第6章 繰り返された過ち
【誓いの断酒、重苦しい静寂】
あの世田谷の修羅場から数か月――。
大原雅子は、言葉通り「断酒」を徹底していた。
打ち上げや番組の懇親会でも「うちは今、肝臓の数値を良くする治療中やから」と笑顔で断り、楽屋でも緑茶やミネラルウォーターしか口にしなかった。
工事現場の備品持ち帰り事件は完全に闇に葬られ、修汰と社長の決死のカバーによって、彼女の芸能生命は守られたのだ。
しかし、酒を断つということは、彼女にとって「重圧を逃がす唯一の安全弁」を失うことを意味していた。
連日のようにワイドショーやバラエティ番組で「芸能界のご意見番」として鋭いコメントを求められ、カメラの前で「強い大原雅子」を演じ続ける日々。
楽屋に戻ると、彼女は深い溜め息をつき、頭痛薬を飲む回数が増えていった。
「金子ちゃん……最近な、夜全く寝られへんのよ。目を閉じたら、あの時の警察沙汰の夢ばっかり見てな……」
修汰は建築学科仕込みの几帳面さで、彼女のスケジュールを限界まで調整し、マッサージやアロマ、温泉旅行など、あらゆるリフレッシュ策を提案した。
だが、長年酒でプレッシャーを溶かしてきた雅子の脳と心は、すり減っていく一方だった。
心身ともに極限のストレスに晒されたまま、季節は秋を迎え、雅子の誕生日がやってきた。
【華やかな宴、運命のグラス】
その夜、世田谷の雅子の自宅では、ささやかな「誕生日パーティー」が開かれていた。
参加したのは、修汰と社長、雅子の旦那様、そして長年の付き合いがあるテレビ局の幹部や大物プロデューサーたち数名、そして懇意にしている後輩芸能人。
雅子の体を気遣い、基本的にはノンアルコールの高級シャンパンやソフトドリンクが用意され、和やかな歓談が続いていた。
しかし、宴が佳境に入った頃、事態が急変する。
遅れてやってきた大物テレビ局役員が、木箱に入ったヴィンテージの超高級赤ワインを掲げて現れたのだ。
「雅子さん! お誕生日おめでとう! これね、フランスのオークションで競り落とした最高級のワインなんだよ。今日この日のために用意したんだ。さあ、一口だけでも乾杯しよう!」
「あ……ありがとうございます……。でも、うち、今はお酒を控えていて……」
雅子は戸惑い、助けを求めるように修汰と社長に視線を送った。
修汰がすぐさま間に割って入ろうとした。
「役員様、大変申し訳ありません。大原は現在、体調管理の一環でお酒を……」
だが、酒の入った役員は修汰の制止を笑い飛ばした。
「固いこと言いなよ新米マネージャー! 今日は雅子さんのめでたい誕生日だよ? ほんの舐める程度でいいんだから! これを断られたら、僕の顔がつぶれちゃうよ~」
周囲のプロデューサーたちも「まあまあ、一口くらいなら」「雅子さんの誕生日ですし!」と調子を合わせて盛り上げてしまう。
断りきれない雰囲気、世間体、そして何より長期間抑え込まれていた「酒への飢え」。
雅子は引きつった笑顔を浮かべ、差し出されたグラスを受け取ってしまった。
「……じゃあ、ほんの少しだけ……おおきに」
赤ワインが、彼女の唇を湿らせた。その瞬間、雅子の目が怪しく光った。
【解き放たれた怪物、嵐の居間】
たった一口のはずだった。
しかし、その一口が、数か月間必死に抑え込んでいたマグマのようなストレスと依存のスイッチを、完全に破壊してしまった。
「……ううん、美味しいわねぇ。……ねえ、もう一杯ちょうだい?」
「雅子さん、だめです!」
修汰が制止するのも聞かず、雅子はボトルのワインを自分でグラスになみなみと注ぎ、一気に煽った。
ワインが空になると、次は棚に飾ってあったウイスキーのボトルを掴み、ストレートで飲み干していく。
「雅子! もうやめなさい!」
旦那様が必死にボトルを奪おうとしたが、泥酔した大柄な雅子の力は凄まじかった。
旦那様を突き飛ばすと、彼女はうつろな目で豪快に笑い出した。
「ハハハ! 何がご意見番よ! 何が強い大原雅子よ! みんなうちのこと『うるさいババア』って思ってるんやろ!?」
宴の和やかな空気は一瞬で氷ついた。
客として来ていた後輩芸能人やテレビ局幹部たちが引きつった顔で見守る中、酔いが回った雅子の行動はエスカレートしていく。
「あはは! 綺麗な光! ほら、綺麗やろ!?」
雅子は突然、リビングに飾られていた高級な観葉植物の鉢植えを抱え上げると、ベランダに向かって放り投げようとしたのだ。
さらには、自身のデビュー当時の貴重なゴールドディスクの盾を壁に叩きつけようと振りかぶった。
「雅子さん、やめてくださいっ!!」
修汰は弾かれたように飛び出し、雅子の巨体に体当たりする覚悟で抱きついた。
「離しなさいよ金子ぉ! あんたかてうちのことバカにしてるんやろ!?」
「バカにしてなんかいません! 雅子さんがどれだけ頑張ってきたか、俺が一番知ってます!だから……だからもう自分を傷つけるのはやめてください!」
修汰は揉み合いになりながら、暴れる雅子を床に押さえつけた。
割れたグラスの破片で自分の腕が切れ、血が滲むのも構わず、修汰は必死に彼女を抱きしめ続けた。
やがて、修汰の必死の叫びと腕の血を見た雅子は、ハッと正気に戻ったように動きを止めた。
「……金子ちゃん……? あ……血……うち……また……」
雅子は自分の手を見つめ、そのまま崩れ落ちるように大声をあげて泣き崩れた。
パーティーは惨劇のままお開きとなり、客たちは気まずそうに逃げるように帰っていった。
破片と酒の臭いが充満するリビングで、修汰は腕の傷を押さえながら、泣きじゃくる雅子の背中を静かに擦り続けた。
ただ「やめさせる」だけでは解決しない。
この人の抱える深い闇と孤独に、自分はもっと根本から向き合わなければならない――新米マネージャーの胸に、新たな苦悩と決意が刻まれた夜だった。




