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第1章 失われた10年

【青年と栄光、栄華の始まり】


 昭和の熱気が残る平成初期。

 大学四年の春、浜崎誠治はまさき せいじは人生の絶頂期にいた。

 人柄の良さと真面目さを買われた誠治は、厳しい公務員試験を突破し、国家公務員二種(現在の国家一般職)と、地元関西の政令指定都市の市役所の双方から見事に内定を勝ち取ったのだ。


 「誠治、ようやったな! これで一生安泰や!」


 一人息子である誠治の快挙に、両親は手を叩いて喜んだ。

 誠治は悩み抜いた末、生まれ育った関西の街に貢献したいという強い思いから、市役所への入庁を決断した。

 真新しいスーツに身を包み、市役所の門をくぐったあの日。誠治の胸は、市民の役に立ちたいという純粋な希望と志で満ちあふれていた。


【窓口の喧騒、削り取られる心】


 しかし、現実は甘くなかった。

 誠治が配属されたのは、窓口業務や福祉関連の部署だった。

 そこで待っていたのは、市役所を「何でも屋」と勘違いし、理不尽な要求を叩きつけてくる粗暴な市民たちとの日常だった。


 「ワシの税金で食うとるくせに、何やその言い草は! 責任者出せ!」

 「お前ら公務員は楽して高い給料もらいやがって! 俺の言う通りに動け!」


 怒号、暴言、机を叩く音。

 誠治の持ち前である「優しさ」と「人の話を親身に聞く姿勢」は、そうした品の悪いクレーマーたちにとって格好の標的となってしまった。

 毅然とした態度で跳ね返すことができず、相手の悪意を真っ向から受け止めてしまう誠治は、夜遅く一人で残業をしながら、次第に心をすり減らしていった。


 それでも、幼い頃から自分を温かく見守ってくれた両親の笑顔を思い浮かべ、誠治は歯を食いしばって耐え続けた。

 「これが市民に奉仕する仕事なのだ」と自分に言い聞かせながら、二十年近くの年月が静かに流れていった。


【暗雲と介護、独りきりの戦場】


 人生の牙が誠治に襲いかかったのは、彼が四十歳を迎えた頃だった。

 長年、家庭を支えてくれた母親が突然の脳血管疾患で倒れ、一命は取り留めたものの、寝たきりの生活を余儀なくされたのだ。

 一人息子の誠治は、市役所で介護休暇を取得し、慣れない介助と仕事の往復に奔走した。

 しかし、懸命の看護も虚しく、それから間もなく母親は息を引き取った。


 悲しみに暮れる暇もなく、さらなる絶望が誠治を襲う。

 最愛の妻を失ったショックからか、今度は高齢の父親に重度の「認知症」の症状が出始めたのだ。


 「誠治……母さんはどこに行った? なんで帰ってこんのだ?」


 夜中に何度も同じ問いを繰り返す父親。

 徘徊や幻覚に対応しながら、昼間は市役所の窓口で市民の罵声を浴びる。

 一人っ子である誠治には、重荷を分け合える兄弟もいなかった。

 また、ずっと独身のままきてしまった。

 精神的にも肉体的にも限界を迎えた誠治の頭の中は常に霞がかかったようになり、復帰後の職場でも、これまででは考えられないような書類の記入漏れや事務ミスが頻発するようになっていった。


【上條改革、追いつめられた末路】


 そんな誠治の絶望に追い打ちをかけたのが、新しく就任した「上條市長」だった。

 「市政改革」「公務員天国の打破」をスローガンに掲げて当選した上條は、職員への締め付けを急激に強めた。

 業務効率化と成果主義を名目に、ミスを犯した職員や体調を崩した職員を排斥する冷酷な格付け制度を導入したのだ。


 介護疲れでミスを重ねていた誠治は、すぐさま職員評価で「最低評価」を言い渡された。


 「浜崎さん。あなたの業務効率の悪さは、市民の税金の無駄遣いです」


 上司からの冷ややかな視線。

 それだけにとどまらず、誠治のパソコンには、人事担当部署や改革推進室から、毎日のように露骨で陰湿なメールが届くようになった。


 『本日のあなたの評価は最下位です。組織の足引っ張りにしかなっていません』

 『自己の適性を再考し、早期の出処進退を検討してください』

 『まだ辞めないのですか?』

 『空気を読めないみたいですね。いい歳して』


 画面に浮かぶ冷酷な文字の群れ。

 介護でボロボロになった心に、それはあまりにも残酷なナイフだった。

 父親の介護費用を稼がなければならない。

 しかし、職場に自分の居場所は全く残されていなかった。

 毎朝、市役所の庁舎を見上げると激しい吐き気に襲われる。


 「……もう、無理だ……」


 四十代半ば。誠治は失意の中、退職届を提出した。

 二十年以上捧げてきた市役所を、逃げるように去っていく誠治の背中に、温かい言葉をかけてくれる者は誰もいなかった。

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