第3章 かつての市役所の幻影
【悪夢の回廊、漆黒の市役所】
その夜、誠治は重苦しい金縛りのような眠りの中で、忘れようとしても消えなかった「あの地獄」の夢を見た。
夢の中の市役所は、照明が半分落とされたように薄暗く、冷たく乾いた空気が立ち込めていた。
すれ違う職員たちは皆、顔色を失い、お互いに視線を合わせようともしない。
本庁舎の巨大なモニターには、冷酷な笑みを浮かべた上條市長の顔が映し出され、朗々とした声が庁舎内に響き渡っていた。
『公務員にぬるま湯は許されない。これより我が市は、真の淘汰を開始する――』
画面が切り替わり、新たに制定された「職員基本条例」の冷酷な条文が、誠治の目の前に巨大な文字となって迫ってくる。
【相対評価制度(強制配分)の導入】
どれほど真面目に働き、どれほど市民に寄り添おうと関係ない。
全体の一定割合(%)には、絶対に「最低のD評価・E評価」を割り振らなければならないという悪魔のシステム。
昨日まで助け合っていた隣のデスクの同僚が、自分がD評価を回避するための「ライバル」へと変わり、職場から信頼と温もりが一瞬で蒸発したあの日。
『浜崎さん、申し訳ない。誰かを落とさなきゃいけないんだ……』
苦渋の表情で低評価のシートを突きつけてくる上司の影。
そして、画面は最も恐ろしい条項へと移り変わる。
【分限免職要件の明確化】
懲戒処分ではない。
単に「勤務成績の不良」や「適性の欠如」という主観的なレッテルを貼り、研修という名の一方的な指導を経て、合法的に公務員を解雇(分限免職)できる仕組み。
『浜崎さん。あなたの精神状態とミス率では、分限免職の対象として手続きを進めざるを得ません』
『自ら退職を選べば、まだ傷は浅くすみますよ』
暗い会議室で、冷徹な人事担当者に囲まれ、両脇から退職届の紙を突きつけられる。
パソコンの画面には、毎分のように届く「まだ辞めないのか」「税金の無駄遣い」という無機質な嫌がらせメールの通知音が、ピコン、ピコンと頭の奥で鳴り止まない。
「嫌だ……俺は、父さんの介護を……俺は真面目に……!」
声を上げようとしても、喉が固まって音が出ない。
冷たい汗が全身から噴き出し、視界が真っ暗な奈落へと落ちていく――。
【覚醒と夜明け、過去の呪縛を断つ】
「――ハッ……!!」
激しい動悸とともに、誠治は跳ね起きるように目を覚ました。
呼吸は荒く、着ていたパジャマは絞れるほどの冷や汗でぐっしょりと重く濡れていた。
暗闇の中、自分の荒い息遣いだけが部屋に響いている。
手足の震えを抑えながら、誠治はゆっくりと周囲を見回した。
そこはあの恐ろしい市役所の庁舎ではない。
亡き両親と暮らし、父親を介護し抜いた、静かな生駒の自宅の和室だった。
窓の隙間から、うっすらと群青色の夜明けの光が差し込んでいる。
「夢……か……」
胸に手を当て、深く、深く呼吸を繰り返す。
十数年が経った今なお、上條市長が持ち込んだ「職員基本条例」と、相対評価の恐怖、分限免職の脅迫は、誠治の魂を縛り付ける深い傷として残っていたのだ。
誠治は濡れたパジャマを脱ぎ捨て、顔を冷水で洗い流した。
鏡に映る自分の顔を見つめる。
髪には白髪が目立ち、目元には苦労の刻まれたシワがある。
だが、その目の奥には、夢の中の絶望に怯えていた過去の自分とは違う、小さな火が灯っていた。
(あの時、俺は制度の暴力に押し潰された。でも……俺は逃げ出したんじゃない。限界まで父さんを守り、窓口で市民と向き合い切って、倒れたんだ)
上條市長たちの作った冷酷な指標では「低評価」だったかもしれない。
だが、介護と仕事の地獄の中で最後まで踏みとどまった自分の生き様まで、彼らに否定される筋合いはない。
誠治は真新しいTシャツに着替えると、机の上の教養試験のテキストを開いた。
外からは、朝の訪れを告げる鳥の声が聞こえ始めている。
「もう、あの悪夢には脅かされない」
過去の呪縛を完全に断ち切るように、誠治はペンを取った。
かつて自分を打ちのめした「行政」という仕組みの理不尽さを知っているからこそ、今度は真に困っている人々に寄り添う国家公務員になる。
悪夢の汗を拭い去った誠治の手は、もう二度と震えていなかった。




