第1章 建築学科から芸能プロダクションへ
【設計図の違和感、捨て去った定規】
理系科目が得意で、物事の構造や仕組みを論理的に解き明かすことに喜びを感じていた金子修汰は、地元・大阪の私立大学建築学科に進学した。
構造計算や意匠設計、空間の色彩理論――学び始めの基礎知識はどれも新鮮で、修汰は「自分はこのまま建築家として、街に形残る仕事をしていくのだ」と疑っていなかった。
大学の講義でも優秀な成績を修め、将来を期待される学生の一人だった。
しかし、大学三年時の夏。大手建築事務所や建設会社でのインターンシップに参加したことで、修汰の思い描いていた未来はガラガラと音を立てて崩れ去った。
「金子くん、建築ってのはね、情熱やデザインだけじゃ建てられないんだよ。徹底したコスト削減、クライアントと行政との地道な調整、そして何より『安全策』を最優先にする地味な作業の繰り返しなんだ」
図面と数字に追われ、淡々と作業をこなす社員たちの背中。
そこには、修汰が思い描いていた「ゼロから新しい感動を創り出す面白さ」はどこにもなかった。
(これが……俺の人生を賭けてやりたいことなのか……?)
一度芽生えた違和感は、日に日に大きくなり、やがて胸を刺す拒絶反応へと変わった。
「建築の道に進む」というレールから降りることを決意した修汰に対し、両親やゼミの教授は大反対した。
「せっかく難関の建築学科でやってきたんだぞ! 今さら全く関係ない業界に行くなんて正気か!?」
しかし、理系特有の頑固さと鋭い観察眼を持つ修汰の心は、一度決まると揺るがなかった。
「自分が本当にワクワクできる場所で勝負したい。形に残る建物じゃなく、形のない『人の心』を動かす仕事がしたいんです」
大学卒業と同時に、修汰は引き留める周囲の声を振り切り、単身東京行きの高速バスに乗り込んだ。
【東京の喧騒、長続きしない現場】
上京した修汰は、以前から興味のあった芸能プロダクションに飛び込み、芸能人の「現場マネージャー」としてのキャリアをスタートさせた。
(人々に夢を与える仕事がしたい)
それが芸能事務所だと思った。
修汰が建築の道を捨ててまで選択したその道は、考えに考えた末の選択だったはずだった。
しかし、華やかに見えた芸能界の裏側は、建築業界以上に泥臭く、不条理に満ちていた。
「おい金子! なんで現場にこのお茶がないんだよ! やり直し!」
「昨日のスケジュール、現場の入り時間が1分遅かったぞ!」
担当したのは、売れ出し中の若手タレントや、プライドばかりが高い中堅俳優たち。
理不尽な理由で怒鳴られ、深夜までのスケジュール管理や送迎に追われ、精神と肉体を削られる日々。
人の心理を観察するのが得意な修汰だったが、わがままなタレントの「ご機嫌取り」に終始する毎日に疲弊し、どの事務所でもマネージャーの仕事は長続きしなかった。
「結局、どこに行っても自分のやりたいことなんて見つからないのか……」
東京の冷たい風が吹き抜ける港区のロケ現場の片隅で、修汰は疲れた顔で缶コーヒーを啜っていた。
二十代半ば。大学時代の同級生たちが建築業界で着実にキャリアを積んでいる中、自分だけが迷子になっているような強い焦燥感に苛まれていた。
【芸能界のご意見番、楽屋の素顔】
そんな絶望の淵にいた修汰に、劇的な運命の出会いが訪れる。
あるテレビ局の特番収録現場。
さまざまな事務所のタレントが行き交う賑やかな舞台裏で、ひときわ強いオーラと威圧感を放つ人物が歩いていた。
豪快な語り口と毒舌でテレビ画面を賑わせ、「芸能界のご意見番」として誰もが恐れる大物女性芸能人――大原雅子(仮名)だった。
かつてはミリオンセラーのヒット曲を持ち、紅白歌合戦にも何度も出場した昭和・平成を代表する昭和の大歌手であり、現在も冠番組を持ち、バラエティ番組の第一線で君臨する人物だ。
大柄な体躯と鋭い眼光。
若いスタッフやタレントたちが「怒らせたら終わりだ」と遠巻きに見守る中、偶然廊下で擦れ違った修汰に、彼女がふと足を止めた。
「あんた、顔色悪いわね。ちゃんと飯食べてんの?」
ハッとして顔を上げると、画面越しの印象とは違う、どこか温かみのある声だった。
「あ……はい、ありがとうございます。大阪から出てきて、ちょっとバテてまして……」
「あら、あんた大阪かいな! どこの出身なん?」
「枚方です」
「なにいってんの! うちも昔、門真の親戚の家によう行ってたんよ!」
同じ関西出身という親近感から、二人の会話が一気に弾んだ。
修汰が建築学科を中退同然で出てきたこと、マネージャーとしてうまくいかず悩んでいることを飾らずに話すと、彼女は豪快に笑い飛ばした。
「ハハハ! 建築からマネージャー? 変な奴やね! でもな、自分の人生、自分の好きに選んで何が悪いんよ!」
そして収録後、彼女の楽屋に呼ばれた修汰は、さらなる衝撃を受けることになる。
楽屋での彼女は、テレビで見せる「怖い大物」の顔とは正反対だった。
出入りする若いスタッフ一人ひとりに「お疲れ様、いつもおおきにね」と丁寧にお辞儀をし、楽屋のお菓子を配り、挨拶に来た新人タレントを温かく迎え入れる。気配りと礼儀正しさが徹底された、極めて誠実なプロフェッショナルだったのだ。
【差し出されたスカウト、運命の決意】
「……実はな、金子ちゃん」
お茶を飲みながら、彼女は少し困ったような表情で切り出した。
「うちの長年やってくれてたマネージャーが、先月実家に帰ることになって辞めてしもたんよ。今、代わりの人がコロコロ変わって本当に困っててな。テレビじゃ『扱いづらいババア』なんて言われてるから、みんな恐れて逃げていくねん」
彼女は修汰の目を真っ直ぐに見つめた。
「さっきあんたの顔見て、話聞いて思ったわ。あんた、根が真面目で、人のことちゃんと見てる人やろ。どうや? うちの現場、やってみへんか? 建築の頭脳があるなら、芸能界のややこしいスケジュール計算かて余裕やろ!」
大柄で威圧的な見た目の裏にある、圧倒的な優しさと人情味。
そして何より、自分という人間を正面から認めてくれたその温かさ。
これまで「ご機嫌取り」ばかりを求められてきた修汰の胸の奥で、カチリと何かが噛み合う音がした。
(この人となら……この本物のプロの隣なら、俺は本気で仕事ができるかもしれない!)
「……よろしくお願いします! 俺に、あなたのマネージャーをやらせてください!」
修汰は深々と頭を下げた。
大阪から出てきて挫折を繰り返していた男。
偶然、芸能界のご意見番という「最高のパートナー」と出会えた。
修汰は、やっとマネージャーとしての本当の挑戦へ足を踏み出すことができたと感じた。
しかしそれは、新たな苦悩の始まりであった。




