第5章 新しいスタート
【冷たい門前払い、そして京都の扉】
公務員への転身を決意した潤一郎は、さっそくいくつかの大手公務員試験対策予備校へ、受講相談に足を運んだ。
しかし、現実は甘くなかった。
民間企業での勤務経験がない「元芸人」という特異な経歴を前に、多くの予備校の窓口担当者は一様に難色を示した。
「渡辺さん、公務員試験は筆記だけでなく、最終的には面接重視です。お笑い芸人をされていたとなると、面接官への心象という点で前例がありません。正社員の職歴がない二〇代後半からのスタートは、正直申し上げて非常に厳しいと言わざるを得ませんね……」
いくつかの学校でそんな冷たい返答をされ、潤一郎は早くも出鼻を挫かれかけていた。
やっぱり自分のような人間が目指すのは間違いなのだろうか。
そんな不安が頭をよぎったとき、かつて市役所の広報紙で見かけた、異色キャリアの合格実績を多く持つ予備校の存在を思い出した。
潤一郎は諦めきれず、その予備校の京都校へと向かった。
案内された面談室で待っていたのは、知的で落ち着いた佇まいを見せる講師の伊崎進だった。
【先人たちの足跡、師の確信】
進は潤一郎のこれまでの経歴や、相方に裏切られて芸能界を引退した経緯を、終始丁寧な敬語で、静かに相槌を打ちながら聞いてくれた。
他の予備校のように、経歴を見ただけで顔を曇らせるような真似は一切しなかった。
「元お笑い芸人、ですか。他の学校では前例がないと断られたのですね」
進は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、ふっと穏やかに微笑んだ。
「ご安心ください、渡辺さん。当校には、あなたのように『特殊な世界』から一念発起して道を切り拓いていった先人がたくさんおります。過去には、京都のお寺で副住職を務めていたお坊さんや、二十代半ばで所属球団が解散してしまった元プロ野球選手も、ゼロからスタートして見事に複数の公務員試験で合格、内定を勝ち取っていきました」
「お坊さんに、プロ野球選手ですか……!」
潤一郎は目を見開いた。
自分以上に世間一般の「ビジネス経験」から遠い場所にいた人間たちが、この予備校から公務員へと羽ばたいていったのだ。
「ええ」進は力強く頷いた。
「公務員試験は公平です。過去の職歴がどうであれ、筆記試験で点数を取り、面接で『なぜ公務員として社会に貢献したいのか』を自身の言葉で実直に伝えられれば、必ず合格できます。渡辺さんがお笑いの世界で培ってきた、言葉の重みや他者と向き合う力は、決して無駄にはなりません。私たちは、あなたのその挑戦を全力でサポートします」
【覚悟の入校】
進の言葉は、冷たい門前払いで凍りついていた潤一郎の心に、確かな灯火を点した。
ここなら、もう一度人生を賭けて勝負ができる。
問題は受講料だったが、今の潤一郎には強い味方があった。
あの理不尽な元所属事務所に対し、法律の力を借りて掛け合った末に毟り取った、あの「退職金」名目のまとまった現金だ。
若手を脅して使い捨てようとした大人たちから、正当な対抗手段で勝ち取ったその金が、今、自分の新しい人生の軍資金になろうとしていた。
「伊崎先生、ありがとうございます。自分、ここでゼロから勉強させてください」
潤一郎はバッグから、事務所から振り込まれた金の一部を納めた封筒を取り出し、入校の手続きを済ませた。
一個の塩おにぎりを喧嘩しないように具なしで分け合っていたどん底の生活。
相方に裏切られ、理不尽に違約金を迫られた絶望。
そのすべての痛みを、これからは「勉強」というエネルギーに変えるのだ。
手続きを終え、真新しい分厚いテキストを一冊受け取った潤一郎は、京都の爽やかな風が吹く通りへ出た。
残りのテキストは、郵送で自宅に届く。
もう、今日の夜から、収録された講義をパソコンで見られる。
相談は、対面でも電話でもOK。
奈良の実家に帰っても、継続できそうだった。
元芸人・渡辺潤一郎の、人生をかけた第二幕が開いた。
伊崎進という心強い羅針盤を得て、彼は今、公務員への道を、力強く歩み始めたのだった。




