第8章 筆記試験後の悩み
【本試験の暴風雨、虚空の解答用紙】
平成25年、初夏。
ついに国税専門官の本試験の日がやってきた。
張り詰めた空気の試験会場で、潤一郎はこれまで「新しいネタ帳」として血の滲むような思いで暗記してきた専門科目の問題冊子を開いた。
しかし、目の前に並ぶ難解な経済学の問題や、複雑な会計学の問題は、全くといっていいほど分からなかった。
(……アカン、全然頭に入ってこない。どれもこれも 難しい。選択肢の二択まで絞れても最後の一つに絞れない……!)
あっという間に終了のチャイムが鳴り響く。
筆記試験を終えた潤一郎の胸に残ったのは、あの相方に裏切られたことを知った日の夜のような、全く手応えのない空虚感だけだった。
翌日、潤一郎は震える手で予備校の速報をパソコンに表示させ、答え合わせ(自己採点)を始めた。結果は惨憺たるものだった。
「……半分も、正解できてへんやんか……」
正答率は4割少し。
自習室のデスクで頭を抱え、潤一郎は深く落ち込んだ。
民間企業の面接を落ちまくったあの悪夢が蘇り、目の前が真っ暗になりかけた。
【進のダメ出し、芸人の引き際】
うなだれる潤一郎を、進はいつものように個別の面談ブースへと呼び出した。
自己採点シートを見つめる進の眉間には、相変わらず深い皺が刻まれている。
「伊崎先生、すいません……。半分も取れませんでした。やっぱり、僕みたいな勉強ブランクのある人間に国税は高すぎた壁やったんですかね……」
弱音を吐く潤一郎に対し、進は眼鏡をゆっくりと外すと、珍しくふっと笑みを浮かべ、芸人である潤一郎に合わせた例えで語りかけ始めた。
「渡辺さん。あなたはお笑いの舞台で、客席の『ウケ具合』が半分以下だったからといって、その場でネタを放棄してステージを降りましたか?」
「え……? いや、それは最後までやりきりますけど……」
「そうでしょう。お笑いなら、平日の昼寄席で冷え切った客席なら、二割、三割笑わせるだけでも『大健闘』と言われる日があるはずです。公務員試験も全く同じですよ」
進はチョークを持ち、ホワイトボードに大きく「4割」と書き込んだ。
「国税専門官の専門試験は難易度が非常に高いんです。実は『四割』得点できていれば、一次合格の可能性が十分にある試験なのです。半分近く取れているあなたは、現時点で合格可能性はかなり高いです。客席が静まり返っているのは、周りの受験生もいっぱいスベっているんです」
【客席のアンケート、次なる出番の構成案】
進の芸人ならではの例え話に、潤一郎の凍りついた心が少しずつほぐれていく。進は言葉を繋げた。
「落ち込んでいる暇はありません。数日後には、うちの予備校から『受験者アンケート』の集計データが出ます。これが出れば、あなたが全体の受験生の中で『どの位置(順位)』にいるのかがほぼ正確に分かります。そのポジション次第で、次に行われる二次試験の個人面接で、どのランク(評価)が必要になるのかが明確に見えてくるのです」
進はノートを力強く叩いた。
「もし筆記がギリギリのポジションなら、面接で『A』か『B』という高評価をもぎ取って逆転する必要があります。ただ、筆記試験が余裕なら、『C』でも合格です」
潤一郎が目を見開いた。
進は続ける。
「DやEが付いたら足切り不合格です。でも、それはないと思います。渡辺さんの持ち味をしっかり出して、面接官にしっかりアピールです。気を取り直して、面接の『ネタ合わせ』を始めましょう!」
「……はい! お願いします!」
半分しか取れなかったという絶望は、進の言葉によって「まだ逆転できる後半戦」へと昇華された。
客席が冷えているなら、次のフリートークで全員を爆笑させてひっくり返せばいい。
元芸人・渡辺潤一郎の胸に、かつてない泥臭い闘志が再び燃え上がる。
彼は深く息を吸い込むと、面接官の心を掴むための新しい「台本」を作るべく、力強くペンを握り直すのだった。




