第2章 新たな難敵
【文字のパンチ、見えない敵との闘い】
吉岡先生との再会から数日後。陽雅は意気揚々と大きな書店に足を踏み入れ、公務員試験のコーナーへと向かった。
消防官試験(高卒程度〜大卒程度)の出題範囲を調べ、まずは基本となる「数的処理」「文章理解」「社会科学」のテキストを各一冊ずつ購入。
アパートの部屋に戻ると、さっそく新品のテキストをデスクに広げた。
「よし、ボクシングのロードワークと同じだ。毎日こつこつやれば絶対に解けるようになる!」
気合は十分だった。
しかし、一ページ目をめくった瞬間、陽雅の動きが固まった。
「……なんやこれ。XとYがなんでこんな動きするねん……?」
数式や図形が複雑に絡み合う数的処理の問題。
暗記しようにも専門用語が脳を滑り落ちていく社会科学。
長文の文脈が全く頭に入ってこない文章理解。
小学校から大学、そして社会人に至るまで、人生の全情熱と時間を「ボクシング」だけに捧げてきた陽雅にとって、机に向かって文字と格闘する作業は、これまで経験したどんな過酷な減量やスパーリングよりも苦痛だった。
一週間、必死に机にかじりついたものの、テキストの内容はさっぱり理解できず、何一つ頭に残らない。
焦りと挫折感が、暗い影となって陽雅に襲いかかった。
あと、ひたすら眠気に襲われた。
陽雅にとって、消防官試験の筆記試験の学習は、とんでもなく苦痛だった。
【現役消防官の助言、独学の限界】
「先生……すみません。勉強が、全然あきません……」
八方ふさがりになった陽雅は、再び吉岡先生に相談を持ちかけた。
吉岡は苦笑いを浮かべながらも、「まあ焦るな。現役の現場の声を聞いてみろ」と、かつての教え子であり、現在は地元で活躍する現役の消防官・坂口を紹介してくれた。
非番の日に時間を作ってくれた坂口は、陽雅の買ったテキストを一通り眺めると、親身な眼差しで語りかけた。
「松田さん、ボクシングのチャンピオンだったそうですね。運動能力や体力試験に関しては何の心配もないでしょう。ただ、学科試験について正直に言いますね」
坂口はコーヒーカップを置くと、真剣な表情になった。
「勉強『だけ』なら、根気よく時間をかければ独学でもなんとかなるかもしれません。でも、解法パターンを知らないまま一人で一から解き明かそうとするのは、あまりにも効率が悪すぎます。消防の筆記試験は時間との勝負ですから」
陽雅は思わず身を乗り出した。
「さらに言えば、独学の最大の落とし穴は『論作文』と『面接対策』です。消防官の採用試験では、現場での不屈の精神や協調性、人間性を問う面接の配点が非常に高い。文章の書き方や面接での自分自身のアピール方法は、客観的にプロの目で指導してもらったほうが絶対に良いです。独学で自己満足の対策をして落ちていく受験生を、僕は山ほど見てきましたから」
【プロのセコンドを求めて】
坂口の言葉は、ボクサーとして生きてきた陽雅の胸に強く刺さった。
(ボクシングだって同じだ。どれだけ素質があっても、独学で我流のパンチを打っているだけじゃ全日本ランカーにはなれなかった。名セコンドがいて、正しいフォームと戦略を教えてくれたから勝ち上がれたんだ)
公務員試験という未知のリングで勝つためにも、自分には信頼できる「プロのセコンド」が必要不可欠なのだと、陽雅は深く納得した。
「坂口さん、ありがとうございました。自分の弱点を認めて、正しいやり方を教わってきます」
「応援していますよ、松田さん。今度は消防の現場で、一緒に『命のリング』に立ちましょう」
現役消防官との熱い握手を交わした陽雅は、迷いを完全に振り払った。
一人で悩み、無駄な時間を過ごすのはもう終わりだ。
教養試験の最短ルートを教えてくれ、論作文や面接で己の熱意を100%伝える術を叩き込んでくれる場所――。
陽雅はスマートフォンの画面を開き、実績のある公務員予備校の相談予約フォームへ迷いなくアクセスした。
かつてリングのセコンドを信頼して戦い抜いたように、今度は公務員試験のプロのもとへ弟子入りすることを決意して。




