第3章 受講料という壁
【提示された見積書、切り詰められた現実】
数日後、陽雅は緊張した面持ちで公務員予備校の相談ブースに座っていた。
担当の予備校スタッフから説明された「消防官・警察官合格コース」のカリキュラムは、まさに陽雅が求めていたものだった。
出題傾向を絞り込んだ教養試験の講義はもちろん、現役消防官の坂口から「独学では限界がある」と忠告された論作文の添削や、実技・人物面接の徹底指導まで完璧に網羅されている。
(ここならいける……! 俺の弱点を全部カバーして、消防官への最短ルートを走らせてくれる)
目を輝かせる陽雅だったが、カウンセラーが最後に提示した見積書の数字を目にした瞬間、その表情が凍りついた。
『受講料:約15万円』
(15万……!?)
陽雅は思わず喉を鳴らした。
ボクシング一筋で生きてきた陽雅は、社会人になってからも実業団の最低限の手当と、夜間の居酒屋でのアルバイトで何とか食いつないでいた。
網膜剥離で強制引退となってからは、ショックのあまり居酒屋のシフトも減らし、あてもなく自堕落な生活を送っていたため、銀行の預金残高は数万円程度しかなかったのだ。
居酒屋のアルバイトの時給と、毎月の家賃、光熱費、最低限の食費。
頭の中で素早く計算を弾くが、どう考えても二十五万円という大金を即座に捻出することは不可能だった。
【グラスを洗う手、つのる焦燥】
その日の夜、陽雅は重い足をひきずってバイト先の居酒屋へ向かった。
厨房の熱気と賑やかな客の声が飛び交う中、陽雅は無心でビールグラスを洗い続けた。
(15万……。実家の親に頼むか? いや、ボクシングをやると言った時も大反対されたんだ。網膜剥離で引退して、今さら『公務員になりたいから金を貸してくれ』なんて、口が裂けても言えるわけがない)
自分の不甲白さに、唇を強く噛み締める。
せっかく吉岡先生から新しい人生の目標をもらい、現役消防官の坂口から背中を押してもらったというのに、目の前に立ちはだかったのは「金」という冷酷な現実だった。
「松田、手が止まってるぞ! 2番テーブルの生追加な!」
「あ、すいません! すぐ行きます!」
店長の声に我に返り、ジョッキにビールを注ぎながら陽雅は焦りを募らせた。
シフトを増やして金を貯めてから予備校に通うか?
だが、そんなことをしていたら今年の試験には到底間に合わない。
独学で時間を無駄にするか、金の壁に阻まれて諦めるか。
(冗談じゃない……! 拳を奪われて、今度は金がないからって『命のリング』に立つことすら諦めるのか!? そんなダサい終わり方、絶対嫌だ……!)
【覚悟のシフト、泥臭い再起】
閉店後、静まり返った店内でパイプ椅子に腰掛け、陽雅は店長に深く頭を下げた。
「店長、お願いがあります。来月から、シフトを極限まで増やしてください。昼間のランチ帯も、夜の仕込みも、何でもやります」
店長は驚いた顔で陽雅を見つめた。
「どうした急に? お前、ボクシング辞めてからずっと元気がなかったのに」
「俺……消防官になりたいんです。人の命を救う仕事に就きたいんです。そのために予備校に通いたいんですが、受講料が足りなくて。分割払いでも何でも使って、絶対に通い切りたいんです!」
まっすぐ自分を見つめ返す陽雅の瞳に、かつてリングの上で放っていたあの熱い光が戻っているのを、店長は見逃さなかった。
「……フッ、なんだよ。やっといい顔に戻ったじゃねえか」
店長は笑うと、陽雅の肩をポンと叩いた。
「分かった。店長権限でシフトはギリギリまで入れてやる。その代わり、バイトも勉強も手を抜くなよ? 消防官になったら、うちの店に飲みにして来い!」
「店長……! ありがとうございます!」
金はない。貯金も底をついている。
だが、泥水をすすってでも、身体を壊す寸前まで働いてでも、このチャンスを絶対に手放さない。
分割払いの手続きを行い、昼は予備校と勉強、夜は居酒屋で限界まで働く過酷な「二足の草鞋」を履く覚悟を決め、松田陽雅の本当の挑戦が、ここから加速しようとしていた。




