聞こえてきた母親の声は、以前よりも少し低く、弱々しく感じられた。
大学卒業時、建築の道を捨てて上京すると宣言した時には大反対し、激しい喧嘩をした両親だった。
しかし、電話の向こうの母親は、当時の怒りなど欠片も見せず、ただ息子の身案じに終始していた。
「うん、元気にやってるよ。おかんも親父も変わりない?」
『おかげさまでな。でもお父さんも最近、肩痛めるようになって仕事引退したんよ。家も古いからあちこちガタが来ててな……修汰が建築やってくれたら直してもらえたのになぁ、なんて冗談言っとるわ』
母親は「まあ冗談やけどな」と力なく笑ったが、その声の裏にある本音が、修汰の胸に深く刺さった。
『あんたが東京で頑張ってるのは誇らしいけど……たまには顔見せてほしいわ。こっちにもな、ええ仕事とか探せばたくさんあるんちゃうかなぁ……なんてな』
ハッキリと「帰ってこい」とは口にしない。
しかし、年老いていく両親の寂しさと、長男である自分に近くにいてほしいという願いが、言葉の端々から痛いほど伝わってきた。
(親父も、もうそんな歳なのか……。俺は自分の意地だけで、家族を置いて東京で何をしてるんだ……)
【バックミラーの視線、大物の優しさ】
実家との電話から数日後。
極秘の治療とドクターの指導が実を結び、雅子の体調はすっかり安定を取り戻していた。
酒を絶ち、表情には本来の温かみと穏やかさが戻りつつあった。
夕方、都内のTV局での収録を終え、修汰の運転する送迎用のワンボックスカーは世田谷の自宅へと向かっていた。
首都高速の渋滞の中、赤信号で車が止まると、後部座席に座っていた雅子が、バックミラー越しに修汰の顔をじっと見つめた。
「……金子ちゃん」
「はい、雅子さん。どうしました?」
「あんた、最近ちょっと顔つきが変わったね。……何か悩んでるんちゃう?」
驚いてバックミラーを見ると、雅子はすべてを見透かしたような優しい目をしていた。
修汰が言い淀んでいると、雅子はふっと和やかに微笑んだ。
「うちの前のマネージャーもそうやった。東京でうちの世話してくれてる間、ずっと実家のお母さんのこと気にしててな。……金子ちゃん、あんた無理しなくてええんよ」
「え……?」
「あんたが真面目で、うちの面倒をほんまに親身になって見てくれたこと、感謝してもしきれへん。工事現場の時も、酒で大暴れした時も、あんたは体を張ってうちを守ってくれた。……でもな、あんたの人生は、うちのマネージャーのためだけにあるんと違うよ」
【解き放たれた背中、指し示された道】
雅子はゆっくりとシートに背を預け、車窓の外に広がる東京の街並みを眺めながら言葉を続けた。
「あんた、大阪に大切なご両親がおるんやろ? 建築の勉強も、一生懸命やってきたんやろ? ……若い時の回り道は無駄にならへん。でもな、親孝行ができる時間っていうのは、限られてるんよ」
「雅子さん……」
「大阪に帰って、ご両親の近くで親孝行するのも、あんたの立派な人生の『ひとつの選択』や。うちのことは心配いらん。ドクターもついてるし、社長もおる。うちを救ってくれた金子ちゃんが、自分の本当にやりたい道で幸せになってくれる方が、うちはずっと嬉しいんよ」
芸能界のご意見番としてではなく、修汰の人生を温かく見守る一人の人生の先輩としての言葉だった。
渋谷で木村先輩から言われた「建築職公務員として街を守る道」。
枚方の両親が絞り出すように漏らした「帰ってきてほしい」という願い。
そして、目の前で自分の背中を温かく押してくれる大原雅子の言葉――。
バラバラだったパーツが、修汰の頭の中で一つに組み合わさっていく。
(俺のスキルと知識で、地元・大阪の街と市民の安全を守る。そして、両親の近くで親孝行をする――)
信号が青に変わった。
修汰はゆっくりとアクセルを踏み込みながら、力強く答えた。
「……ありがとうございます、雅子さん。もう少しだけ考えさせてください。でも……俺、自分の進むべき『設計図』が見えてきた気がします」
バックミラーの中で、雅子は嬉しそうに、満足そうに頷いていた。
金子修汰の止まっていた時間が、再び未来へ向かって大きく動き出そうとしていた。




