第2章 50代でも公務員になれる?
【失われた十年、止まっていた時計】
市役所を辞めてからの約十年は、誠治にとって記憶が曖昧になるほどの暗闇の時代だった。
退職金を切り崩しながら父親の在宅介護を続け、数年前に父親を看取った。
残されたのは、かつて両親と暮らした静かすぎる古い家と、五十歳を過ぎた、職歴の途切れた自分自身だけだった。
警備員や清掃の短期アルバイトで何とか日銭を稼ぎながら、ひっそりと暮らす日々。
「自分は社会から捨てられた人間なのだ」という強い挫折感が、誠治の足を重く縛り続けていた。
それでも、節約生活は貫いた。
次第に、いくばくかの蓄えができるようになった。
それでも誠治は不安だっだ。
このままで良いはずがなかった。
平成から令和へと時代が移り変わった、ある日のこと。
久しぶりに立ち寄ったハローワークの求人閲覧コーナーで、誠治の目はある一枚のポスターに釘付けになった。
『――就職資格:就職氷河期世代対象。国家公務員 中途採用試験実施』
そこには、かつてバブル崩壊後の就職難で苦しんだ世代や、様々な事情で非正規雇用や不遇のキャリアを歩んできた人々を対象とした、特例の「国家公務員採用試験」の案内が躍っていた。
年齢制限は五十代前半までカバーされている。
(就職氷河期……国家公務員……)
胸の奥深く、十数年間冷たく固まっていた何かが、微かに音を立てて熱を帯び始めた。
かつて二十代の春、自分が一度は内定を手にしながらも手放した「国家公務員」という道。
あの市役所での理不尽な仕打ち、追いつめられた日々、失われた十年。
しかし、自分には二十年以上、行政の現場で愚直に市民と向き合ってきた知識と経験がある。
「今からでも……もう一度、国家公務員になれるかもしれない」
五十歳を過ぎた浜崎誠治の瞳に、十数年ぶりに小さな、しかし強い意思の火が灯った。
止まっていた人生の時計の針が、今、再び音を立てて動き出そうとしていた。
【白紙のノート、十数年ぶりの親戚】
自宅の古いパソコンに向かい、誠治は画面を食い入るように見つめた。
『就職氷河期世代対象・国家公務員中途採用試験』。
その概要を調べるにつれ、誠治の胸の高鳴りは確信へと変わっていった。
試験科目は、公務員試験で一般的な「専門科目(憲法や民法、経済学など)」が課されず、主に「教養試験(文章理解、数的処理、時事など)」と「論作文」、そして「人物面接」で構成されていた。
二十代の頃、膨大な専門科目を徹底的に叩き込み、見事に国家二種を突破した過去を持つ誠治にとって、教養試験の出題範囲はかつて見慣れた懐かしい景色でもあった。
(専門科目がないなら、今の自分でも集中して対策すれば十分に叩き直せる。解法の手順は、まだ体が覚えているはずだ)
元々、勉強が得意だった誠治の頭脑が、長い眠りから醒めるように回転し始める。
「もう一度、行政の光の下へ戻れるかもしれない」――その期待を胸に、誠治は押し入れの奥から古びた文房具を引っ張り出し、試験対策の第一歩を踏み出そうとしていた。
【冷たい親戚、身内の現実】
しかし、その小さな決意に冷や水を浴びせたのは、最も身近な存在である親戚の言葉だった。
両親の法要の相談で訪れた親戚の叔父は、誠治が公務員試験の参考書を机に置いているのを目に留めると、呆れたように深くため息をついた。
「誠治……お前、まだそんな夢みたいなことを考えているのか?」
叔父の言葉には、どこか哀れむような、冷ややかな響きが含まれていた。
「お前は市役所で評価を落として逃げるように辞めて、そこから十年もまともな職に就いていなかったんだぞ? もう五十を過ぎているんだ。世間がどれだけ厳しいか、分かっているのか? 今さら国が、そんな空欄だらけのキャリアの人間を採用するわけがないだろう」
「でも叔父さん、これは氷河期世代を救済するための特別な制度で――」
「救済と言ったって、受かるのは非正規でもずっと真面目に民間で実績を積んできた連中だ!お前みたいは『公務員くずれ』を誰が採用するものか。よく考えろ」
叔父は誠治の言葉を遮り、強い調子で言い放った。
「無駄な悪あがきはやめておけ。また落ちて傷つくだけだ。それより、今の警備員のバイトを増やしてもらうとか、もっと地に足のついた生き方を考えなさい。それが亡くなった兄貴や義姉さんへの一番の供養なんだから」
『無駄なことはやめたほうが良い』
その言葉が、誠治の胸にぐさりと突き刺さった。
市役所を辞めてからの十年間、社会から取り残されていた自分。
叔父の言うことは、世間一般から見ればぐうの音も出ないほど正論だった。
かつて「一生安泰」と喜んでくれた両親はもういない。
自分を応援してくれる人間など、この世界に一人もいないのではないかという孤独感が、重く重くのしかかってきた。
【父の残像、捨てきれぬ誇り】
親戚が去った後、誠治は薄暗い仏壇の前に一人静かに座り込んだ。
遺影の中の両親は、二十代で公務員に合格した時のあの誇らしげな笑顔のまま、誠治を見つめている。
(……やっぱり、俺のやってきたことは全部無駄だったんだろうか。市役所を追われ、介護に追われ、何も残せなかった俺が、今さら国家公務員を目指すなんて身の程知らずなんだろうか)
膝の上で強く握りしめた手が、悔しさと情けなさで小さく震える。
だが、その時、認知症を患っていた晩年の父親の姿が脳裏に浮かんだ。
正気を失いかけていた父が、時折ふと思い出したように誠治の手を握りしめ、「誠治は立派な役人だ、みんなの役に立ってるんだ」と呟いていたあの声を。
(俺は……本当に市役所で無駄な時間を過ごしたのか?)
品の悪い市民からの理不尽な暴言に耐え、泥臭く窓口で話を聞き続けた二十年。
介護と仕事の板挟みになりながら、それでも必死に制度を調べ、誰よりも福祉の現場の痛みを身をもって知ったあの時間。
上條市長からは「低評価」の烙印を押され、陰湿なメールで追い詰められたが、自分は決して市民を裏切ったことも、手抜きをしたこともなかったはずだ。
「無駄じゃない……。俺の二十年は、決して無駄なんかじゃなかった」
誠治は仏壇に向かって深く頭を下げると、ゆっくりと立ち上がった。
誰に反対されようと、誰に嘲笑われようと構わない。
これは単なる再就職の試験ではない。理不尽に奪われた自分の人生の誇りを取り戻すための、最初で最後の「戦い」なのだから。
誠治は机に向かい、真新しいノートを開いた。
ボールペンを握る手に、力強く力がこもる。五十歳を超えた元市役所職員・浜崎誠治の、孤独で静かな逆転劇が、ここから静かに始まろうとしていた。




