第4章 新しい道
【影から届いた手、無料法律相談の光】
芸能界を去ったものの、潤一郎の悪夢は終わっていなかった。
元所属事務所からの執拗な違約金の督促。
毎日のように鳴り響く電話と、自宅に届く威圧的な内容の書面が、ただでさえ再就職先が決まらずに精神的に追い詰められていた潤一郎を、さらに深く追い詰めていった。
「渡辺、お前が逃げても相方の借金と番組の損害は消えんのだぞ。社会人としての責任を取れ」
そんな言葉に怯え、夜も眠れない日々を過ごしていたある日、実家で同居する兄が、自室で頭を抱える潤一郎の側にそっと近づいてきた。
兄は一枚の小さなチラシを机に置いた。
「潤一郎、一人で抱え込むな。これ、市役所で定期的にやってる『市民向けの無料法律相談』の案内や。お前がその事務所の言いなりになって、全額背負い込む必要なんて絶対にないはずや。一度、プロの弁護士に全部話してこい」
兄の勧めに背中を押され、潤一郎は翌週、藁にもすがる思いで奈良の市役所へと向かった。
案内された臨時の相談ブースで待っていたのは、物静かで知的な雰囲気を持つ高名な弁護士だった。
潤一郎が、これまでのコンビ解消の経緯、相方のギャラ持ち逃げ、そして事務所から連帯責任として違約金を迫られている現状をすべて話すと、弁護士は提出された督促の書類をじっくりと眺め、ふっと呆れたように息を漏らした。
「渡辺さん、安心してください。結論から申し上げますと、この違約金請求には法的な根拠が全くありません。あなたは雇用契約、あるいは専属マネジメント契約の範囲内で活動していたに過ぎず、相方の個人的な犯罪行為や失踪の損害を、あなたが個人的に連帯して賠償する義務はどこにもありません。これは、事務所側が知識のない若手を脅して、回収しやすいところから金を毟り取ろうとしているだけの悪質なケースです」
「……本当、ですか?」
潤一郎の目から、堰を切ったように涙が溢れそうになった。
「ええ。もし次に関係者が脅してくるようなら、私のこの名刺を見せて、『これ以上不当な請求を続けるなら、弁護士を通じて法的な対抗措置をとる』と明確に伝えてください。それで一発で黙るはずです」
【力関係の逆転、道頓堀の引き際】
弁護士から貰った一枚の名刺。
それは、潤一郎にとって最強の盾だった。
数日後、再び元事務所の担当マネージャーから脅迫めいた電話がかかってきた際、潤一郎は怯えることなく、凛とした声で言い放った。
「そちらの違約金請求について、市役所の法律相談で弁護士の先生にすべて書類を確認していただきました。法的な根拠が一切ない不当な請求であるとの見解をいただいています。これ以上、私に督促を続けるのであれば、こちらの弁護士に再度相談させていただきますが、よろしいですか?」
そう言って、弁護士の名前と事務所名を伝えた瞬間、電話の向こうのマネージャーの態度が、目に見えて狼狽したものへと一変した。
「あ、いや、渡辺……そこまで大ごとにせんでもな? ちょっとこっちも確認するわ」
その日の夕方、今度は事務所の幹部から直接、手のひらを返したような丁寧な連絡が入った。
彼らは、もしこの件が公になり、「若手芸人に不当な違約金を脅し取ろうとしていた」と世間に漏れれば、事務所の看板に致命的な傷がつくことを何よりも恐れたのだ。
「渡辺くん、今回のことは、お互いに大ごとにせず内密ということで手を打たないか。こちらも請求はすべて取り下げる。それどころか……これまでの君の体を張ったロケへの貢献度を考慮して、ささやかではあるが『退職金』という名目で、これまでのギャラの清算分を上乗せして支払わせてもらう」
後日、潤一郎の口座には、これまでの苦労が嘘だったかのような、まとまった額の現金が振り込まれていた。
理不尽な芸能界の裏側と、法律という「知識」が持つ圧倒的な力。
それを身を以て知った潤一郎は、安堵すると同時に、社会の仕組みの凄まじさを痛感していた。
【広報紙の一閃、ロックスターの転身】
違約金の呪縛から解放され、ようやく本当の意味で前を向けるようになった潤一郎は、市役所を訪れた際にもらってきた広報紙を眺めていた。
手続きの待ち時間、ロビーのラックに置かれていた市民向けの広報紙を、何気なく手に取ってパラパラとめくった。
その中の、ある「キャリアチェンジ」に関する特集記事に、潤一郎の目は釘付けになった。
『夢のステージから、都民を守るステージへ――元ミュージシャンが語る、東京都庁職員としての誇り』
そこには、かつてバンドマンとして激しいロック音楽を鳴らし、メジャーデビューを目指して尖った生活を送っていたという男性のインタビューが載っていた。
夢破れた彼が、一念発起して公務員試験に挑み、現在は都庁の職員として、文化振興や市民サービスの最前線で堂々とスーツを着て働いている姿が、鮮烈な写真とともに紹介されていたのだ。
(ミュージシャンから……公務員に?)
潤一郎の胸の中で、何かが激しく弾けた。
自分はこれまで、「お笑いしかしてこなかった自分には、民間企業の営業も事務も無理だ」と、勝手にセカンドキャリアの限界を決めていた。
しかし、公務員試験という舞台は、過去の職歴や経歴に関係なく、試験の点数と本人の熱意だけで平等に評価してくれる場所なのだ。
このミュージシャンのように、特殊な世界から飛び出してきた人間でも、努力次第で人生を完全にやり直せる。
(お笑い芸人だって、死ぬ気で勉強すれば、公務員になれるんじゃないか……?)
今回の法律相談で、市役所という場所が、理不尽に泣かされている市民をどれほど力強く救ってくれるかも実感したばかりだった。
今度は自分が、あの弁護士や市役所の職員のように、公共のために働きたい。
潤一郎は広報紙をしっかりと握りしめ、市役所のロビーを力強く歩き出した。
一個の塩おにぎりを半分に分け合っていたどん底の元芸人・渡辺潤一郎が、今、人生という名の舞台の「第二幕」を開けるため、公務員試験という新たな戦場へ向けて、その第一歩を踏み出そうとしていた。




