第7章 災い転じて福となす
【死線からの生還、宣告された真実】
数日後の精密検査で、医師はさらに衝撃的な事実を陽雅に告げた。
「松田さん、追加の画像診断結果が出ました。……実は、足の舟状骨と背骨のきわにも、過去の激闘による微小なヒビが見つかりました」
医師はレントゲン写真を指差し、神妙な面持ちで息を吐いた。
「ハッキリ言いますが、あの時『網膜剥離』で強制引退になっていなければ、あなたの身体は次の試合で間違いなく崩壊していましたよ。もしそのままリングに上がり続けていたら、骨が砕け、生涯残る障害を負っていた可能性が極めて高い。あの網膜剥離は……あなたの命と身体を守るための、間一髪のストップだったのかもしれません」
冷や汗が背中を伝う。
ボクシングを奪われ、神様を恨んだあの日。
だが本当は、あの絶望的な引退こそが、自分を決定的な破滅から救い出してくれた「救いのゴング」だったのだ。
幸いにも、骨折は手術を要するレベルではなく、短期の入院と投薬、そして徹底した安静によって快方に向かった。
痛みが日に日に引いていく中で、陽雅の脳裏に、すっかり忘れていた「ある記憶」が鮮烈に蘇ってきた。
【心斎橋の老占い師、予言の記憶】
引退を余儀なくされるほんの少し前――。
全日本ランカーとして絶頂期にいた陽雅は、ボクシングジムの仲間に強引に連れられて、心斎橋の喧騒から少し外れた路地裏にある小さな「占いの館」を訪れたことがあった。
そこにいたのは、今にも消えてしまいそうなほど小さく老いた女性の占い師だった。
陽雅の手相と生年月日を見たその老占い師は、皺くちゃの顔を歪め、静かだが重みのある声でこう言ったのだ。
『お兄さん、あなたは近いうち、人生を揺るがす大きなアクシデントに見舞われるよ』
当時の陽雅は「縁起でもない」と鼻で笑った。
しかし、占い師は静かに首を振り、陽雅の痛む拳を優しく包み込みながら言葉を続けた。
『でもね、悲しむことはないよ。そのアクシデントは、あなたを破滅させるためのものではない。あなたを守り、まったく新しい勝利の扉を開くためのものだ。その先にはね……あなたが命を懸けるにふさわしい、最高にラッキーで、光に満ちた未来が待っているよ』
当時は気休めの出鱈目だと思い、そのまま記憶の底に埋もれさせていた。
だが、今になってどうだ。網膜剥離での引退。
壊れかけていた身体。
恩師との再会と消防官への道。
そして、いま自らの身体を守り抜いて掴みかけた未来。
すべてが、あの老占い師の言葉通りに動いているのではないか――?
【通じぬ電話、届いた悲報】
「あの名刺……まだあったはずだ」
退院し、自宅へ戻った陽雅は、自習机の引き出しの奥を必死に捜索した。
雑多な書類の底から出てきたのは、少し黄ばんだ一枚のシンプルな名刺だった。
『心斎橋 易占処』
震える指でスマートフォンを取り出し、名刺に書かれた電話番号へダイヤルした。
自分の命を救い、暗闇の中で希望の光を示してくれていたあの占い師に、一言お礼が言いたかった。そして「新しい扉を開けました」と報告したかった。
しかし――。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
無機質なアナウンスが響くだけだった。
胸に胸騒ぎを覚えた陽雅は、当時一緒にその店を訪れたボクシング仲間のLINEへメッセージを送った。
『なあ、前に心斎橋で一緒に行ったあの古い占いの館、覚えてるか? 電話繋がらんのやけど』
数分後、友人から返信が届いた。
そこにあったのは、思いもよらない事実だった。
『ああ、あの占い師の老婆か? 陽雅が引退してすぐの頃、老衰で亡くなられたらしいぞ。店ももう畳んだって聞いた』
「……亡くなった……?」
スマートフォンの画面を見つめたまま、陽雅は絶句した。
もう二度と、あの温かく皺くちゃな手に触れることはできない。感謝を伝えることも叶わない。
だが、陽雅の手の中に残された名刺は、まるで「迷わず行きなさい」と語りかけているように温かかった。
(おばあさん……ありがとう。あんたの言った通りだったよ。俺のアクシデントは、俺の命を守って、新しい扉を開けてくれた)
老占い師が遺した最後の予言――『最高にラッキーで、光に満ちた未来』。
それを真実にするのは、他でもない自分自身だ。
骨の痛みはもう消えていた。
陽雅は引き出しから真新しいテキストを取り出すと、力強くペンを握り直した。
命を救われた男が、誰かの命を救う英雄になるために。
松田陽雅の心には、もう一筋の迷いも残っていなかった。




